六月の出来事B面・⑨
「アキラちゃん」
ベッドで布団にくるまっていると、バンバンと上から叩かれはじめた。
「起きて起きて」
ドーンとボディプレス。
「ぐはあ」
「ほら、起きた起きた」
「何だよ、かあさん」
自分の上から香苗が退いたのを確認した後に、厭々といった態で、布団から顔を出す。周囲を確認するまでも無い。この天井はアキラの自室である。
ベッドの脇に立った香苗は、いつものエプロン姿であった。
「今日は日曜日だろ。ゆっくり寝かせてくれよ」
「あら」キョトンと目を丸くする香苗。「かあさんが昔読んだ本には『日曜日こそ朝早く起き、午前中は趣味に費やし、午後は安寧の時を過ごせ』って書いてあったわよ」
「いま何時だよ」
と、上半身を起こして学習机の上にある時計へ目をやる。
まだ五人ほどで徒党を組んでいる正義の味方が、たった一人で戦う怪人に対して、巨大兵器を持ち出すには早い時間だ。
「アキザネくんが迎えに来てるのよ。ほら、起きなさい」
「ちぇ」
どのみち母親には勝てない事を思い知っているアキラは、足を床へおろした。
両手を腰に当てて胸を張る香苗が、勝利宣言のように言った。
「もうヒカルちゃんは起きて、一緒にお茶してるわよ」
「あ、そ」
簡単にこたえると、香苗は目をちょっとだけ薄くし、それから笑顔を取り戻した。
「また口喧嘩したのね。本当に仲がいいんだから」
「よくねーだろ」
下から睨みつけるようにするアキラを、笑顔で迎撃する。
「また、なんでケンカしたの? かあさんに言ってごらんなさい」
「そりゃあ…」
口を開いたアキラだったが、そこで言葉を出すのを思いとどまる。
「?」
「やめとく」
「ん」
ちょっとだけ不思議そうな顔をした後、しょうがないわねという表情をする。
「まったく。アキラちゃんは女心が分かってないんだから」
「言わせてもらえば、分かっていると思うよ」
「そう? じゃあ、なんでケンカの理由が言えなかったの?」
「そりゃ、かあさんだって歳の話しされたら機嫌が…、あ」
つい口を滑らしたアキラが、香苗の逆鱗に触れたかと首を竦めていると、香苗は吹き出していた。
「ほら。居間でお茶してるから、顔を洗ってくるんですよ」
そのまま先に部屋を出て行ってしまう。
「ちぇ」
今はちょっとヒカルと顔をあわせたくない気分のアキラは、抵抗するかのようにそのまま一分ぐらいベッドに座っていたが、やがて諦めた。
部屋着として着ているスウェット姿で行こうとし、香苗が「迎えに来た」と言っていたことを思い出す。またどこかに連れまわされるのかと、自分の未来を予知したアキラは、クローゼットに向かった。
男の子の頃に普段着としていたジーンズと、卵色のパーカーを身に着ける。サイズが変わってしまったので、何度も袖や裾を折ることになった。
「遅かったではないか」
階段を下りていくと、ダイニングでは、まるで我が家のように明実が座ってお茶を手にしていた。白衣に袖を通しているのはいつもと同じだが、今日は白いカッターシャツに白いロングパンツと、上から下まで真っ白な服装だ。
ジロリと睨んでくるヒカルを無視しながら、自分の席に着く。ヒカルは、柿色のワイシャツに黒いスラックスパンツといったファッションであった。ワイシャツは大胆に三つもボタンを外しており、胸元での肌の色とのコントラストが刺激的であった。
「日曜ぐらい、ゆっくり寝かせろ」
「何を言う。科学的に寝だめは出来ないというのが証明されているんだぞ」
「昨日の夜のバカ騒ぎのせいで、疲れてんだよ」
クワッと牙を剥いて見せると、明実が感慨深そうに腕を組んだ。
「まったく。仲良くケンカするのはいいが、周囲の物を壊すのだけは自重してくれ。おかげで更衣室が使えなくなったではないか」
「あれは、コイツが銃を振り回したからだろ」
指摘すると、もうご機嫌が斜めだったらしいヒカルが、腰に巻いたポシェトに見えるホルスターから黒い自動拳銃を抜いた。昨日遠慮なしに五発も乱射した銀色の銃は、その大きさ故に私服の時はあまり持ち歩かないようにしている。
「おまえ。今度こそ鉛弾を食らわしてやろうか? あ?」
「だから、すぐに銃を抜くな」
迷惑そうな顔をして、銃口から逃れようと、椅子の上で体を捻る。
「ほらほら。そんなオモチャは、お茶の時は片付けておくものですよ」
香苗がアキラの分の湯飲みを置きながら注意して来る。
小学生だった時に、食卓へミニカーを持ち込もうとした時と、同じノリであった。それを聞いてバツが悪そうにヒカルが銃を仕舞う。
銃を後ろ腰のホルスターに納めるため、ヒカルは上体を捻った。ボタンを留めていないから、胸元が大きくはだける。
「なに見てやがる。このエロガキ」
ギロリと睨まれてしまった。しかし、それはそんな恰好をしているヒカルが悪いというものだ。ちなみに余分な視線は、下に着ていた辛子色のチューブトップで遮断された。
二人が睨みあっていると、香苗がクスクスと笑い出す。
「こんなに仲が良いと、見ているこっちが恥ずかしくなってくるものなのね」
「まあ、若い二人ですから」
明実まで老成したようなことを言いだす。
「で? 今日はなんだよ」
起き抜けに飲みやすいよう、ぬるめに淹れられたお茶で口を湿らせる。
「研究所に行こうと思ってな」
「日曜出勤か?」
「まあ、そんなところだ」
冗談で言った言葉に、真面目に頷き返されて、アキラは呆れたように頬杖をついた。
「じゃあ一人で行って来ればいいじゃんかよ。オレを巻き込むなよ」
文句を言った途端、テーブルの向こうから軽い蹴りがきた。
「なんだよ」
視線をヒカルに向けると、顰めた顔で一階だけ香苗に視線をやってから、睨み返してくる。
