第6話 江戸の火消し~時空を超えた修学旅行③
”お稲荷様、お願いしんす! あちきを 廓の外に出してくんなまし”
吉原遊郭が燃えている。
逃げ惑う遊女たちや、叫ぶ客の間をすり抜けて、吉原大門のすぐ傍の稲荷神社に這う這うの体で逃げてきた少女。
祠の両脇の狛狐がじっと、こちらを見つめている。
少女といっても、髪は髻の根を後ろに下げた島田髷。着物は、前で絞めた青帯に、赤い振袖打掛。
少女の名前は千早、15歳。9つの時に吉原に売られ、今は振袖新造と呼ばれる花魁の付き人で、17歳になれば花魁になる。
その千早の着物の裾に、燃える置屋からの飛び火が燃え移った。
「助けてぇ!」
その時、強い北風がびゅうと空から吹き付けてきた。……と同時に、千早の足元の熱さが、すうっと地面に抜け落ちていった。
華やかな打掛の下半分がびっしょりと水に濡れている。そのとたん、体が震えてきた。火事の恐ろしさと、冬の寒さが同時に襲ってきたからだ。
おそるおそる、前に見る。そこには、消火用の桶を持った眉目秀麗な青年が立っていた。
「ぬしは……どなたで、ありんすか」
半分戸惑ったような、残り半分は物珍しそうな青年の顔つき。
「えっと、俺は、火消。十番組 ”り組”の纏持ち」
心の奥まで見透かしてしまいそうな瞳。千早は、思わず、火消の青年の半纏の腕にすがりついた。
「どうか、どうか、あちきを逃がしてくんなまし。今を逃すともう後がないのでありんすぇ」
* *
吉原の大半が炎上してから、二日が経った。
吉原大門のほど近く、美夏にとってはバイト先?の鰻屋では、馴染みの客の二人が顔と顔を寄せ合って、ひそひそと語り合っていた。
「いくら”り組”の隆太の頼みっていったって、これは、相当、マズいんじゃないの。吉原からの足抜けはご法度。おまけに、千早って名でしたっけ。あの娘は、再来年には花魁になる超エリート遊女”振袖新造”ときたもんだ。もし、二人で逃げたって、追いかけられて、捕まって、女は拷問、男は間違いなく殺されるわ」
白田屋の若旦那に、連れの侍が、形の良い眉をぴくりと上げる。
「千早の着替えと、仮宿に我が家の離れを提供した俺もな」
「ちょっと、落ち着いてる場合じゃないでしょ」
「三日のうちに元の廓に戻れば、足抜けの罪には問われない。それも吉原の理だ。火事の勢いで飛び出してきてしまったが、あの娘だって、逃げきれないのは分かっているさ。だから、あと一日は少しばかりの休日だ。明日になれば、千早は吉原大門の中に帰る」
逃げる道が地獄なら 戻る道とてまた地獄
「切ないね。どうにもならないの」
「ならないな」
そんな”江戸っ子”たちの会話を、鰻飯を盆にのせた、バイトのお夏=美夏=”修学旅行中”の”令和の女子中学生”は、耳をダンボにして聞いていた。
* *
美夏は大急ぎで鰻屋を出ると、クラスメートと、クラスメートと共に居るであろう少女を探し始めた。寒いっ、東京は爽やかな6月だったのに……何で江戸は、冬なのよ。けれども、そんな理由を今、考えてる暇はない。なぜなら、
鰻屋の二人組の話では、どうやら、隆太”と、町娘の衣装に衣替えした”千早”は、江戸市中で、デート中らしいからだ。
「超エリートの遊女かなんか知らないけど、笹原と逃げる……とか何とか。はぁっ? 二人とも年齢的には”中学生”でしょっ、冗談じゃないわ。そんなの許されると思ってんの!”」
千早は15歳。笹原隆太は自分と同じ14歳……江戸時代の遊女の若さにも驚くが、私たちは、こんなことをするために、修学旅行に来たわけじゃないのーっ。(村田は喜ぶかも……)
そんな二人の姿を美夏が見つけたのは、吉原大門とは目と鼻の先。見返り柳と呼ばれる柳の木の下だった。
吉原遊郭を見下ろす土手にある”見返り柳”。
吉原からの遊び帰りの客が、一夜の享楽を懐かしみ、後ろ髪を引かれる思いで、この柳のあたりで遊郭を振り返ったということから、この名がついた。
再来年には花魁になる千早にとっては、柳の向こうの大門の先は、未来永劫に振り返りたくない場所。
”逃げおうせるわけがない。だから、明日までに廓に戻らねばならない ”
心は吹き付けてくる北風より、もっと凍り付いている。
戻るも地獄 戻らねども地獄
立ち止まって涙ぐんだ。……と、前を歩いていた半纏に股引き姿の青年が、くるりとこちらを振り返った。
透き通るような視線が、胸の鼓動を波立たせる。青年はくすりと笑う。
「伊勢屋の団子っていうのが、美味いんだって。食ってみる?」
その時、近くの店からからかうような声が響いてきた。
