第3話 ~月下美人の話~
夏祭りも終わりに近づくと、そこはかとなく空虚感が漂う。とくに、今日みたいに、親友が付き合い始めた彼氏なんぞを連れてきた日には、なおさらだ。
「あ~あ、ゆうちゃんは、彼氏とさっさと帰っちゃったしなあ」
午後9時。
中学2年の美夏は、後片付けをはじめだした近所の人たちを尻目に、自宅の2階の窓からぼんやりと外を眺めていた。京都、祇園祭りの宵山の山鉾が最後にもどってくる寺町に長年住んでいるものだから、今夜は何時までも人の出入りが収まらない。この祭りが終わったら、7月もそろそろ終わりだ。そして、夏休みが始まるのだ。
「ああ、つまらない。夏休みが来ても、何ぁんにも、どきどきすることがないんだもん」
別にゆうちゃんと争おうなんて気はないけれど、少しは胸がときめく出来事があってもいいのにな。
けれども、窓辺の広縁に腰掛けてため息をついた時、美夏は、通りの向こうを歩いてゆく制服姿の少年を見つけてしまったのだ。半袖の白いシャツに黒ズボン……お祭りの夜だっていうのに、あの後ろ姿は……
「笹原! 笹原隆太!」
同級生のその少年は、顔はいいのに言動はかなり不審。給食以外は学校が嫌いなくせに、服装はいつも学校の制服。
美夏はあっと声をあげたのは、呼びとめられた隆太がくるりと後ろを振り返った時だった。
白狐のお面?
「ちょっと、笹原、何やってんのよ! そんなもん付けて」
「だって、今日はお祭りだから……ちょっとノリで」
「や・め・な・さ・いっ! 夜道に学生服の白狐って、怖いだけだから!」
「こんこん、ちきちん、こんちきちん♪」
「や・め・ろ」
むっとした声にさすがに不味いと思ったのか、隆太は、慌てて白狐の面を外して、美夏の家の軒下まで歩いてきた。
白い面の下から覗いた端正な顔。さらりとした前髪の下には、狐目よりもずっと涼やかな瞳が、鮮やかにきらめいている。こいつの眉目秀麗さには、いつも、一瞬、呆れてしまう。後輩などには、隆太に恋心を抱く者もいたりするが、でも、それは大勘違いだっつぅの。
「それにお祭りは、もう終わりでしょ」
「何だ、つまらない。花の宴はこれからが酣だっていうのに」
「あらあら、柄でもないことを言っちゃって」
「いいや、そこの月下美人が、ほら、もう、花弁を開くから」
「月下美人?」
そのとたんに、美夏がいる古い木造りの家の2階の広縁から、ふわりと、うっとりするような香りが流れてきたのだ。百合よりももっと優しい芳香が鼻先に漂ってくる。
“月下美人”
闇夜の中でも、月の光を身に纏い、浮かび上がって見えるほど -白く大きく美しい- 花弁。
そういえば、お昼に、膨らんだ蕾を見て、お母さんがそろそろ “咲くよ”って、言ってたっけ。
名前も変わっているが、この花は相当の変わり種のようで、月下美人に関しては色々な言い伝えや都市伝説が飛び交っている。
すべての花が同じ日に咲く。
花が咲くのは一年に一度一夜限り。
新月の夜にしか咲かない。
花言葉は、儚い恋。
そして、この目に染み入るような素晴らしい香りで、花粉を運ぶ夜行性の虫たちを呼び寄せているのだという。
“儚い恋”かぁ。なんか心魅かれるけど。でも、ラブラブ中のゆうちゃんには毒な花か。
その時、窓の下にやってきた隆太の前髪を、夜風がさらりと撫で上げた。涼しげな瞳が、美夏の独り言を笑うように上を見上げる。
「はかないこい」
「えっ、今、何か言った?」
私の空耳だろうか。今、自分の心を見抜かれたような……。
美夏は、慌てて、隆太から視線をはずし、月下美人の方へ目を向けた。
月下美人はまだ、咲いている。あと数時間もすれば儚くしぼんでしまう花。
「お、お母さんたちにも、早く、花が咲いたのを知らせてあげなきゃ」
突然、月下美人の強い香りが鼻腔に流れてきて、強い眠気を感じたのは、美夏が立ち上がろうとした瞬間だった。
* *
ざわざわと人々のざんざめく声が聞こえる。強く香ってくる花の香りがやけに鼻をついてくる。
こんこん、ちきちん、こんちきちん♪
「待っていて、夜明けには必ずここに帰ってくるから」
うるさいなあ……眠いのに耳元で大きな声を出さないで……
「あ……ん? 夜明けって……今、何時?」
「亥の刻」
亥の刻? はぁ、どういうこと。
肩をつかまれた強い力に、眠気を飛ばされ、美夏はぎょっと手前に立った青年に視線を向けた。
「……え」
藍染の半着と袴。油で堅めた後ろ髪に髷。腰には、か、刀ぁ!