「?」
「おまえは本当にマヌケだなあ」
意図する事が分からずにいると、しみじみといった感じで言われてしまった。今日初めていつもの表情が見られた気がする。
「まあ、そう言うな。それがアキラの良いところでもある」
明実はうまそうにお茶を飲み干すと、テーブルの上で指を組んだ。
「ほら。二人には『生命の水』の注射が必要な頃だろ。そうじゃないと銃じゃなくて、日本刀で戦うことになるぞい」
「日本刀?」
なにを言っているのだろうとキョトンとしていると、あからさまにヒカルが舌打ちをした。それで脳の回路が繋がったのか、金曜日の放課後にあった事件をアキラは思い出した。
あのカタナ女が敵か味方か分からない内は、三人一緒で行動するという話しになっていたのを忘れていた。
「日本刀でたたかう?」
香苗がキョトンとする。
「それどこのオーレン・イシイ?」
「誰それ?」
「わからなければいいのよ」
香苗は謎の微笑みを残して湯飲みを傾けた。
二軒並んだ海城家と御門家。そこから清隆学園に向かうのは、ちょっと面倒臭かった。いつものバス停まで歩いて向かい、そこからバスに乗って私鉄駅にあるバスターミナルで乗り換え、別のバスで一番近くのバス停で下車。そこから河岸段丘を下りていく市道を歩いて行かなければならない。
では付属の研究所に行くのはどうなのかというと、途中までは同じであった。違うのは、バス停で降りた後、河岸段丘を下る坂道の方へ行かず、台地の縁沿いにのびた国道を歩いて行くところだ。
まあタクシーなどを呼びつけるという方法もあることにはあるが、贅沢は慎みなさいという両家の教育方針から外れることになる。
という事で、アキラたち三人は、いつも利用するバスを乗り継ぐ方法で、清隆学園までやってきた。
都市間輸送を担っている大型トラックの排気ガスを浴びながら、バス停から歩道橋のある交差点まで来る。ここで曲がれば高等部などがある清隆学園の敷地へ向かう坂道だ。今日は研究所を目指すため直進する。郊外型レストランや、駐車場の広いコンビニを過ぎて、程なくして低くて赤いレンガ壁に囲われた敷地が見えてくる。
コンクリート製の門柱だけの入り口に掲げられた陶器の看板には「清隆大学科学研究所」とある。
門柱のところから見ると、プロティロ構造の入り口を持った低い建物が、広い敷地にポツンという印象で建っている。入り口の前には、真ん中にトウジュロが目立つ植え込みがあり、車寄せを直接見ることはできない。
建物の壁は、敷地を囲っている壁と同じように赤いレンガで化粧されているが、建物自体は鉄骨コンクリート造りの頑丈な物である。
建物の周囲は見渡す限りアスファルトで固められており、向かって右側が来客用の駐車場、左が職員用の駐車場だ。出入りの業者なんかは、裏の駐車場に停めることになっている。
「おや」
明実が無感動な声を上げた。
「?」
アキラがその視線の先を追ってみると、来客用駐車場に見慣れない車が停められていた。
「リムジンったあ豪勢だな」
ヒカルが咥えていたキャンディの柄を揺らして感想を述べた。
「しかも初代センチュリーのリムジンとは…。アキザネ、なにやらかした?」
「失礼な事を言うな」
襟元を正しながら明実は背中を伸ばした。
「オイラがやらかしたことなど…」
ふと、後ろを向いて何かを指折り数えてから、前を向きなおして胸を張った。
「やましいことなど(ちょっとしか)ないぞい」
「あるんじゃねえか。大体、あんな黒い車に、なにビビってんだよ」
「知らんのか?」
威勢のいいことを言ったアキラに、二人とも眉を顰めた。
「?」
「あれは内閣総理大臣専用車として使われている車だぞ」
「ないか…、ええっ!」
日本の偉い人ご用達と聞いて、慌てて認識を改める。
「まあナンバープレートからして、その物ではなく、同型の車と言った方が正しいが。研究所に現れた高級車。厄介ごとに決まっておる」
「なんで、おまえが総理大臣の車のナンバーを知っているのかは置いておくとして。並み大抵のお金持ちというわけではない、と」
「そうだ」と、うなずいた明実は、さらに人差し指を立てて付け加えた。「しかも、いま研究所で金持ちどもが目をつけそうな研究と言ったら、オイラの『施術』が最右翼だ」
「こんな技術が?」
不思議に思って自分の体を見おろしてみる。この体になって三か月。いまでは、やっと自分の体として馴染んできたところだ。
「なにせどんなに金を持っていても、いつかは寿命という物に追いつかれるのだからな。長生きしたい老人ならば、いくらでも金を出すんじゃないか?」
ヒカルがプイと横を向いてしまった。
「でも、未完成なんだろ?」
アキラが『施術』によって、死ぬほどの大事故から生還できたのは、複数の偶然が重なった産物だと説明されていた。
「たしかに未完成だな。まだ動物実験でも五〇パーセント以上の成果が出ておらん」
「オレを男に戻すのも、まだだしな」
「それは…」
明実はチラリとヒカルを見て、それからアキラを見おろした。
「ヒカルの技術的助言は色々と役に立っているところだ。もうしばらく待って欲しい」
「しばらくねえ…」
アキラを男に戻すのに、どれくらいかかると最初に訊いた時は、五十六億と七千万年かかると言われていた。それから比べれば、なんと身近な時間となったことか。
「まだ正式発表できる段階には程遠いし、そんなバクチに金を出す者がいるとも思えん」
「でも、いつか完成するんだろ?」
「そうなったら歴史に名が残るな」
「でも…」ヒカルの方を遠慮がちに見る。ヒカルのマスターは殺される前に、ほぼ『施術』を完成させていたようだ。それなのにクロガラスの刺客に倒れた。クロガラスも『施術』を完成させている節があるが、不老不死の発明者として名前は出ていない。
