聖女、未だ帰らず
瘴気とは、そもそも何であるのか。
教会の教義では、遥かな昔、勇者によって斃された魔王の遺体から湧き出ているもの、とされている。だからこそ魔物に馴染み、強化するのだ。
慈悲深い神は魔王の残滓が未だ人々を苦しめていることを憂い、清らかな乙女を妻とし、聖なる力を授けて人々を救う使命を与えた。
それでも、妻となった聖女の現世での幸福を考慮なされた神は、聖なる力を行使できる期間を定められたのだ。
あくまでも教会の教義である。
ようするに、よくわからない力をよくわからない力で消しているのをそれっぽく言っているのが教義というわけだ。魔王の遺体から出ているとなれば魔王どれだけでかいんだ、という疑問や、勇者もちゃんと後始末しろよ、なんてごもっともな意見は誰にでもあるだろう。
教会は人々の心の救済をする場である。わからないなりに説明して安心させなければならなかった。信仰を失われても困る。
フルホネット公爵領に行った聖女は、冬になっても帰ってこない。
「一度浄化された場所から再度魔晶石が発見されている」
教皇が重々しい口調で召集した枢機卿たちに告げた。
教皇御前会議。大聖堂聖女宮の反対側に位置する会議堂に集まった男たちの顔はどれも暗かった。
「しかも、端から端を横断するように離れた場所で、だ。小賢しいことをする」
声を荒げた教皇に代わって、ギルバートが口を開いた。
「魔晶石そのものは小さくとも瘴気の塊です。放置はできません。また、浄化した地が再び瘴気に襲われていることで、聖女への不信感が芽生えているようです」
聖女への不信、という言葉に枢機卿がざわめいた。
彼らは揃ってティアナを孫のようにかわいがっているものばかりである。
およそ五十年ほど前に現役だった先代聖女が、聖女を使って民衆を食い物にしようと企んでいた堕落した聖職者をことごとく『祝福』した。それが彼らである。
改心させられた彼らは今まで不正で得ていた身分や財を教会に返上し、一神官に戻ってやりなおした。
神に懺悔を捧げ、汗水たらして働くことを厭わず、そうしてもう一度登り詰めたのだ。生半可なものではない。それだけ優秀で、根性があった。
新しく聖女になったティアナはその経緯を聞き、反省と努力を認め、受け入れてくれた娘なのだ。
――酸いも甘いも噛み分けた爺ちゃんたちかぁ、なんか強そうだね。頼りにしてるよ。
めちゃくちゃ率直に彼らを表した言葉である。ティアナは嫌悪の欠片も見せなかった。
人の闇を一時とはいえ覗き込み進んで身を浸していた彼らに、それがどれほど尊く、救いになったことだろう。
思えば先代聖女は祝福以来顔を合わせることも声をかけられることもなかったが、彼らのやり直しを咎めることもなかった。聖女がひと言言えば簡単に破門にさせられるのに、やり直しを認めてくれたのだ。
いとやさしく慈悲深い我らの聖女。欲望が突き抜け一周回って無になった枢機卿たちこそ、聖女親衛隊である。なお平均年齢六十歳。
そんな爺さんたちが、聖女不信などという不届きな言葉を聞いて黙っていられるはずがなかった。
「ほう……。どうやら調子に乗っている輩がいるようですな」
「教会を敵に回すなど、よほど自信があると見えるの。うむ、それならばこちらにも考えがあることを見せねばなりませんなぁ」
「まずは市場ですな。聖女の浄化に頼っておきながら聖女を愚弄するなら聖女が清めた地で作られた食糧など必要ありますまい」
「冒険者ギルドへの回復魔道士の派遣も控えさせましょう。光魔法の使い手は教会の所属。格安で回復していたのは聖女様の負担を減らすためでもありますのに。まったく嘆かわしい限りですわ」
さすが枢機卿、あくどいことを言ってのける。
しかしこれでも彼らの善意であり、救済でもあった。
