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六月の出来事B面  作者: 池田 和美
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六月の出来事B面・⑤



 結局、アキラは試し撃ちした電動のM九二を、ヒカルはM六〇を調整して使うことになった。明実は、ヒカルの助言を聞き入れたのか、コルトパイソンを選択。これは装弾数が二四発も入って、性能も安定しているからと、圭太郎からの助言もあった。

 その後、汚れてもいい服の貸し出しなども約束した後に、アキラ、ヒカル、明実、そして圭太郎の四人は、またあの長い渡り廊下を戻ることになった。

 すっかりと陽は傾いて、そろそろ下校時刻に近いはずだ。

 防火扉をくぐり、講堂の前を抜けたところで、前方に人ごみが現れた。

 脇から出てきたところを見ると、体育館か、格技棟で部活をしていた生徒であろう。だいたい男子と女子にグループ分けができており、女子のほとんどが首にタオルをかけていた。

「おや?」

 圭太郎がその一団の中に知った顔を見つける。

「ササキでないかい?」

 これは明実だ。平均身長より高めの一団の中に、男子に負けない程の背をした女子がいた。教室で別れた時は髪を結ってはいなかったが、いまはポニーテールにしている。

「?」

 離れていても武術を習っているからか、接近して来る四人に気が付いたようで、クラスメイトで『学園のマドンナ』である恵美子がこちらを振り返った。

「あら、めずらし」

 恵美子が目を丸くして四人が近づいてくるのを待ってくれた。

「どうしたの、こんな時間に?」

「オイラたちは、ちょっと寮の方へ用事があっての。そちらは?」

 明実の質問がおかしかったのか、恵美子がコロコロと笑った。

「部活の練習よ。言ってなかったっけ?」

 そういえば、そんな事を言って別れた記憶がある。恵美子の横に、アキラやヒカルと同じぐらいの、平均身長よりちょっと小さめの少女が、竹刀袋を持って立っていた。

「こちらは同じ剣道部一年のタエちゃん。タエちゃん、同じ一組のアキラちゃんに、ヒカルちゃん。それに御門くんと…」

 恵美子は圭太郎を見て小首を傾げた。

「二組の十塚だよ」

 覚えてもらっていなかったが、そんな事は些細な事だとばかりに、圭太郎が笑顔で自己紹介した。

「よ、よろしくおねがいします」

 タエと紹介された女子は、顔のソバカスが第一印象であった。あとは、剣道を始めてまだ日が浅いのか、肩にかけている竹刀袋が新品である。清隆学園の部活は、どれも都大会で上位に位置するほどの実力を持っているという噂だった。剣道部も、あと少しで全国大会常連校の仲間入りというポジションのはずである。

 とくに今年は、その美しさもさることながら、実力ですでに先輩方を大きく凌駕している恵美子の存在が大きい。よほどの事が無ければ、全国大会出場も夢ではないという下馬評だ。

 だからといって、剣道経験者ばかりが入部したのではないのだろう。どう見ても、このタエと呼ばれた女子は、今年から剣道を始めた様にみえる。すでにベテランの貫禄で集団に混じっている恵美子と違って、どこか馴染めていない雰囲気だ。

 集団の中で唯一竹刀袋を持っているのも、家に持ち帰って素振りなり、自主練をするためなのかもしれない。

「二人はバスだっけ?」

 恵美子が、ちょうどいいとばかりに質問してきた。

「え? ま、まあな」

 二人でいる時は、だいたいヒカルが会話担当になる。これはアキラがついうっかり元男子というような発言をしてしまうことがあるからだ。

「じゃあ、一緒に帰れるね」

「しかし、ササキは学園前のバス停だろ? あたしらは坂上がって、こくて…、JRの方だぞ?」

 アキラは、ヒカルに言いなおしを聞いて、ちょっと吹き出してしまった。

「るせーな」とアキラに肘鉄を食らわせ、恵美子に向き直る。

「そこのバス停までになるけど、いいか?」

 清隆学園に一番近いバス停は、学園の大通りから出てすぐのところにあるが、生憎とそこから海城家の方面に向かうバスは出ていない。

「うん」

 にこやかに恵美子は言った。

「帰りは、駅まで王子と一緒だもん。バス停まででも一緒しよ」

「おうじ? ああ、フジワラか」

 C棟の非常口に来たところで、他の部員たちに手を振る。

「じゃあ、私寄るところがあるから」

 他の部員たちがそのままC棟一階を抜けて昇降口があるA棟に向かうのと別れ、一人二階への階段を上っていく。手すりから首を出すと、アキラとヒカルに向けて念を押すように言って来た。