「どちらにしろ、ここで回れ右をするわけにはいかないだろ」
ヒカルが二人を促した。
「ま、まあな」
三人は、そのリムジンを眺めながら植え込みを回り込み、研究所の入り口に立った。二重の自動ドアが出迎えてくれる。
入ってすぐは、天井に半球状の天窓を設けたホールとなっている。向かって右に受付カウンターがあり、左がサロンとなっている。
そのカウンターに座っている女性が曖昧な微笑みで三人を出迎えた。
「イラッシャイマセ。海城あきら様。新命ひかる様」
受付嬢は機械的な声を発しながら会釈した。まばたきをするが、どこか浮世離れしているような表情をしている。けっして日曜の午前中から危ない薬を決めているわけでは無い。彼女の(と言っていいのか分からないが)肌は合成ポリマーで、骨格は軽金属なのだ。
受付用のアンドロイド。これも研究所で開発しているロボット工学の産物だ。
カクカクと首を明実に向けた受付アンドロイドが、複眼の瞳で明実を識別する。
「オカエリナサイマセ、ゴ主人様」
「毎回思うんだが、趣味悪いぞ」
ヒカルが明実に釘を差した。
「まあまあ」
満足そうな笑顔を浮かべた明実は、カウンターに寄りかかるようにして受付アンドロイドに顔を寄せた。
「今日は実験の続きをしようと思って登所したんだ。二人と合わせての入所、問題ないよね」
「ソレデスガ、ゴ主人様」
一礼したアンドロイドが、右手を上げて、揃えた指でホールの反対側を指し示した。
「今日来ラレルト連絡ガアッタ後ニ、オ客様ガオイデニナリマシタ。アチラニテオ待チデス」
「お客さま?」
明実が振り返って二人と顔を見合わす。ヒカルはやっぱり面倒事かという顔になっていた。
「ゴ案内致シマス」
「その必要は無いよ」
立とうとするアンドロイドを手で制した明実は、真っすぐとサロンの方へ向き直った。
「ソレデハ、コチラガ、オ名刺トナッテオリマス」
客人が出したらしい名刺がカウンターに置かれる。それをアキラが手に取った。
「商工会顧問、醍醐クマ?」
「クマさんか。八っつぁんはどこだよ」
ヒカルの軽口に、目を点にしていると、バツの悪い顔になる。
「まあ、アキラに古典芸能の知識を求める方が酷と言うものであろう」
どうやら話しが分かったらしい明実が、アキラが指の間に挟んだ名刺を、スリのように掻っ攫った。
半球状の天窓からの光へ透かすようにして名刺を検分する。
「住所も電話番号もなし。わざわざ書かなくても受け取る側は知っているはず、ということなのかな。肩書はアキラの読み上げた物だけ…、この簡素さは裏稼業の者に似ているな。簡素な印刷だが紙には透かしが入っているぞ。これは桐生和紙かな? 印刷もよく見れば活版じゃないか、だいぶ手間暇をかけた逸品だということが分かるな」
ふと半分入った欧州の血を象徴する高い鼻を近づける。
「梅の香り? というと、あそこにいるのは名刺の本人ではなく、代理人といったところか」
明実が名刺を手にしたあたりで、サロンに並ぶソファから立ち上がった人物がいた。中年と思われる男性で、肩幅のがっしりとした肉体を、黒い高級スーツで固めている。面差しはとても鋭い物で、アキラは動物園で見たトラを連想した。髪も身だしなみも崩れているところは一切なく、革製らしきドライバーズ手袋だけがドレスコードから外れていた。
「ありゃヤバイぞ」
こちらに向いたオールバックの男から隠れるように、ヒカルは明実の背後へ移動した。
「やばい?」
いかにもこの事態を楽しんでいる風だった明実の眉がちょっとだけ動いた。
「あたし流に言うなら『デキる男』だ」
「ほう」
半分だけ振り返ってヒカルの左手を確認する明実。それがまだ自然体な事を見て取った彼は、笑顔を強めると大股で男の方へ歩み寄った。
ヒカルは一回自分の背後を確認してから、明実の後ろをついていく。アキラは少し遅れた。
先頭を行く明実と、格闘技で言う間合いに入る距離の少し前で、右手を胸に当てて、男は深々と頭を下げた。
「御門、明実さまでございますね」
声は良く通るバリトンといったところ。外見にとても似合っていた。
身長は、待ち合わせの時に目印にされる程に高い明実とほぼ同じであった。水平に両者の視線が交差する。
「はい、そうですね。ボクのことです」
一瞬だけ彼が眉を顰めたのは、どうやって応対しようか迷ったからであろう。
「我が主が、御門さまと面会したいと希望しております。お時間をいただけないでしょうか」
「あるじだって」
今どき本当にそんな単語を使っている人間がいることに、アキラが間を丸くしていると、遠慮気味にヒカルに小突かれた。
「う~ん」
難しそうに眉を顰めて見せる明実。それが演技であることはアキラにはすぐに分かった。
「ボクも色々忙しいのですが、どういったご用件で?」
「御門さまの研究なさっている『施術』に関して、と申し上げればご同道していただけますでしょうか?」
「はて、せじゅつ?」
とぼけても無駄である。ヒカルは鉄面皮のように動かなかったが、アキラの顔に動揺が現れていたからだ。
それを困ったように振り返って確認した明実は、気障な仕草で肩を竦めた。
「こんな格好しているけど、大丈夫ですか」
自分が袖を通している白衣を摘まみ上げて見せる。それに対して男は深々とお辞儀しなおした。
「結構でごさいます。それでは、さっそくご足労願います」
先に立って自動ドアに向かう男。それについて行くのではなく、明実は再び受付カウンターの前に戻った。
「あ~、お客さんに誘われるまま出かけてくるから、教授との昼食会はキャンセルしておいてくれるかな?」