本気で聖女を侮辱するならこれ以上の手が打てるのが教会だ。聖女に不敬を働いた村だと大々的に通達すれば、国内どころか外国からも総叩きにあう。その村に住む者だけではなく出身者、血縁、婚姻関係に至るまで、ありとあらゆるところから迫害されるだろう。
そして教会のもっとも大切な仕事の一つである、結婚式については言及していない。民にとって一番効果的なのがこれだ。教会に認められない結婚では子供が生まれても私生児にされる。何の権利も与えられないのだ。罰としてはもっとも重い。
枢機卿たちは彼らの良心に従い、領主による救済ができる手段を取った。
「……人と食糧を遣わして、教会で炊き出しや孤児の受け入れをしてみるのはいかがでしょう?」
ギルバートが提案した。
「どういうことだ? それではフルホネットが反省すまい」
「フルホネット公爵家はどうにもきな臭いのです、ヴェルデ卿。孤児院では引き取り先を探しているようですが、引き取られた孤児の消息が掴めません。それに、魔晶石の買い取りは変動がありませんでしたが、ギルドに所属していない、冒険者に見えなくもないごろつきが森やダンジョンで目撃されています」
それと、と続ける。
「フルホネット家はここ数年、盗賊の討伐に力を入れていました。……ですが、盗賊の刑罰記録がありません」
場がシンとなった。
教皇でさえ蒼ざめてギルバートを凝視している。
「それは……フルホネット家は孤児を集めて売り払い、盗賊に魔物討伐をさせて魔晶石を集めていた、ということか?」
「おそらく。魔晶石に関してはその場で金のやりとりをして記録に残さないようにしているのでしょう。しかし孤児院と盗賊についてはごまかせません」
たとえ公式文書を書き換えていても、人の記憶までは消し去れない。
孤児院の経営は領主と慈善団体が管理し、盗賊は警察や冒険者ギルド、騎士に討伐依頼が出される。孤児の引き取り先には事前調査が入るため、行き先不明になるなんてまずないはずなのだ。
それだけ多くの人がかかわっている以上、ごまかすにも限度があった。
「それが本当なら、フルホネットが聖女を邪魔に想うのは当然ですな」
「魔晶石を集められるのなら、目障りな領にばらまいて生産量を下げることも可能だ。そこに高値で売りつければ、恩も金も手に入る。一石二鳥のぼろ儲けだ」
「盗賊を使って商人の馬車を襲わせれば悪評が立って流通が滞る。よくも考えたものよ」
「孤児たちは売られるだけでなく、賊共への褒賞にされたのかもしれませんぞ。馬車を襲うにしても相手が子供なら商人の警戒も緩むはず。あるいは奴隷として売ったか」
やけに詳しいそれらは、かつて彼らが賄賂と引き換えに目こぼししていた罪である。
今となっては口にするのもおぞましい。それでも、彼らは自分の罪から逃げたりはしなかった。罪を直視し、贖罪を続けること。それが彼らの選んだ道である。
ティアナは言ってくれた。酸いも甘いも噛みしめた強さだ、と。悪を知っている自分たちこそ、悪を取り締まる目を備えているのだ。
「国王陛下に報告しますか?」
「ですがアベル王子はフルホネット公爵令嬢に骨抜きにされていると聞きますぞ」
「宰相と、財務大臣の息子もだ」
「魔法大臣の息子は聖女を王家が管理したほうが良いなどとぬかしているそうです」
迂闊に国王に報告して、アベル王子からエミーリオに伝わるのはまずい。最悪、ティアナの命が危ない。
「……国王には報告しよう。同時にティアナを呼び戻す」
「猊下、それは」
「聖なる力を信じぬ者に加護など不要。各々方は作戦を実行するように。フルホネット公爵とエミーリオ姫に責任を取ってもらう。我々が怒っていることを彼らに知らしめるのだ」
教皇の命令に全員が畏まった。