「”り組”の隆太! 隅におけないねぇ。えれえ、別嬪さんと連れ立ってさ、今日は逢引きときたもんだ!」
隆太は声をかけてきた店主に、”うるせぇ”とばかりに、後ろ手を振ると、千早の手を取り、そそくさとその場を離れてしまう。
粉雪まじりの風は冷たかった。けれども、両脇にずらりと並んだ店々からは、煙が立ち上り、甘酒の香りがぷんと漂って通りは活気に満ちていた。何より、隆太に握られた手が温かだった。
小さなお稲荷様が祀られた祠の傍で、千早は隆太の袖をとって傍に歩み寄る。
「隆様は人望がありんすぇ。 先々は町火消の頭取になられるのでありんすか」
「町火消の頭取?」
「”り組”を率いる長のことでありんす」
「あ~、ないない。未来のことなんて、俺は考えても仕方ないから」
そう、詮無いことなんだ。
俺の先には何もない。言葉も記憶も、おぼろげな感情も。
未来は、巡る季節に押し流されて
― 時の彼方に還るだけだ ―
一瞬、見せた隆太の儚げな表情に、千早はまた、心魅せられる。同じ儚い未来なら、いっそ二人で行きたいと。
千早は隆太の懐に身を寄せるとと、請うような声音で呟いた。
「隆様、考えても詮無い未来なら、そこに、あちきを入れてもらえるわけにはゆきんせんか」
寄り添う二人の男女を、粉雪を薄くかぶった祠のお稲荷様が、そっと見つめていた。
そして、お稲荷様のすぐ後ろでも……
身を隠し、頭に雪を積もらせた女子中学生が……穴のあくほど見つめていた。
「隆様って、ふ・ざ・け・ん・な! これ、14歳と15歳がしていい会話?! ダメでしょ。校則違反でしょ! 何が吉原は江戸男子のユートピアよ。笹原隆太は私のクラスメートっ。令和の中学2年の男子なのっ」
黙って放っておくと、この二人は手に手をとって、逃避行? こんな修学旅行はありえない!
お夏こと、美夏は焦った。ここは、何としても私が笹原を止めないと!
”笹原隆太の好きなものは、学校給食。嫌いなものは学校活動”
恋の逃避行が”学校活動”とは、到底思えないが、奴を誘うには”学校給食”を使うしか道はない。
美夏は、近くの伊勢屋に駆け込むと、ありったけの焼けあがった団子を買い集め、
「そこの二人っ、さ、寒いでしょっ。団子、美味しいわよぉ。みんなで食べよっ!」
出来うる限りの声を張り上げて、千早と隆太の間に割り込むと、熱々の団子串を差し出すのだった。
* *
「おおお、伊勢屋の団子はやっぱり美味い!」
「でしょっ」
満面の笑みで、団子を頬張る笹原。そうそう、その調子。この表情が本来のこいつの姿なのよ。
お稲荷様の祠の横に腰かけた、笹原、美夏、千早の3人。中央に陣取るのは、もちろん、美夏だ。
ほっとした気分で、隣に座る男子の横顔を眺める。それに満足すると、反対側の隣で、白鳥が団子を啄んでいるみたいな……お上品な少女が気になってきた。
今は、お得意様のお侍さんの奥さんの着物を借りて、町娘の恰好をしてるけど、この娘は時期、花魁候補。お化粧なんてしてなくても、肌は信じられないくらい色白で、色気もあるし、お江戸の雰囲気に満ちていて、すごく綺麗。笹原だって、成る様に任せてるし、 村田がここにいたら、きっと狂喜乱舞することだろう。
とても、ムカつく。
……でも、年は15歳。私のたった1つ上だけなんだよね。
そんな年で吉原で働かされて……それって、酷い。
ああっ、でも、笹原は駄目っ。
半ば、衝動的に手にした皿から、団子串を千早に差し出した美夏。
「あっ、あのね。これ、あげるっ。食べてっ」
「これは、お夏様のお団子ではござりんせんか」
「いいの、いいの。私のはまだ、こっちの皿あるから」
微笑む千早、頬を赤らめた美夏。そして、飄々と美夏の皿の団子に手を伸ばす隆太。
お稲荷様の祠の上の土手にある”見返り柳”が、そんな3人の姿を見下ろしている。
その時だった。
「火事だ、火事だっ! 大通りの鰻屋が燃えてるぞ!」
火事を知らせる、けたたましい半鐘の音が響いてきた。町火消の詰所から、”り組”の纏と旗、梯子をかついだ人足たちが駆けてくる。
「隆太、出番!」
「承知!」
纏を受取り、隆太が風のように町を駆けぬけてゆく。
その後を美夏が追った。
残された千早は、ただ、燃える空を眺めていた。
行く道が、儚い夢ならば、
この世の全部が、今、燃えてしまえ
何の未練も、ここには残すな
そんな少女の呟きを、傍らの祠のお稲荷様が耳を澄ませて聞いていた。土手の上の”見返り柳”が、風に乗せて、空の彼方に吹き飛ばした。