おまけに彼の腕には、返り血までがついている。
お、お祭りのコスプレ? それにしては、凝りすぎてるよ。
その時突然、大通りの向こうから強い呼子の笛の音が響き、辺りの空気がにわかに総毛立った。
「四国屋は偽装だった! 急げ、会合場所は池田屋だ!」
叫び声とともに、大通りをだんだら模様の羽織の武士たちが駆けてゆく。
背中には“誠”の文字。
その瞬間、つい最近に見た幕末アニメの画像が、美夏の脳裏に浮かび上がった。
ちょっ、ちょっと、あれって、新撰組じゃん。あれもコスプレ?
……で、池田屋って!
「まさか、これって、あの有名な池田事件が起こってんの?」
池田屋事件は、幕末に京都 三条大橋近くの旅館・池田屋に潜伏していた長州藩・土佐藩などの尊王攘夷派志士を、新選組が襲撃した事件だ。
折しも、今夜はその日と同じ祇園祭の宵山の日で、ここから、三条大橋は目と鼻の先。
こんこんちきちん、こんちきちん♪
笹原 隆太のふざけたような鼻歌が、美夏の脳裏を通り過ぎてゆく。
「今、捕まれば、捕縛か斬首だ。でも、待ってて、僕は必ず、夜明けまでには君を迎えに戻ってくる。あの月下美人の花が凋んでしまわないうちに!」
髷を結った青年の台詞が、かっこよすぎる。
その青年に、がばっと抱きすくめられて、美夏は超あせってしまった。
「ま、ま、待って。あなたって、幕末の志士か何かっ。なら、戻ってきたりしちゃダメ。アニメじゃ、こういうのを死亡フラグっていうんだからっ」
……で、この場合、私って、その恋人?
美夏を残して、走りだした幕末の青年志士。堪らないほど切ない、彼が振り返った時に見せた心残りが超絶に表れた表情。
胸がきゅんきゅんして、たまらない。そうだ、こんな時には、私も何か言ってあげなきゃ。
けれども、気の効いた台詞なんて浮かびやしない。
「待って、待ってっ! ……行かないでっ」
なりふり構わず、駆けて、彼の背中にしがみついた。その時、鼻づらに何かが当たった。堅い感触に、美夏はきょとんと目を瞬かせる。
白狐のお面?
「こんな夜中に、後ろから襲うなんて、お前って、大胆な奴」
聞き覚えのある、とぼけた声に、前を見上げ、美夏はええっと声をあげてしまった。
美夏が必死に追いかけた背中には、狐の顔をした白いお面があって……
まさか、私が、全身全霊で追いかけた相手って……
「笹原っ、何で“あんた”に、“私が”しがみついてんのよっ!」
「……知るか」
大慌てで手を離した美夏。笹原 隆太は、背にしょった白狐の面ごしに、その姿を見てくすりと笑った。切れ長の瞳が涼しげに夜の景色の中で煌めいていた。
「あの月下美人が咲いて散る、ちょっとした時間の悪戯だったんだ」
「……?」
「はかないこい」
訳のわからぬ顔をした少女に、少年は人の悪い笑みを浮かべた。それから、隆太は軽く手を振って、そのまま、三条大橋の方向へ歩いて行った。
その背中で白狐の面が物言いたげに揺れていた。
月下美人が咲いた祇園祭の一夜の話。
ただ、それだけ……と。
* *
「美夏、いつまで寝てるの。学校に遅れるわよ」
お母さんの声に、私ははっと目を覚ました。朝? そういえば、昨日は遅くまで起きて、花を見ていたんだった。
「月下美人、もう、閉じちゃったわよ。昨日、あれだけ眺めてたんだから、もう、満足でしょうけど」
窓辺に目を向けると、固く花弁を閉じて凋んだ白い蕾が、寂しげに首をうなだれていた。
ああ、花が終わっちゃた……。
“月下美人の花が凋む前に、必ず、また、ここに戻ってくるから!”
幕末志士の青年の台詞が、脳裏に浮かび、守られなかった約束に、切ない気分になる。
嘘つき。戻ってきてくれなかったじゃん……。
でも……私、やっぱり、夢を見ていたんだろうなぁ。
「月下美人の花言葉は、儚い恋かぁ」
美夏が、ため息をつきながら、階段の方へ歩いていった時、ふっと強い月下美人の香りが、鼻先に流れてきた。
えっ、また花が……
振り返った美夏は、窓辺で大きく花を咲かした月下美人の白い花に、大きく目を見開いた。
月下美人は1年に1度しか、しかも夜にしか、花を咲かせないって聞いてたのに……
クス、クス、クスっ……
どこからか響いてきた微かな笑い声。
美夏は不思議な気分でぐるりと辺りを見渡した。
窓から吹き込んできた朝の風が、そんな少女の頬を優しくなぜていった。そして、窓辺の月下美人の花が、ぱらりと儚い花を散らせた。
また、いつか。
そんな言葉を残して。
【時の魔術師 月下美人の話】