「私、図書室に寄って来るから、校門のところで会いましょ」

「お、おう」

「じゃ、オレも図書室に荷物置いてあるから」と、圭太郎が恵美子に大分遅れて階段を上り始めた。科学部の三人は、非常口の横にある科学部事務局に、荷物を置きっぱなしだ。

 明実がまた白衣から鍵を取り出すと、分厚い扉を開いた。

 室内は当然の事だが、三人が男子寮へ向かった時のままになっていた。自分たちが置いておいた荷物を回収すると、明実は施錠を確認した。

 先に歩いて行った剣道部の集団を追うように、暗いC棟の廊下を歩き始める。

「国鉄ってなんだよ」

 他に会話を聞かれる恐れが無いことを確認し、アキラが面白がって訊いた。もちろんかつてJRが国有鉄道だったことは、知識としては知っていた。

「うるせーな」

 ヒカルが眉を顰めた声を上げる。

「つい今でも出ちまうんだよ」

「ヒカルが国鉄に乗っていた頃は、SLがまだ現役だったのではないか?」

 明実の質問に、とても怖い視線が返された。

「汽車は嫌いだ」

「おや、なんで?」

 明実の当然の質問に、しばし返答が遅れた。

「むかし、酷い目に遭ったから」

「酷い目?」

 その、いつもとは違う沈んだ声に、アキラと明実は顔を見合わせた。

 C棟を東に抜けると、今度はA棟と呼ばれる建物と繋がっている。そこには職員室をはじめとした大人たちが使用する部屋が並んでいる。唯一生徒たちが使用するのは、校門側と校庭側と通り抜けることができるようになっている、生徒昇降口である。

 それはA棟の真ん中にあるために、廊下を半分だけ南下しなければならない。

 職員昇降口から事務所前を通り、校長室、職員室と通過し、やっと昇降口に至る。そこには剣道部以外の生徒もまだたくさんいた。他の部活も横並びで終わったようだ。

 靴を履き替えて校門までの前庭に出る。すると、校門からバス停のある広い国道までを結ぶ並木道に、人だかりができているのが見えた。

「?」

 男女の割合で言うと、ほとんどが女子生徒で、混じっている男子は付き合いでその場にとどまっているような雰囲気であった。

「なんだありゃ?」

 つい声が出たアキラに、明実が反応した。

「誰かいるようだぞ」

 彼は背が高いから、人込みを見透かすなんて言う時に役に立つ。いまもわざとらしく目の上に手を当てて遠くを見る仕草をしていた。

「ちょいと覗いてみるか?」

 どうやらヒカルも好奇心が刺激されたようだ。反対意見が出なかったので、三人はその人込みに混ざることにした。

 春には見事な花吹雪を見せてくれる桜の木の下に、一人の少女が座っていた。

 年齢はアキラたちとそう変わらないように見える。

 まるで染めたような薄い色の長い髪をポニーテールにまとめ、健康的な艶を持った肌は、傾いて赤くなった陽の光でもまだ透き通るような色であった。

 意志の強そうな茶色い眼差しに、起伏の少々足りないライン。その割に長い手足など見るからに、何かのスポーツをやっていることは間違いないだろう。

 着ている物だって動きやすそうなジーンズにロゴTシャツ、黒いスウェットパーカーを着ている。足元はハイカットのスニーカーだ。

 その右脚のスニーカーの紐に、一匹の子犬がじゃれついていた。

「マメシバ?」

「いや、雑種ではないか?」

 アキラが意識せずに呟いた言葉に明実が即答する。

 まるで真綿を固めたような印象の子犬は、小さい口を開いては、スニーカーをオモチャに甘噛みを繰り返している。少女の方も遊んでやっている気があるのだろう、穏やかな微笑みを浮かべながら、時に足を動かしたりしてやっている。