「カシコマリマシタ」
一礼するアンドロイドに別れを告げて、明実も自動ドアに足を向けた。
「イッテラッシャイマセ、ゴ主人様」
合成音声がその背中を追った。
やはりというか、男が案内したのは駐車場に停めてあったリムジンであった。先に着いて待っていた男は、三人が近寄ったタイミングで、観音開きのドアを開いた。
「おー」
こういう物に乗るのが始めてなアキラが、内装の豪華さに声を漏らす。模造でない本物の木をふんだんに使い、シートももちろん座り心地良さそうな革製だ。そんな床が剥き出しであるわけがない。そこは毛深い白いじゅうたんで覆われていた。
車内を確認したヒカルは、アキラに向かって顎を振った。
「奥は、おまえが入れ」
「え? でも上座とかあるんじゃないのか?」
躊躇するアキラに、ヒカルは機嫌悪そうに言った。
「こんな普段着で上座もクソもあるか。それより明実を挟んで乗る方が重要だ」
つまりヒカルとしては、護衛対象として一番守りにくい明実を優先した席順ということなのだろう。なにせ最悪の場合、アキラならば重傷を負っても『施術』で治せばいいのだから、見捨てることが出来る。まだ普通の体である明実の場合は、そうもいかない。
「まあ、ここはヒカルの意見が優先だな」
明実が道を譲ってくれる。
三人がなかなか乗らなくても、無表情でドアで待つ男に、何かしら不気味な物を感じて、アキラはマジマジと見てしまった。
鍛えられた筋肉は見事だ。まさかクリーチャーかと思い目を見てみるが、あの瞳孔の奥にチラリと見える青い炎を、彼は持っていなかった。
「えっと…」
スニーカーを履いた自分の足元を見る。
「土足でいいんですか?」
「はやくしろ」
返事は男からでなく、後ろのヒカルからあった。このままでは尻を蹴り上げられると思ったアキラは、急いで乗ることにした。
「じゃ、じゃあ。お邪魔しまーす」
我ながらマヌケな挨拶だなと思いつつも、アキラは男に会釈して、一番奥の席に座った。次に遠慮なく明実が乗ってきて、ヒカルが周囲を確認してから体を滑り込ませてきた。
優しく、しかし確実に男は扉を閉め、ボンネットの前を回って運転席に着いた。
客席と運転席は小さなガラス窓で仕切られていた。双方で会話するには、客席の天井にある小さなインコムで行う必要がある。男が運転席にあるスイッチを入れ、半分だけ振り返って三人に告げてくる。
「それでは、まいります」
男はとても静かにリムジンのハンドルを取った。いつキーを捻ったか分からない程、余分な揺れどころか、エンジンの振動すら届かない。
「はえー」
改めて車内を見ていると、ヒカルが不機嫌そうに言った。
「そのマヌケな口を閉じてろ。田舎者に見えるぞ」
「そんなこと言ったってよ」
研究所の車寄せを回り、国道へ出る。
「どこに連れて行かれるんだろうな」
どこか楽し気にヒカルが言う。
「場末のドライブインシアターじゃないか? そこでB級のSF見せられるんだ」
これは明実である。
「どっちにしろ、遠くのような気がする」
アキラの予想は、いい意味で裏切られることになった。清隆学園がある自治体から西に移動し、日本で四番目に小さい市へ入ると、すぐに住宅街を抜けている一方通行へハンドルを切った。
同じ市内でも学生たちが集まる地区とは異なり、いわゆる高級住宅街へと入って行く。小さな公園に、小学校。私立幼稚園などを訪れるように車窓にした後、リムジンは欧風の門構えの前で停車した。敷地を囲う、上端がラテン調の緩やかな曲線を描く壁にあわせたような、青銅製らしき両開きの門である。
ガラス越しに運転席を見ていると、男がテレビのリモコンのような物を門へ向けて操作すると、誰も触れていないのに門が開いて行った。
左右が完全に開ききってから、しずしずと敷地の中へと入って行く。
庭も壁と同じように明るい色で統一されていた。リムジンが進む車道は、やけに白い色をしたタイルで舗装されており、その左右を赤や黄色のレンガで縁石を形作っていた。縁石の外側の庭も手入れが行き届いている見事な物で、葉の色が鮮やかなオリーブの木が植えられていた。
「ふふふ」
明実が豪邸の様子を見て笑い出した。
「また悪い笑いを…」
ヒカルが窘めるように言うが止まらない。
「これだけの金持ちだとすると、今後、研究費には困らないな」
「まあ、ウチからは一銭も出してないしな」
命を助けられたことになっているアキラがつまらなそうに言った。
「オマエは未来の息子ではないか。カナエさんの夫として、当たり前だろう、助けるのは」
「またこんなこと言い出した」
ゲッソリとした顔をしてみせると、明実の向こう側にも似たような表情があった。
「着いたみたいだな」
両側の表情は気にならないのか、それとも最初から眼中にないのか、明実は前方を楽しげに見ている。アキラの視界でも、運転席との境目のガラス越しに見える前方に、二階建てらしい建物が見えてきた。
外周の門から庭まで、南欧風で見事に揃っている敷地に、純和風の建物が建っているわけがない。これまた南欧風の建物であった。
外壁は薄い黄色からオレンジ色に見える塗り壁で、職人の鏝跡がわざと残されていた。瓦は赤い素焼きの物で、壁との統一感が図られており、それは見事に成功していた。
規則正しく並んだ窓は全てアーチ状の造りとなっており、窓枠に取り付けられた鎧戸と窓柵は濃い緑色に統一してあった。それが壁や瓦と補色関係となっており、これまた全体の雰囲気を損なっていない。
正面にアーチを組み合わせた車寄せがあり、そこに人影があった。リムジンが、いつタイヤが完全に止まったか分からないほど静かにそこへ停車すると、スカート姿のその人物が扉に手をかけた。
