六月の出来事B面・⑥
「まったく、あいつは」
ブツブツと呟きながら由美子はD棟の二階を進んでいた。この階はC棟から入ると、手前はとても騒がしいエリアだ。学生会館や談話室など、暇な生徒が駄弁る部屋しか並んでいない。
しかし、ちょうど真ん中にある学生サロンという広場を過ぎると、途端に静かになる。
B棟側には、生徒会執行部をはじめとした各委員会の活動拠点があるのだ。ここに部屋が無いのは、図書委員会と、それと保健室が拠点になっている保健委員会ぐらいなものだ。
途中の廊下で、委員会に所属する、または用事がある生徒たちとすれ違う。
「あ、藤原さん」
途中で彼女を呼び止めたのは、生徒会長の山田亜紀登自身であった。取り巻きを誰も連れずに一人で歩いて来るものだから、他の上級生と見分けがつきにくい。
「これは生徒会長。なにかありました?」
残念ながら現図書委員長は、あまりやる気が無いようだった。よって図書委員会の運営は由美子の双肩にかかっているといって、大げさではない。
月に一回の委員長会議にも、代理の資格で参加しているため、一年生ながら顔は売れていた。
「図書委員会の方に、記録が残っていないか調べて欲しい案件があってね」
生徒会において、図書委員会は過去の資料を管理するというのも大事な仕事の内だった。よって生徒会執行部で重要案件の議題が上がると、過去の前例を調べることを任されることも多い。
「はあ」
由美子の顔には(毎日のカウンター当番分の人員を確保するのがやっとで、余剰人員はもう残っていないんだけど)とデカデカと書かれていた。
「まあ、詳しくは生徒会事務室から書類が回っていくと思うから、よろしくね」
「はあ、まあ」
気が進まないが、業務の内では仕方がない。しかも前例が無いか調べるというのは、けっこう重要な仕事である事も理解していた。大きなことを言うようだが、国の最高裁判所だって、判例という名前の前例に沿って判決を下すのだ。
「どこも人材不足なのは分かっているけど、円滑な生徒会運営のために、ここは一つ頼むよ」
などと山田会長は、無理な発注を下請けにする営業マンのようなことを言った。
「善処します」
こちらは副委員長ながらも一年生で、向こう二年生。しかも選挙で選ばれた生徒会長である。できる返事など限られている。
そんな小さなハプニングが廊下であったが、なんとかD棟を通過できた。それからB棟と境目の階段室を上り始める。教室の方では四時間目の講習会が始まっているらしくて、シーンとしていた。
それを屋上まで上がる。
こまかい網のような格子状の補強が入れられた防災ガラスの窓が三面あるペントハウスまで来た。他の二面はただの窓だが、北側の物は足元までの大きな物だから、そこからB棟の屋上へ出ることができる。
(サッと出て、有無を言わさずに確保。それから図書室に引き摺ってでも連行)
ペントハウス内で作戦を立て、そしてそれを実行しようと、サッシに手をかけた。
「え?」
視界の全てが青い光に染まった。青空よりも青く、そして雲など一片も見ることのできない、不思議な空間。
(どういうこと?)
しかし、その時間はとても長いようで、短い物だった。
気が付くと、ガラッと屋上へ出るサッシを開いた姿勢で停止している自分がいた。
(なんだったの? いまの?)
白昼夢なんて自分が見るなんて、そんなことを一回も考えたことがなかった。しかし、今のがそれであろうか。
(そんなことより!)
慌てて我を取り戻し、B棟の屋上で望遠鏡を覗く男子生徒に突進しようとした。
「え?」
青く円い視界の中で、白色の点がゆらゆらと揺らめいていた。ひと時も落ち着いた様子を見せない。これは夜間と違って、昼間は地上よりの水分蒸発量が多く、それで発生する大気の濃淡が光を歪ませるからだ。
真鹿児孝之は、そんな悪条件でも、しっかりと対物レンズに冬の一等星を捉え続けていた。
「いいよお、いいですよお」
誰に話しかけるでなく、孝之は満足げな声を漏らし続ける。
「?」
その視界が白い物で塞がれた。
「なんだよ」
機嫌を悪くした声で、接眼レンズから顔を外す。しかし、自分の周囲を確認して、彼は絶句した。
「羽根?」
彼の周囲一メートル以内に、大型の鳥から抜けたと思われる白い羽根が、まるで雪のように積もり始めていた。
「え? え?」
真上から降り注ぐ雪のような白い羽根。孝之は中天に差し掛かった太陽がある上空を振り仰いだ。
まだ降って来る途中の白い羽根が舞っている中に、人影が浮いていた。それが一目で超自然現象と分かるのは、その人影が落下しているのではなく、制御されていると思われるゆっくりとした速度で高度を下げているからだ。
雲一つない上空から降りてくるその人は、まるでベッドの上で寝ているようにお腹の上で指を組んでいた。
逆三角形の広い背中を見るに、性別は男で間違いないであろう。
ただし、その肉体は筋肉ムキムキで、ピッタリとした白いタンクトップに、ウォッシュドジーンズ、足元はボクシングシューズというファッションで身を包んでいた。
肩から丸見えになっている腕も、首筋から顔にかけても、見える肌はどれも健康的に日焼けしており、肩口にBCGの痕があった。
日本人ではおそらくないだろう彫の深い顔立ち。髪も染めているというより生来の色と思える暗褐色であった。その髪を短く刈り込んでおり、清潔感はある。だが見事に蓄えた口髭と、タンクトップから溢れ出るボーボーの胸毛と腋毛は、いけていなかった。
瞼は穏やかな睡眠が続いているかの如く、穏やかに閉じられていた。
自分の頭の高さまで降りてきたところで、これを受け止めていいものか、周囲を見回す。
そこで孝之は、ペントハウスの所で目を丸くしている由美子に気が付いた。
両腕を差し出す。このプロレスラーのような全身筋肉でできた大男を受け止めるには不安がある。孝之には平均以下の筋肉しかついていないからだ、常識で考えれば無理であろう。体格差から到底受け止められないと思っていた孝之であったが、上空から降って来たその男は、彼の腕に触れると、まるでボールのように一回そこでバウンドした。
重さのない男を受け止めて呆然とする孝之。同じように呆然と近づいてくる由美子。
孝之は思わず言った。
「女の子~、空から親方が~」
「ちがうだろ」
つい由美子はツッコミを入れてしまった。
「それは、なんか違うだろ」
孝之の腕に、段々と重量がかかってきた。男の胸に青い宝石が輝いているわけでもなく、ただ胸毛が風にそよいでいるばかり。
とうとう重さに耐えかねて、孝之はその男を屋上へ下ろした。
「だ、だれよ、コレ?」
「見てたでしょ」
孝之は諦めた様に言った。
「オレに分かるわけが無い」