 子犬の胴に巻かれた赤いハーネスが、同じ色のリードに繋がり、その先は少女の右手に握られていた。

 どうやら散歩の途中で休憩しているようだ。

「かわいい~」

「もふもふ~」

 取り囲んだ女の子たちが悲鳴のような黄色い声を上げている。が、誰かが触ろうと手を伸ばすと、それを察知した子犬は、嫌がるように身を捩じるので、すぐに引っ込めてしまう。

「ねえ、さわっていい?」

 その中の一人が、勇気を持って飼い主であるだろう少女に話しかけた。

「だめだ」

 自分の飼い犬を自慢するように、こんなところで休憩しているくせに、にべもない断り方だった。

 声にも張りがあって、やはり体を動かすことを趣味にしている事を連想させた。

「そろそろいいか…」

 声をかけられたことが切っ掛けになったのだろうか、少女は立ち上がると軽く埃を払って、集まった一同を見回した。

 身長はそう高くない。いまのアキラとどっこいだ。

(あれ?)

 アキラは、ふいに不安に襲われた。

 この子犬を連れた少女に、なにか違和感を覚えたからだ。だからと言ってコレと指摘は出来そうにない。歯の間に物が挟まったような感じで、もう少しで何かに気が付きそうだ。

「この学校で、一番強い奴に会いに来た」

 リードごと腕を組んだ少女が、厳しい表情で宣言した。それは燃えるような眼差しだった。

「強い奴?」

 彼女を取り囲んでいた人込みが顔を見合わせる。それを焦るでなしに見まわしている少女を見て、唐突にアキラはあることに気が付いた。

(目の中に、青い炎が!)

 はっと気が付いたアキラが脇のヒカルを見ると、すでにヒカルの右手は、太腿のホルスターあたりをさ迷っていた。真剣な顔で子犬を連れた少女を見ており、振り返ったアキラにチラリとだけ視線を寄越した。

「強い奴、いるだろ?」

 もう一度の問いに、人込みの視線が校門の方へと集まっていく。

「え? あたし?」

 そこには、いつの間にかにこの集団に首を突っ込んでいた恵美子が立っていた。

 たしかに、この四月に入学と同時に入部し、並み居る先輩方を飛び越えて、いまでは部活のエースとして看板を背負っている実力者。しかも清隆学園高等部の剣道部は、日本拳法部など他の格闘技系の部活と比べても、歴代最強のタイトルホルダーであった。

 キッと睨みつける少女と、ポカンとしている恵美子とを結ぶ直線上から、さぁっと人込みが無くなっていく。荒事になって巻き込まれるのは嫌だからだ。その様子は、まるで旧約聖書で神が海を割った奇跡のようであった。

「ふーん」

 相手を値踏みするような表情を見せた少女は、リードを離し、代わりに足元に落ちていた木の枝を手に取った。

「じゃあ、あたしと勝負してもらおうか」

 アキラは、ふいに気温が下がったように感じた。しかし実際はそうなっていない。アキラが感じたのは、少女の殺気というやつである。

 少女は、木の枝を左小脇に抱え、右手をそれに添えるという、見慣れない構えを取った。

 ポニーテールにしている恵美子と、これまたポニーテールにしている謎の少女。二人が対峙する。

「?」

 アキラが訝しむ暇もなく、少女は長い髪をなびかせて大きく踏み込むと、枝を右手一本で振り抜いた。

 あまりの速さに、周囲の人間は反応できていない。アキラが目に留めることができたのは、ひとえに『再構築』で「女の子のようなもの」になっていたからにすぎない。

 その空気すら質量を感じるような刹那の時間に、枝でうちかかった少女と、アキラ、そして何かしらアクションを起こそうとしたヒカルの他に、動ける者は…、いた。

 その鋭い横薙ぎの攻撃を、恵美子は体を屈めて回避する事に成功した。枝が起こした強風に、彼女もポニーテールにしている後ろ髪が引っ張られる。

 一歩だけ下がった恵美子は、目線を少女に固定したまま、右手を野次馬と化した人込みの中にのばした。

「タエちゃん借りるわ」

「え」

 有無を言わせず、そこでボーッと立っていた女子剣道部員が手にしていた竹刀袋を奪った。

「ほう」

 相手が武器を取ったことが面白かったのか、うちかかった少女は、構えを戻して間合いを取り直し、片方の頬でニヤリと笑った。

「そんなお行儀のいいスポーツで、あたしの相手が務まるの?」

「さあ、やってみないと」

 恵美子が、教室では見せた事のない厳しい表情を相手に向けた。どうやら恵美子が竹刀を構えるまで待っていてくれているらしい。竹刀袋を下に落とし、まだ新品の竹刀が恵美子の細い指に握られた。剣道で基本的な正眼の構えをとる。