外壁と同じ色調をした幅広の階段が二段あり、開けっぱなしのままの両開きの扉から覗く玄関ホールには、見事なステンドグラスが飾られていた。
「いらっしゃいませ」
リムジンの扉を開けて頭を下げているのは、どうやらこの屋敷のメイドの様である。
「おい」
最後に降りたアキラは、囁き声で驚きの声を上げるという器用な事をした。すかさず仏頂面のヒカルに制せられた。
扉の横で面を上げたメイドは、年の頃は十五、六、つまりアキラたちと同じぐらいに見えた。ただ、その顔に見覚えがあったのである。
薄く頬紅を重ね、艶やかな唇には健康そうな色をした口紅を差している。目尻に嫌味にならない程度のアイシャドウを入れた目は、意志の強そうな茶色い瞳を持っていた。
健康的な美が印象的なその娘は、金曜日の放課後に清隆学園へ乗り込んできた、あのカタナ女そっくりであった。
ただ、服装の方は全然違う。動きやすそうだった前回と違い、カジュアルメイドと表現するのがピッタリの格好であった。
あまり起伏の感じられない上半身は、ギンガムチェックをしたハイネックノースリーブバックオフに、白いセーラーカラーを後付けし、赤い紐タイをリボン結びしていた。
これまたギンガムチェックの膝丈フレアスカートには白いレースの縁取りがついており、そこから伸びる細い足は、黒いニーハイで包まれていた。左腿だけにサテンのベージュ色リボンを巻いている。足元の厚底サンダルまでギンガムチェックであった。
前に揃えられた腕も、あの豪風を起こした大太刀を振り回したとは思えない程の細さで、いまは白い長手袋に包まれていた。両手首にはカフスカラー風の腕輪が嵌められている。
こうして明るいところで見ると紅茶色に見える長い髪は、変わらずポニーテールに纏められているが、サイズの小さいギンガミチェックのキャスケットを斜めに乗せて、ピンで留めていた。
メイドは、美しい面差しを、訝しそうに歪めた。
おそらく同一人物で間違いないだろう。が、あの時は空楽と戦うことにかまけていて、野次馬までは見ていなかったのだろう。向こうがアキラたちに見覚えが無い、または印象が薄くても、それはおかしくないことに思える。対してこちらからの印象は強烈だった。それがメイドを見る二人の視線に露われてしまったのかもしれない。
後ろでリムジンと扉が閉じられた。いつの間にか、運転手を務めてくれた男が降りてきて、三人の後ろに立っていた。
「それでは、お客さまをご案内して」
男の命令に再び深く一礼するメイド。
「かしこまりました。こちらへ。奥さまがお待ちです」
メイドが先に立って歩き出した。
玄関ホールには、見事な曲線を見せる屋内バルコニーへ続く階段が、左右に設けられていた。その階段に挟まれる位置に、人の背よりも高いステンドグラスが嵌め込まれている。
そこに描かれているのは、どうやら聖書のワンシーンのようであった。
たくさんの人を前に、何かを取り分けるような仕草の白い人物。
「ルカ九章だったか? 最近、教会へ行くのをさぼっておるからなあ。たしか『するとイエスは、五つのパンと二匹の魚とを手に取り、天を仰いでそれらを祝福して裂き、弟子たちに群衆に配るように与えられた。人々はみな、食べて満腹した。そして、その余ったパンくずを集めると、十二カゴあった』」
明実がステンドグラスを指差して呪文を唱えるように解説してくれた。言われてみれば白い人物のところに五つの茶色い丸い物と、魚を表現しているだろう箇所がある。群衆の方にはカゴが散らかっており、指差し数えたら十二個あるようだ。
「素晴らしい出来だ」
明実がステンドグラスを称賛すると、階段の脇で待機していたメイドは一礼した。
「わざわざイタリアから職人を呼び寄せて、この別宅に造らせた物でございます」
「べったく?」
平仮名で聞き取ったアキラが聞き返すと、メイドはわずかにだが微笑んだ。
「奥さまの本宅は高知にありますので。こちらは仕事がある時の住まいでございます。わたくしは、こちらだけでお世話をさせていただいており、あちらは不案内でございますが」
「ふむ」
明実は感慨深そうに自分の生えていない顎髭をまさぐった。
「暗示的ではないか、この窓絵は」
そういってアキラを身長差で見おろすと、皮肉っぽい表情を作って見せる。
残念ながら聖書にも教会にも精通していない、ただの日本人であるアキラに、彼が言いたいことが分かるわけが無い。
「さて、いくか」
充分にステンドグラスを鑑賞した明実が、階段脇で待つメイドに視線を移した。それだけで意を察したメイドが、ちょんと頭を下げて歩き出す。
階段の下をくぐるようにして、眩しいほどの中庭に出る。そこも緑色の芝生と、白い敷石の赤い縁石といった空間で、その向こうに窓を開けたままのテラスがあった。
天気は、夏を先取りしたように晴れていた。まだ梅雨前だというのに、こう晴天が続くと、暑い季節に水不足が心配になるというものだ。
メイドの小柄な背中について、わざと緩やかな曲線を持たせた散歩道を歩き、反対側のテラスへと赴く。
「あんな背中が丸見えな服。恥ずかしくないのかなあ」
ふと感じたことを、横を歩くヒカルに漏らしてみる。陽光の下で見るその背中に、下着類などで余分に視線を遮るものはない。健康的な肌が丸見えである。
「このエロガキ」ジト目で睨まれた。「服自体にカップが縫い付けてあるんだろ。それと前かがみになった時に隙間ができないように、両面テープで貼っておくとか、色々あんだろうが」
「へ~」
さすがに、服を地肌に貼るという発想が無かったアキラが、感心した声を漏らす。
