第6話 江戸の火消し~時空を超えた修学旅行④
長屋が延々と続く江戸の町は、一旦、火が大きくなると、もう手がつけれない。水をかけるより、火が回る前に、風下の家を壊してしまった方が鎮火が早い。
火の見櫓から、半鐘を乱打する鐘の音が響いてくる。鳶口や刺又を持った町火消が、風下の家々を力まかせに叩き壊してゆく。
「火事だ、火事だあっ!」
家財道具を行李に詰めて、逃げ惑う町民たちを尻目に、”り組”の纏を持った隆太は、風下の屋根であらん限りの力で纏を回す。
”俺のいる、この場所で、火勢を食い止めろ!”
隆太が、回す纏の馬簾が、火の粉を空に押し返す。
屋根まで火が回れば、彼自身も命を落とす。それでも、怯むことなく、纏を回し続ける。
……が、その雄姿を見上げていた私の心中は、
「かっこいい……よね」
でも、これ、違うでしょ!
普段のボケっとした笹原は、どこへ行っちゃたのよ。
っていうか、私たちの修学旅行は、東京で、江戸じゃないんだからっー!
その時だった。
「儂の店がぁっ! ああっあああ……」
「親父っさん、駄目だ! もう、諦めるんだっ!
バイト先の鰻屋の店主の嗚咽が聞こえてきたのだ。
燃える店に駆け込もうとする店主の両脇を押さえて、引き止めているのは、あの凛々しいお侍。その傍には白田屋の若旦那もいた。
火元は鰻屋だったのだ。
「親父さん、大丈夫っ?」
そう言って私が、駆け寄って行った時、
「お夏っ、お前、無事だったのかっ!」
突然、店主に抱きつかれ、私は目を白黒させてしまった。
「お夏ううっ、良かった……。逃げ遅れたのかと、心配でならなかった。本当に良かった……」
おいおいと、私の胸元で感涙にむせぶ店主。
「そ、そんなに心配してくれなくても……私、通りすがりのバイト……」
「何を言ってんだい! バイトだって、家族と一緒でい!」
これが江戸の人情! 親父さんっ、修学旅行のレポートに、私、きっと書くわ!
けれども、”纏持ちの隆太”がいる屋根は、すぐ上なのに、火の勢いは一向に止まる様子を見せないのだ。
お侍が声を荒らげた。
「ここはもう駄目だ! みんな、もっと風下へ逃げろっ。家が崩れて、火に飲み込まれるぞ!」
「えっ、でも、纏持ちが、まだ上にいるのにっ」
「お夏ちゃん、隆太の気持ちを台無しにしちゃ駄目! 纏持ちってぇのは、炎の中で死んでもいい覚悟で、纏を振ってんだ。それが火消の心意気ってもんなの」
「そ、そんなこと言ったって、笹原は、修学旅行中の中学2年っ……」
その言葉を言い終わらないうちに、白田屋の若旦那が、私の手を強く引っ張った。
「笹原っ、逃げてえぇーっ!!」」
怒涛の火の粉が、ゲリラ豪雨みたいに降り注いでくる。
笹原が纏を振っていた家が崩れ落ちた。
”ここで私だけ逃げたら、ゆうちゃんと村田にぶっ飛ばされるっ”
真っ赤に燃えた家の屋根が、真上に落ちてきたのは、握られた手を振りほどいた瞬間だった。
* *
纏持ちの青年が業火に飲み込まれる。燃えた馬簾が、熱風で空へ空へと吹き上がる。
千早は、食い入るように紅蓮の空を見つめていた。
”あの人が行ってしまう! あちきの知りんせん 遠い所へ”
祠のお稲荷さんが、そんな少女の脇で、ことりと音をたてた。
* *
「きゃぁぁぁっ!!!」
燃えた屋根が頭上に落ちてくる。
人って、こんな時は、馬鹿みたいなことを考えるのだろうか。
不意に、明日の新聞の見出しみたいなのが、脳裏に沸き上がってきてしまった。
『修学旅行中の中学生2年生、石井美夏さんが、江戸の市中で火災に巻き込まれました。なお、クラスメートの笹原隆太くんは、未だ、行方不明』
「そんなのダメっ、笹原はどこっ?!」
それなのに、落ちてくるはずの屋根が落ちてこない。私はそうっと、上を見上げてみた。
高速で回るプロペラから、強い風が顔に吹きつけてくる。
「はあああっっ!?」
私は一瞬、自分の目を疑ってしまった。
炎に染まった空に現れたのは、燃える屋根でも、焼け焦げた木材でも、大量の火の粉でもなく、
真っ赤なヘリコプター!!
鉄のボディには”東京消防庁”の文字。
「あれは、四谷の消防博物館の5Fの防災ヘリ?!」
クスクスクス
聞きなれた笑い声が、聞こえてくる。
「いいかげんに帰らないと、担任の山下に叱られるぞ」
防災ヘリの運転席から、こちらへ手を伸ばしてきたのは、
「笹原っ、笹原隆太!!」
白い半袖シャツと、黒の学生ズボンのクラスメートが、ヘリコプターの中から私を呼んでいる。
ちょっと、私は町娘姿なのに、何であんただけ、元にもどってんのよ!けれども、文句を言ってる場合じゃない。
「待って、置いてゆかないで!」
無意識に、彼に向かって手を差し出す。
強い風に混じり合った柳の葉が、ヘリの周囲をぐるぐると回っていた。
火の粉は、いつの間にか消え失せて、ヘリの中の青年の頬を一葉の柳が掠めていった。
笹原隆太は、遠ざかる江戸の町を見下ろして、鮮やかに笑う。
― 見返り柳 ―
吉原遊郭を訪れた客は、名残を惜しみ、そこでもう一度、吉原を振り返るのだと。
* *
江戸の町に再び、粉雪が降り出した。
まだきな臭い風が吹く風下の町で、逃げ果せた白田屋の若旦那と、お侍が空を見上げていた。
”東京消防庁”の名が入った奇妙な”未確認飛行物体”が空の果てに消えてゆく。
「ち、ちょっと……真ちゃん、あれ、何?」
名を呼ばれた、お侍は一瞬、眉をひそめたが、やがて、笑って言った。
「夢だ……白昼夢」
あれは、江戸の空に、俺たちが垣間見た未来の夢だ。
鎮火を伝える長い調子の半鐘の音が、暮れてゆく江戸の町に響いていた。