「あなたは、あたしに叩きのめされるのよ!」

 威勢のいい事を言って、再び少女は枝を振るいざまに踏み込んだ。

 それに対して恵美子は、ほとんど棒立ちである。

 再び横から襲って来た枝に対し、竹刀で応じ、それを弾いた。

 竹刀と枝がぶつかった瞬間、まるで車のタイヤがバーストしたかのような破裂音がした。両者の間に挟まれた空気がそれだけ圧縮されて、勢いよく周囲へ放出されたのだろう。

 攻撃を弾くことに成功した恵美子は、相手の頭頂へ竹刀を落とそうと、竹刀の動きを横から縦へ変化させた。しかし少女の超人的な反射神経がそれを許さずに、足元から土煙が上がる程の摺り足で、恵美子の攻撃を回避してみせた。

「ふっ」

 再び左小脇に枝を構えた少女は、そのまま間合いを取り直す。それに対して恵美子は、また棒立ちのままだ。

 そこでアキラは不思議に思った。あれだけの攻防ができる恵美子ならば、もっと自由に動いて、自分に有利な場所や間合いを取ればいいだろうに、それが全くない。

 その答えはすぐに分かった。彼女の後ろに、見知った顔が強張って並んでいたのだ。

 ひとりはクラスメイトの由美子である。もう一人は、まるで日本人形のような美人であった。たしか彼女は、由美子と一緒に図書委員会で副委員長をやっている同級生のはずだ。

 友人二人が後方に立っていて、避けるに避けられなかったということが分かった瞬間に、コンという軽い音がした。

 なんと恵美子が構えている竹刀の先が、地面に落ちた音だった。

「ほほう」

 脇で感心したような声を明実が漏らした。

「あんな、ただの棒で『切った』のか。凄いな」

「切る? 棒でか?」

 アキラの質問に、ウムとうなずいて明実。

「充分な速ささえあれば、なんだって刃物になるぞ。液体の水だって鋼鉄を切断することができる。ウォーターカッターってモノを知らぬか?」

「あの、超高圧で何でも切っちゃうってヤツか」

 そうだとうなずいた明実は、少女の持つ枝を指差した。

「ウォーターカッターは音速の何倍ものスピードで、あの切れ味を出す。液体よりは固体の方が速度は遅くても良いかもしれんが、まさに神速だな」

 少女の顔に余裕が生まれた。明実が解説してくれて、満更でもなかったのであろう。

「コジロー! やり返してやれ!」

 アキラが応援するために声を上げると、横から明実がいらん説明を挟んだ。

「おそらく彼女が使っているのは、居合道の一種であろう。居合道は、対象を切ることに特化した剣術だ。対してササキが習っているのは、竹刀稽古や形稽古を主とした普通の剣道だ。相手の特定部位を叩くことには長けているが、切るという動作は習っておらん」

 退くこともできず、また剣術でも不利と言われて、恵美子の引き締まった頬に一筋の汗が流れた。

 瞳の中の青い炎といい、人の身に出来ぬような枝による斬撃といい、やはりこの少女は人間ではないようだ。

「まさか…」

 アキラが呟いた言葉を、ヒカルが引き取った。

「クロガラスの新しいクリーチャーかもな」

 クロガラスというのは、四月に襲撃者を寄越した張本人である。明実と同じように『施術』が使え、この技術を独占するために、他のマスターたちを殺害しているという。ヒカルのマスターも、クロガラスが差し向けたクリーチャーに殺害された。

 いわばヒカルの仇である。

 四月に、かろうじて最初の刺客であるクリーチャーを倒すことに成功していた。しかし大本のマスターたるクロガラスを倒さぬ限りは、第二、第三の刺客が送り込まれてくることが考えられた。

「アキラ」

 ヒカルに呼ばれて目をやると、その右手がもうスカートの下に手が入っていた。こんな衆人環視の中で使いたくはない。しかし相手がクリーチャーでは、クラスメイトがいくら剣道部のエースだとはいえ、危険だ。助けるためには発砲もやむなしと考えていることがわかる。

「おまえよ…」

 さすがに、それはまずいことがアキラにも分かる。かといって、アキラの必殺技は、もっとまずい。

 少女の靴が砂を噛むジリッという音がした。

(やばい!)