テラスには木製のテーブルと椅子が数脚だしてあったが、使われていなかった。開けっ放しの足元まである窓をくぐると、そこは広い寝室になっているようである。
「ひゃん」
足元から声がしたので視線をずらすと、あの変身(変形?)した子犬が、床に伏せていた。盛んに尻尾を振っているところを見ると、襲ってくることはなさそうだ。
「奥さま。御門さま他二名。ご案内してまいりました」
「ごくろうさま」
子犬が控えているすぐに、寝心地の良さそうな広いベッドが置かれていた。そこに一人の老婆が横になっていた。
三人が訪れたので上体を起こそうと上掛けをめくった。慌ててメイドが駆けよって、その手助けをする。
「すいませんね。なにしろ歳なもので体が利かなくて」
老婆が楽に上体を起こしておけるように、メイドがクッションを集めて支えを作った。その間に明実は見舞客用らしい椅子に座る。アキラとヒカルの二人は、その後ろに立った。
ようやく体が安定したところで、一息をつく。
「ダイヤちゃん。お茶の準備をお願いしていいかしら」
「はい」
一礼してダイヤと呼ばれたメイドが、続き間の方へ姿を消した。どうやらそこに小さなキッチンがあるようだ。
「さて」
老婆がなるべく背筋を伸ばして、明実と顔をあわせる。
「自己紹介が必要ね。私は醍醐クマ。あなたたちと似たような存在と言ったら驚くかしら」
「え?」
改めて幼子のように小さい体を見る。顔も手も、若い頃が想像できない程に皺だらけである。髪は真っ白で、女性であっても老齢のせいかその量もだいぶ薄くなっている。それを全部後ろに流しており、頑固そうな顎や、瞼に埋もれそうな目など、第一印象だけで判断すると嫁にうるさい姑といった雰囲気である。
声の方も老人らしく落ち着いた物であったが、掠れなどは一切なく、声量も普通にあるせいか、聞き取ることに問題は無かった。
いまは入院着のようなガウンに身を包んでいるが、お洒落には気を使っているのだろう、化粧はしていないが全体的に清潔感を感じさせる佇まいだ。
ほのかに梅の香りがした気がしたのは、先入観だろうか。
そして鋭い眼。その虹彩の奥には、特徴的な青色の炎が見えた。間違いない『施術』によって『構築』されたクリーチャーだ。
「礼儀として、こちらからも名乗った方がいいでしょうね。ボクが御門明実です」
普段、高等部では見せない真面目な様子で明実が胸に手を当てて自己紹介する。そして半分だけ振り返ると、それぞれに手を向けて紹介を始めた。
「こちらはボクが『施術』によって助けた幼馴染の海城アキラ。こちらは縁があってボクらの護衛役を買って出てくれている新命ヒカル…、いやエシェックという名前の方が知られているのかな?」
新命ヒカルという名前は、海城家で一緒に暮らすことになった時に、香苗がつけたものだ。それまでヒカルはエシェックと名乗っていた。
「お噂はかねがね耳にしていましたよ」
厳しそうだった顔を、人好きする笑顔にクシャッとさせて、クマがヒカルに微笑んだ。最初に受けた印象が、頑固者のようだというマイナスなものだったから、その笑顔は何倍も魅力的に見えた。
「たしかシロクニゴイチさんの…」
「シロクニは亡くなりました」
クマの言葉を遮るようにヒカルが自分のマスターの消息を口にした。
「ええ、ええ。それも聞いていますよ」
笑顔を泣きそうな物に変化させたクマは、何度もうなずいた。意外にこのおばあさんは表情豊かなようだ。
「一緒に歩いて来た人が亡くなることは、悲しい事ですよね」
「で、ボクたちは貴女の招聘でここまでやって来たわけですが、何の用ですか?」
放っておいたらいつまでも水飲み人形のように頷いているような気がして、明実が話しの先を求めた。
「ごめんなさいね。歳を取ると涙もろくなってね。そうですね、簡単なことなんですよ」
指先だけで目のあたりを拭ったクマは、部屋の一面を占める暖炉の方を指差した。
「あれが何だかわかりますか?」
暖炉の上には、ガラスでできた容れ物が並んでいた。一つずつがチェスの駒を模った形をしている。そのどれもが首のところが蓋になっていて外す事ができそうな意匠だ。
何も知らずにその一揃えを見たら、お洒落なデキャンタと思ったかもしれない。
そして、そのどれにも自ら青く光る液体が湛えられていた。
「『生命の水』」
自らそれを作ることが出来る明実は、一目で分かった。もちろんアキラもヒカルもわかる。なぜなら二人にとって、食事や睡眠と同じようにクリーチャーとなった今では生命を維持するのに必要な液体だからだ。
だが、いま暖炉の上に並んでいる『生命の水』は、いつも見ている明実製の物とはちょっと違うようだ。端的に言うと、液体自体が発している光が弱々しいのだ。
「私は一〇〇年近く前にマスターの手によって、この体になりました。しかし五〇年ぐらい前に、そのマスターを失いました」
「失った?」
ヒカルが疑い深い声で訊いた。
「死んだのか?」
重い病気を患ったり、寿命が来たのなら『施術』によって、新しい体を手に入れればそれらによる破局を防ぐことが出来る。その時には自分自身を『構築』することができないので、マスターは大抵一人のクリーチャーを支配下に置いているとされている。
しかし突然の事件事故では、その『施術』が間に合わない事がある。ましてや…。
「殺されたんです。ブラッククロウと名乗る錬金術師に」
「ブラッククロウ…」
三人は顔を見合わせた。もしかしたら違うかもしれないが、三月に刺客を送り込んできた錬金術師の名前はクロガラス。日本語と英語の違いはあるが、同じ名前である。
「ええ、ええ」
クマは何度もうなずいた。瞼にはまた涙が浮き始めている。
