1-1 深夜のバイト
終電も近くなった夜半過ぎ。
オフィス街の街路樹を冬の冷たい風が揺らした。
道を歩く人は疎らで、灯る明かりも数える程しかない。
残業を終えた社員たちが一人二人とふらつきながら帰る頃、とあるビルでは電気が落とされて暗くなった社内を二人の警備員が巡回していた。
「この時間が一番眠いんだよなぁ」
怠そうに呟いたのは背の低い初老の男。
適当にゆらゆらと懐中電灯の光を壁に写しながら、大きな欠伸をして隣にいる青年を見上げた。
青年の背丈は180を越えているだろう。手足はすらりと伸びていて、一見今時の軟弱な若者にも見える。
しかし、時折覗く前腕や首元は筋肉質で、青年の身体が程よく鍛えられているというのが良くわかった。
「俺はこれぐらいの時間が一番動きやすいですよ」
懐中電灯を照らし、丁寧に施錠の確認をしながら、青年は大きくて丸い瞳を少しだけ細めて人当たりの良い笑顔を男に向けた。
胸のネームタグには「白浜弥一」と書かれている。
青年の名前だ。
「ああ、君はまだ若いからそんな事が言えるんだよ。……それに噂聞いてるだろ?」
「何のです?」
「ああ、白浜君は知らないんだ」
そう言って男は両手を下げて見せた。
「幽霊だよ。ここ、やたら時給高かったでしょ?」
「なんだ、そんな事ですか」
ははは、と弥一が軽く笑うと、男は少し呆れたように肩をすくめた。
最近の若い者は怖い物知らずだ、とでも言いたそうに、男が大きな溜息を吐く。
「そういえば、白浜君は今日で終わりなんだっけ。なあ、もうちょっと居れば?」
「担当の人からもそう言われたんですけど、すみません。次のバイト決まってるんです」
「残念だなあ。まあでも、ちょっと考えてみてよ」
若くて人当たりも良く、身体も鍛えられている。
その上、幽霊の類を信じない。こんな人材を簡単に手放したくは無かったのだ。
駄目元で言ってはみたものの、弥一は再び「すみません」と申し訳なさそうにするだけであった。
施錠の確認が終わり、次のフロアへ移動する途中で男がまた欠伸をかく。
強い眠気の中では懐中電灯の光で線を描くがやっとなのか、作業指示書を眺めながら進んでいく弥一を男はぼうっと見つめていた。
それを察した弥一が、立ち止まって男に視線をやる。
「大丈夫ですか?先に仮眠行きます?もうここだけですし」
「ああ、それじゃあ頼む」
対して悪びれる様子もなく、即答だった。
きっと言われるのを待っていたのだろう。
男は軽く頭を下げると、そそくさと非常階段へ向かった。
「おやすみなさい」
その言葉は届いていなかったのか、返事もなく足早に階段を降りていった男の姿はすぐに見えなくなった。
一人残された弥一が、再び歩き始める。
広くて薄暗い、それでいて仄かに油の匂いがするここは、社員食堂である。
街を一望できる広い窓を横目に、整えられた椅子とテーブルの合間をぬって懐中電灯を照らしていく。
こんな時間なのだから人が居ないのは当然なのだが、一応はそれを確認する。
キッチン内の施錠や電源を確認した後、もう一度食堂内を一周してから、出入口へと向かった。
ふと、弥一が歩みを止める。
ほんの僅かだが人の気配がするような気がしたのだ。
後ろを振り返り、光を照らす。
襟足の辺りに薄ら寒さすら感じて、弥一は太い眉を顰めた。
「誰かいるんですか?」
誰もいない、広い食堂内で静かに呟く。
声を荒げていないのに、それは隅まで響いたような気がした。
当たり前だが返事は無い。
軽い溜息を吐いた後、弥一は懐中電灯を握り直して、振り返った。
瞬間、懐中電灯の丸い光が細長い紐状の影を捉える。
「ふふふ」
男とも女とも判断できないその笑い声は、影の上から聞こえた。