 ヒカルに発砲させるぐらいならと、アキラは握った拳を少女に向けた瞬間だった。

 シュルシュルと風を切る音をさせて、恵美子と少女の中間に、何かが投げ入れられた。

 ドスッという重い音を立てて、それがそこに突き立つ。

 飛んできたのは、一本の赤樫でつくられた木刀であった。

「!?」

 気勢が削がれた二人が息を呑む。

「まてぇい!」

 対峙する二人に、どこからか声がかけられた。

「せっかくの勝負を邪魔するなんて、ダレ? どこにいるの? 姿を現しなさい!」

 少女が構えを解いて、周囲の人込みへ視線を走らせた。

「あ、あれは…」

 一人、木刀を飛んできた方向を把握していたらしい恵美子が、後ろ斜め上空を振り仰いだ。

 そこに流れてくる、ギターとトランペットのBGM。

 生徒からの悪評高い高等部を囲う高い塀。それが切れてレンガで化粧されている校門の上で、遠く夕陽からの光を背に受けて、腕組みをしてすっくと立つ一人の影がある。

 逆光ながら、高等部の男子用制服を身に着けているのがわかった。

 対峙していた二人だけでなく野次馬たちの視線まで集めて、校門の上に立つ少年は、つとつとと語り出した。

「理不尽な暴力に屈せず、友人を守ろうと戦うその姿…。人、それを『勇気』と言う」

「なんですって?」

 顔を歪める少女を、上から少年は指差した。

「貴様の悪事を見過ごすわけにはいかん! 天に代わって裁きを下す!」

「あなた、何者よ!」

 待ってましたとばかりに少年は叫んだ。

「貴様に名乗る名などない!」

 言い切った少年は、その三メートルはあろうか場所から、思いっきり飛び上がった。正確に木刀の前に着地すると、それを地面から引き抜いて切っ先を少女へ向けた。

「返り討ちにするわ」

 再び少女は枝を小脇に構えた。

「で?」

 ヒカルがアキラを振り返った。

「誰だよ、ありゃあ」

「オレが知るわけないだろ」

 アキラからは呆れたような声が出た。まるでヒーローショーのような登場を見て、本当に呆れていたのかもしれない。ちなみに似たような反応をしている者が、もう一人いた。頭を痛そうに抱えた由美子だ。

「彼はね…」

 自信たっぷりの声が後ろからかけられた。

「一年三組の不破(ふわ)空楽(うつら)くんよ」

「!?」

 慌てて振り返ると、そこにスマートフォンを手にした女子生徒が立っていた。しかし、その相手が只者では無いのを、アキラもヒカルも身に染みて知っていた。

「なんだサトミか」

 少しも動揺をみせずに明実が相手の名を呼んだ。それに対して呼ばれた本人は、にっこりとした微笑みを返す。誰もが愛せる、そんな笑顔であった。

 身長は、欧州の血が入っている明実ほどでは無かったが、日本人男性の平均よりも高く、体は折れそうなほど細かった。茶色っぽい髪は、シャギーのように流しており、微笑みが浮かんだ顔は、クラスの中でファンクラブができそうなぐらいは整っていた。

 総じて美人ではある。しかし、アキラにとってあまり関わりたくない人物であった。

 微笑みの中で、アーモンド形の目が悪戯気に輝いていた。

 この清隆学園高等部の女子用夏季制服を身に着けた一見したところの美少女が、じつはアキラと違ってついているモノがついている正真正銘の男であるとは、お天道さまにも見破れない程だ。

 しかも色々と得体のしれない人物であることをアキラは知っていた。

「なんでサトミ、おまえがいるんだよ」

 とヒカルも銃から手を離して訊いたが、それは酷という物であろう。だいたい清隆学園高等部で騒動が起きれば、そこに彼の姿を見かけることができる。まれにサトミ自身が騒動の中心に居たりもする。根っからの騒動屋なのだ。