「あなたがたを襲ったトレーネの主人ですよ。同じ人に殺されたんです。クロガラスは『施術』を独占するために、他のマスターを殺してまわっているのです」
「五〇年も前からそういうことをやってんのか、あいつは」
ヒカルが唇を噛んだ。
「まだその頃に、トレーネはいませんでしたがね」
震える女主人の声を聞きつけたのか、隣室からメイドが駆け寄ってきて、ハンカチをそっと差し出した。
「ごめんなさいね、ダイヤちゃん」
「いいえ奥さま。お安い御用です」
「お茶の方は?」
「もう蒸らしも終わりましたから、すぐにお持ちします」
メイドは一礼すると、再び隣室へ下がった。
「主人を…。マスターを失くした私は、一人で暮らして来ました。幸い主人が残した財産がありましたから。でも、それも限界が近くなってきたようです」
「『施術』で『構築』した身体でも、歳はとるからな。いずれ老衰で死ぬことになる」
余所行きだった言葉遣いから、段々といつもの調子に戻り始めている明実。意地悪そうにクマを見ると、少し責めるような口調で訊ねた。
「まだ生きたい?」
「ええ。こんな人ではない体になってまでも、死ぬのは怖いんですよ。いけないことかしら」
クマのはっきりとしたこたえに、明実は肩をすくめてみせた。
「生きている者ならば普通の事でしょう。死ぬのが怖いなんて」
たまに、もう充分に歳を取ったから死ぬのは怖くないと言う老人もいることは知っている。が、そういう者だって、もし『あと十年は健康を約束しましょう』と言われたら、悪魔とだって取引するかもしれない。
「なまじっか表面的なウソを吐かれるよりは好感を持てますよ。それとも狙ってました?」
明実の質問に、泣き笑いのような顔をしてみせるクマ。
「で? オイラに『再構築』の依頼ですかな?」
「もしできるのでしたら」
クマの依頼に、うーんと腕を組んで考え事を始める明実。
「あなた自身は『施術』の経験は?」
「行ったことはありません」
「あ、だからか」
納得いったという顔をする明実。話しが飛んで分からないアキラが、後ろからそっと彼の白衣の裾を引っ張った。
「なんか問題でもあるのか?」
「ちょっと三秒だけ待て」
そう言って腕を組んだ明実は、きっかり三秒だけ目を閉じた。
その間に、茶器を載せたお盆を持って、メイドが現れた。サイドテーブルに置いた時にカチャリと陶器が鳴って、明実がそれを咎めるように振り向いた。
「確認させていただくが。その彼女は?」
「彼女は大岩輝といって、ウチでメイドをしてもらっている近所の娘なんですよ」
まるで自分の孫に向けるように慈愛のこもった目を向けるクマ。
「ちょっと早合点して、お宅の学校にお邪魔してしまったようね。ごめんなさいね」
クマが彼女の代わりに謝ると、ダイヤと紹介されたメイドも恥じて頬を赤らめた。
「すぐそこの清隆学園に、私の体を良くする方法を知っている学生がいるって聞いたら、飛び出して行っちゃって。コクリ丸まで持ち出して、大騒ぎだったでしょう?」
「ええ、まあ」
他の二人が反応しないので、アキラがこたえる。チラリと床の子犬に視線をやると、舌を出して尻尾をまだ振っていた。
「おおいわ、だいや?」
とても不思議そうな顔をするヒカル。
「どんな字を書くんだ?」
「大きな岩で大岩。輝くっていう字があるでしょ。あれ一文字でダイヤ」
「奥さま」
どうやら自分でもコンプレックスがある名前のようだ。ダイヤは女主人に悲しい顔を向けた。
「彼女はクリーチャーではない?」
ダイヤの超人的な技を実際に見ている明実は、いまいち信じられないようだ。
「あ~」
そのカラクリに気が付いた気がして、アキラが声を上げた。
「体質さえ合えばだが、一般人に『生命の水』を注射すると、一時的に体力や回復力が上がるみたいだぞ。それで酷いケガも治ることもある」
アキラは、瀕死の重傷を負った者を、自分の心臓から抜き出した『生命の水』で助けたことがあった。
「初耳なんだが」
とても機嫌悪そうに眉を顰める明実。それに対して申し訳なさそうに、アキラはこたえた。
「オレだって先月まで知らなかったんだし」
「そういうことはレポートを上げろよ」
「すまん、レポートなんて思いつきもしなかった」
「はあ」
溜息をついた明実は、それで気を取り直したのか、もう不機嫌さを感じさせない声でクマに訊ねた。
「では、その娘は『生命の水』を注入した人間であると」
「ええ」
クマはダイヤから渡された紅茶を注いだカップを受け取りながらうなずいた。
「この三月に、またブラッククロウに襲われてね。その時はゴンさんが…、運転手をやってくれている人よ…、追い払ってくれたのだけど、この娘が巻き添えになってね。申し訳ないやらなにやらで。それでイチかバチか『生命の水』の直接注射を試してみたのよ」
「では、あの力は恒久的な物ではないと?」
「生活している内に、少しずつ新陳代謝と共に体内から『生命の水』が排泄されて、いずれ力は失われるはずよ」
「ふむ」
明実はもう一度暖炉の上に並ぶデキャンタを眺めた。その間にダイヤは紅茶を注いだカップを配り歩く。アキラは受け取り、ヒカルは辞退した。明実は難しい顔をして考え事をしていたので、差し出されたカップに気が付きもしなかった。
「まず知っていてもらいたいのは」やっと口を開くと、人差し指を立てる。
「いくら天才のオイラとはいえ、まだ『施術』による『再構築』は、五割を切る成功率だという事。さらに付け加えるなら、人間に対する成功例はただ一回だけだ」
チラリとアキラへ視線がやってきた。
「成功率は、いくらか上がるかもしれませんよ」
むしろ笑顔さえ見せてクマが言った。
「すでに私はクリーチャーですし。『施術』の全てを知らなくても、あなたにアドバイスできるでしょうから」
