第6話 江戸の火消し~時空を超えた修学旅行②
「こんな冬場のからっからに乾いた日にゃ、どっかから火が出るに決まってんだ。だから、いつでも飛び出せるように準備は万端だ。他の組の奴らに、火消の手柄を取られてたまるもんか。それが、”り組”の纏持ちの”俺の”心意気ってもんだからな」
う……ん? 何かうるさい声が聞こえる。
不意に耳元に響いてきた威勢のいい声に、私は頭を2、3回振ってみる。どうやら、一瞬、意識を失っていたようだ。薄ぼんやりと辺りの景色が見えてきた。
瓦葺きの屋根に、うっすらと雪をたたえた家々が、延々と続いている。
人々の賑やかな声が聞こえる。着物姿に襟巻の通行人、物売りの行商人。土埃をあげて通り過ぎる籠担ぎ。
はぁっ? これって、
そこは、見知らぬ……いいや、ついさっきまで、私が目にしていた……
”江戸のジオラマ!?”
そして、この 魚を焼くような香ばしい匂いは……次の瞬間、私は大きく目を瞬かせた。
私の目の前で、上手そうに鰻飯を食している彼。
「笹原っ!? で、でも、その恰好は?」
背中に、”り組”のロゴが入った半纏、中には刺子のシャツ。下には股引。
えっ、そ、その恰好は、”り組”の纏持ちっ?
あらんことか、クラスメートの笹原隆太が、消防博物館のジオラマで見た江戸の火消の装束を着て、鰻を食ってる。
笹原は、私の驚きなど、どこ吹く風で、ただ美味そうに箸を動かしている。
「うわぁ、江戸の鰻って、最高だ」
”彼が好きなのは、学校給食。嫌いなのは、学校活動”
ああっ、そんなことはどうでもいいのよ。
この景色、この状況。ここは、もしかして、あのジオラマの江戸の町?!
戸惑い、狼狽し、頭の中は大混乱。
すると、私の目の前にいる火消姿の青年は、寒いなとぽつりと呟き、
「風が強く吹きすぎるのが、ちょっと、難儀だったなぁ」
そう言って、涼し気に笑った。
笹原っ、その恰好はどうしたのよ?
お祭りのコスプレかっ!
私の戸惑いなんて、そ知らぬ顔。笹原は幸せそうに鰻飯を頬張っている。
笹原隆太という男子が、変わり者だってことは、嫌というほど分かっている。
けど、これは酷すぎる。
「笹原っ、あんた、ここで、何やってんの?!」
ところが、掴みかかりそうな勢いの私の前に、傍にいた鰻屋の店主が立ちはだかった。江戸商人の代表みたいな長着に襷、尻からげ。下は股引のおじさんだった。
「おいっ、お夏っ、いくら町火消に憧れてるっていったって、隆太に見とれてないで、さっさと仕事しな! せっかく焼いた鰻が冷めちまう」
「……お夏って、私のこと?」
” 私の名前は、美夏よ!”
「何、寝ぼけてんだい。お夏はお前、一人だけだろっ。ほらっ、これ、さっさと持っていきな。白田屋の若旦那と、連れのお侍さんを待たすんじゃないよ」
渡された盆の上には、湯気をあげた鰻飯が二つ乗っていた。ふと自分の袖元を見てみると、
私……何で着物なんて着てバイトしてんのよー! しかも鰻屋?
意味が分からず辺りを見渡すと、座敷席に陣取った商人風の男と、連れの凛々しい風貌の侍が、こちらを珍しそうに眺めている。
「まあまあ、ご主人、”纏持ちの隆太”といえば、この界隈の婦女子には大人気。吉原界隈の芸者にだってファンはいるって話。少しは大目にみてやってよ」
粋な江戸っ子二人組というところか、けれども、その商人と、薄く笑って頷くお侍のやり取りがまったく理解できない。
纏持ちの隆太って……笹原のこと? 冗談じゃないわよ。
当の本人は私の戸惑いなんて、そっちのけで、くすりと笑うだけだった。
だって、これは、
風の中の昔の話
「え、何か言った?」
その時、鰻屋の外に強い風がびゅうと吹いた。同時に風上からけたたましい半鐘の音が響いてきた。「火事だ! 火事だ!」町のあちらこちらから、けたたましい声があがる。
私の目の前にいた”纏持ちの青年”が、咄嗟に立ち上がった。
「隆太、出番!」
誰彼なしに掛けられた声。すると、彼は「承知」と一声呟き、あっという間に店を飛び出していってしまったのだ。
* *
店の脇に置いてあった、寒さで氷が張っている手桶の水を、躊躇もせずに頭からかぶる。
手には、”り組”の纏を持ち、あれよあれよという間に、風下の瓦葺の屋根に登ってしまう。いや、登ってるというより、飛んでいったと表現する方が正しいのかもしれない。
「さすが、”り組”の隆太!」
野次馬たちのやんや、やんやの喝采を浴びながら、屋根の上にすっくと立って、きな臭い風に向かうイケメンの纏持ちの青年。粉雪が舞う背景が、浮世絵のようにその姿を際立たせる。
風下の彼が屋根にいる家が燃えれば、纏持ちも家と一緒に燃え尽きる。だから、彼は仲間の火消を信じきる覚悟で、纏を回し続けるのだ。凛々《りり》しい、凛々《りり》しすぎる。その姿は確かに町火消の花形に相応しい。
「……でもっ、でもっ、何で、それが笹原なのよ。私は納得ゆかないっ!」
やがて、わらわらと火事を知った半纏姿の男たちが、集って来た。どうやら”り組”の隆太の仲間の町火消たちらしい。北の方向に火柱が立ち昇るのが見え、噴き上げられた火の粉が上空で渦を巻いている。
「おや、火元は吉原か。何でぃ、せっかく手柄を立てれると張り切ったのによ」
「おーい! 隆太ぁ、降りてこい。吉原にゃ俺らは手が出せねぇ!」
悔し笑いを浮かべて、北の空を見上げる町火消たち。
けれども、私は、
「吉原っ? それって、吉原遊郭のことっ?」
消防博物館での、クラスメートの村田の言葉が頭をよぎる。
”吉原遊郭は江戸男子のユートピア”
そして、さっき鰻屋で聞いた商人の言葉も
”纏持ちの隆太”といえば、吉原界隈の芸者にだってファンがいるほどの大人気”
それ、すごく、ムカつく!
とっさに私は、纏持ちの青年が立つ家の屋根に向かって、叫び声を上げてしまった。
「笹原、吉原に手を出しちゃダメっ、さっさと、そこから下りてきなさいっ!」
屋根の青年はふっと口元に笑みを浮かべた。
そして、手にした纏を屋根に下し、
こともあろうか、私の言葉なんて、てんで無視して行ってしまったのだ。
飛ぶみたいに、火の粉と粉雪が混じる屋根を越えて、
鉄の大門なんて気にもしないで、
あの業火燃え盛る”吉原遊郭”へ。