2話
物憂げにため息をつく男を見て、ローラは頬を膨らませる。もうすぐ結婚式を挙げる乙女の前でする顔ではないと思ったからだ。
辛気臭い顔を見ていても気が滅入るばかりなので、ローラは侍女が置いていったお菓子を食べることにした。次々とお菓子を頬張るローラを見て、男は呆れた。
「そんなに食べると太るぞ」
「放っておいてください。体型には響かないようにします。ドレスはばっちり着られますよ」
むんっと胸を張るローラに、男はまたため息をついた。
どこまでも暗い顔をする男に、ローラもため息をこぼす。この男は定期的にローラの元にやってきて、辛気臭い顔をして去っていく。いい加減、嫌になってきた。
「そんな顔をするくらいなら、取引なんてしなければ良かったんですよ」
「うっ」
「軽い気持ちで応じるからこんな厄介な目に遭うんです」
「応じるとは思わなかったんだ……」
項垂れたようにソファに深く座り込み、がっくりと頭を下げた。
はっきりと落ち込む男に、ローラはもう構わないことにする。定期的に現れるこの男はローラの成長ぶりを見つめ、そして迫りくる期限を確認しては落ち込んで帰っていた。
男はいつも唐突に現れ、ローラに構うわけでもなく傍に居る。そして知らぬ間に姿が見えなくなるのだ。ローラは日々過ごすうちに、この男の正体が何なのかを理解した。
彼は【大公】と呼ばれる存在だろう。弟王子が取引をした相手であり、ローラの結婚相手だ。
ローラは彼に【大公】であるかどうか、確認したことはない。しかしある日、ローラが彼のことを閣下と呼ぶと男は目を見開き、そしてそれを容認した。それで十分だった。
「どうして取引に応じたんです?」
「ちょっと脅せば引くと思ったんだ。まさか快諾するとは思わなかった」
「取引を中止なされば良かったのでは?」
「相手が『諾』と言った瞬間に契約は成された。それを破棄することは誰にもできない。神も精霊も悪も……」
誰にも破られることのない契約。履行されるまでは誰もがこの契約に縛られて生きていくのだ。
男が弟王子と契約をしたのは、本当に気まぐれだった。位階第二位に就く【大公】は、滅多に外世界とは関わりを持たない。今回も声が聞こえてきたところで、無視する予定だった。
それを変えたのは「花嫁を捧げる」と言われたから。
今までの契約者は金銀財宝や乙女の血など、俗物的で残虐なものを差し出すと告げた。それは【大公】の興味を引くモノではなかった。
執着心を持たない【大公】には、何を並べられても塵芥と同じ。しかし取引として花嫁を差し出すと言われたとき、彼は初めて自分以外の誰かを意識した。自分の隣に誰かが立つという未来を。
だからつい、気まぐれに応えてしまった。
『私に、何をして欲しいのだ』
『敵を打ち滅ぼす力を! この戦争に勝つ力を!』
『ふん。そのための対価に花嫁を差し出すと? この闇に住まう異形のモノに差し出せるのか?』
『無論。王家に生まれた最初の女児を花嫁として差し出す!』
引き返せぬぞ、と言う前に男は高らかに宣言した。そして契約紋が【大公】の左手に刻まれる。これとまったく同じ紋章が将来の花嫁に刻まれるのだ。
弟王子との契約は成され、莫大な力を手に入れて弟王子は最終決戦へと繰り出した。誤算だったのは、軍神と精霊王が相手側に付いていたことだった。
特に精霊王の守護は絶大で、精霊王に付き従う四大精霊も味方している国王軍の前に、契約を結んだだけの弟王子は勝てなかった。
弟王子が【大公】の力を2割程度借りて使っているとしたら、兄王子は精霊王の力を10割使っているという状況だ。勝てるはずがない。
【大公】の契約者は負けて命を落としたが、契約は無効にはならない。死んだら無効になるという契約は結んでいないからだ。
男はしばらく契約のことを忘れていた。しかしある時、外世界に力の息吹を感じ取る。失われた一部が蘇り、その存在を主張するかのように脈打つのを感じた。
生まれた。この世に自分と対になる紋章を持つ者が。
男は居ても立ってもいられず、力の感じる方に向かった。不可視の壁を越え、世界を越え、外世界の豪華だが、落ち着きのある部屋の中に潜り込む。
気配を消して、男はそれを見つけた。
右手に紋章を刻んだ無垢なる赤子。将来、自分が娶るべき花嫁だ。
母親である王妃があやす声で、男は赤子の名を知った。
『ローラ……』
聞こえていないはずのローラがにっこりと微笑む。その姿を見て、男は泣きそうな顔で立ち尽くした。
それから長い間、赤子の成長を影から見守ってきた。途中からなぜかローラに気配を悟られ、一緒にお茶をするようになってしまったが。
「ご自分で撒いた種じゃないですか。もうさっさと諦めて受け入れてください」
「だからどーしてお前はそう乗り気なんだ。普通、もっと悲壮感があるものだろう?」
異形との婚姻だぞ。しかも自分の知らないところで決まった理不尽な結婚だぞ。と言い募るが、ローラは意に介さなかった。
ローラだって、最初は不安に怯えて自分の運命を呪って嘆いた。顔を見たこともない叔父のせいで、なぜ自分が顔も知らない男の元に嫁がねばならないのだ!! と癇癪を起こしたこともある。
「ある日気がついたのですわ」
「ん?」
「気配を悟られぬように、こちらを見つめる一対の瞳に。その人はいつも私を遠くから見ていましたわ」
両親でもない、侍女や侍従たちとも違う異質な視線。それに気がついてしまえば、それを無視することは出来なかった。
そしてある日、見つけたのだ。闇の奥からこちらを見つめる金の瞳の存在を。
不思議と怖くはなかった。なぜならその瞳の奥底に、わずかな怯えと憧憬があることに気がついたから。
「俺が見ていることに気づいていたのか」
「誰だか気づいていませんでした。でも、そうですね。あなたの視線には大分前から気づいていました」
「そうだったのか……」
最初は確かに不審者! と思っていたが見ているだけで何もしてこなかったので、そのまま放置することにした。いや、見ているだけでも十分怪しいが、他の人に見えている様子もなかったので言わないことにしたのだ。
やがてその人が、いつも左手に手袋をしているのを見つける。その左手のことを考えると、不思議と右手の紋章がチクリと傷んだ。
ふと、神官が教えてくれたある事実を思い出す。
『いいですか、姫様。その紋章は呪いであり、目印です』
『目印?』
『あなたの対となるものの左手にも、同じ紋章が刻まれています』
ローラは天啓のように閃いた。あの人こそ、自分の結婚相手なのだと。