「ふむ。オイラの知らない知識には興味があるな」と独り言にしては大きな呟きをしてから、明実は中指も立てた。これで立っている指は二本だ。
「それとおそらくオイラが使う『生命の水』と、そちらの『生命の水』では、細かい成分が違う可能性がある。そうだとするとオイラの『施術』のやり方では、あなたに合わないかもしれない」
「それも想定の内です」
飲みかけのカップをダイヤに差し出しながらクマはうなずいた。
「そういうことが試せるようにと準備はしてあります。アレを」
「はい」
カップをお盆の上に戻したダイヤは、暖炉に歩み寄った。歩兵を模したデキャンタを持って戻って来る。
「うへえ」
ついアキラの口から変な声が出た。そのデキャンタの『生命の水』には、ある物が沈められていたからだ。
ブヨブヨに膨らんだ肉に、筋が見える。液体に浸かってふやけているだけではなさそうだ。何重にも刻まれた皺も印象に影響している。そして片方の端には小さな爪が生えていた。
概して人間の指、それも右小指と思われる物であろう。
そのサイズといい、刻まれた皺といい、おそらくはクマの物と推察したアキラは、素早く視線を走らせた。
「あれ?」
布団の上に置かれたクマの指は十本揃っていた。
「これは?」
ダイヤからデキャンタを受け取った明実は、それを光に透かすように観察しながら質問した。
外から差し込む陽光に照らされた小指は、『生命の水』が揺れるままに、ブルンと身震いのようなものをした。
「私の右小指ですよ」
「の割には、欠けていないように見受けられるが?」
デキャンタごと振り返った明実は、笑顔を作り直すと、目でクマの右手を差した。
「私は『施術』を習わなかったけど、手足の予備を作る方法は教わっていてね。こうして自分の指ぐらいなら、すぐに作ることができるのよ」
「ほほう」
興味深そうに明実が声を漏らす。
「本当に、オイラが知らない知識をお持ちのようだ。是非ともその方法をご教授願いたい」
「もちろん。自分の身体を任せるんですもの、そういった知識の面での協力は惜しまないわ」
「それと同じ敵を持つ者同士、身を守ることについても協力が得られれば、なお心強い」
「それも拒否する理由は無いわ」
首を縦に振って微笑むクマ。
「まあ実際は、彼女に助太刀を頼むことになるだろうけどね」
明実の目がダイヤの上で止まった。
「あとは、敵の情報もあったら心強いのだが」
「いま人を雇って情報を集めているところですよ」
「そんな情報なんて、集められるのか?」
脇から、つい口が動いたといった感じで、ヒカルが訊いた。
「ええ」
会話に入り込んできたことを怒るでなし、慈愛の微笑みのままクマはこたえた。
「あなたは知っているか分からないけれど『生命の水』を作るのに、ある特別な物質が要るのよ。その流れる先を辿っていけば、だいたい察することぐらいはできるのよ」
クマの台詞を聞いて、アキラは似たようなことを明実も言っていたことを思い出した。
「いまのところ監視は置いていないけれど、ブラッククロウの活動拠点と思われる場所が一つ、栃木県に。それと都内に、私たちでも、ブラッククロウでもない第五のマスターと思われる人物が一人」
「その第五の人物は、味方かな?」
明実が訊くと、力無く首を横に振る。
「どうやら昔で言う一匹狼を気取る人物らしくて、仲間になってくれるとは思えないわ」
クマがダイヤに手招きをする。ダイヤは再びティーカップをお盆から取り上げた。
「そいつの噂は聞いた事がある」
ヒカルが腕組みをして口を開いた。全員の視線を受けて、ちょっと驚いた顔をして見せる。
「東京の雑踏に隠れるマスターの噂だ。なんでも、そいつはホームレスを捕まえては、自分の餌にしているそうだ」
「どこでそんな噂を拾ってくるのかは、ともかく」
明実が難しい顔をする。アキラは、ヒカルがそういった眉唾な都市伝説すら扱っている裏のサイトに、アクセスしているのを知っていた。
「人を喰らう化け物が、オイラたちの味方をしてくれるとは、思えんな」
「そんな相手なら、監視をつけるのも厄介そう」
クマも渋い顔をしてみせた。
「じゃあしばらくは遠巻きに監視するというのが一番かな? 藪をつついて蛇を出すこともあるまい」
明実も渋い顔になった。敵対している者がいる場合、不確定要素はなるべく排除した方がいいだろう。が、中立の者を刺激して敵に回してしまうのは愚策と言える。
「とりあえずオイラは、あなたの『再構築』を考えておけばいいのかな?」
「よろしくお願いするわ」
「と、すると。こいつで色々実験する事になるが」
再びデキャンタを差し上げて、中を丹念に観察する。
「切り刻んだり、薬に漬けたり、酸で洗ってもいいのだろうか? その場合は、返却は無理となるが」
「ええ、大丈夫よ」
明実の前で小指が動き始めた。
「うへえ」
まるで芋虫を連想させるその動きに、アキラの口から声が出た。
「この敷地内ぐらいだと、まだ繋がっているけど。あなたの研究所まで離れれば、切られても煮られても、痛くもかゆくもないわ」
「逆に、この距離だと感覚は存在すると?」
明実に別の興味が湧いて来たらしい。
「もし追加で試材が欲しいと言ったら?」
「すぐと言っても時間がかかるけど、また作ることは可能ですよ」
明実はデキャンタを脇に抱えるようにしながら立ち上がった。クマへ右手を差し出しながら笑顔をつくる。
「それでは早速、実験室に籠って、あなたの『再構築』が可能かどうか試してみたいと思います。これからもよろしく」
「ええ、こちらこそ」
クマの細い腕が差し上げられ、彼と固い握手を交わした。