 ヒカルも、銃から手を離していたが、それでも警戒を解いていないのは丸わかりであった。

 平然といつもの通りにしているのは、明実ぐらいなものである。彼はサトミとは切磋琢磨するライバル同士なのだ。明実が爆縮機関を発明すれば、向こうは量子コンピューターの基礎理論を完成させるという、超高校生級の天才同士であった。それで、なにかと通じ合うものがあるのか、事あるごとにつるんでいる様子であった。

 まあ口の悪いヒカルに言わせると、超高校生級の変態同士ということになるのだが。

 それでも実力は確かなので、ヒカルは一目置いているようなところがある。アキラは、先月に関わった事件で、一時的にでも敵対したので、あまり好きにはなれなかった。

「あの娘、あなたたちの関係者なんでしょ?」

 悪戯気な目線だけで、枝を構えている少女を差した。とても透明な声なので、見かけもあって女の子にしか見えない。

「どうだろうかねえ」

 ヒカルが思わせぶりな態度を取る。ちなみに二人がクリーチャーであることをサトミは知らないはずだが、薄々と勘づいている節がある。

「敵? 味方?」

「味方が切りかかって来るのかのぅ」

 のんびりと明実が聞き返す。それに対しサトミが面白そうに人差し指を立てた。

「あなたの実力は試させてもらうわ、という少年ジャン▽的な展開かと」

「自分でも信じていない事を口にするって、無理がないか?」

 横からヒカルが不満げな声を出す。

「そうでもないけど」と、あっさり流すと、明実に向き直り微笑みを強くした。

「空楽が相手をしている内に、この場を離れた方が得だと思うけど?」

「そうもいかんじゃろ」

 怪しい日本語で明実がこたえる。

「こっちの敵にしろ、味方にしろ。あの斬撃を普通の人間は止められんだろ」

「そうかしら」

 サトミが微笑みを作り直した瞬間、バチンという破裂音がした。

 見れば木刀と枝で二人が切り結んだところだ。

「彼だって、石見氏直系第二〇代を名乗っているんですもの、それなりなのよ」

 木刀と、あの竹刀を切断した木の枝がぶつかった。しかし、特に木刀の方に異常は見られない。

 それどころか激突した箇所にあたる枝の皮が、衝撃で宙に舞ったほどだ。

「へえ」

 アキラの口から感心の溜息が漏れた。

 自分と互角の剣撃を見せられても、少女はまったく焦ったようには見えなかった。逆に、自分と対等に戦える相手に出会えたことを喜んでいるような、迫力のある微笑みを浮かべる。

 限られた人物しか見て取ることはできなかったが、空楽が追撃しようと木刀の軌道を変化させると、少女は大きく後ろに飛び退って、間合いを開け直そうとした。後ろを確認していなかったのか、それとも故意なのか、周りで見ていた野次馬の輪へ飛び込む形となった。

 野次馬たちが悲鳴や怒号を上げながら、飛び込んできた彼女と距離を取ろうと逃げ惑う。

 それが落ち着いてから、今度は空楽の方から切り込んだ。

 そのまま空楽と少女は、二合三合と切り結ぶ。まったくの互角である。

 また飛び込んでこられたら災いとばかりに、野次馬の大半が大きく退がって距離を取った。

「彼は、なにか強化しているのか?」

 明実が科学的好奇心で訊ねた。

「きょうか?」

 キョトンと一回だけ大きく瞬きをするサトミ。

「薬物や機械的処理、それから未知の技術など、色々あるじゃろ。とうてい人の技とは思えんのだが?」

「あら、失礼ね」

 微笑みながら目を丸くするという芸当を見せながら、サトミがこたえた。

「純粋に鍛錬の結果よ。まあ、それと少しの適性もあったかもしれないけど」

 見る間に少女が手にした木の枝が見すぼらしくなっていく。

 ついに木の枝は中ほどよりポッキリと折れてしまった。

「おとなしく謝れば許してやろう。俺も鬼ではない」

 相手の武器を折ったことに油断などせずに、空楽は構えを解かなかった。

「もう勝ったつもり? まだ早いんじゃない?」

 嘲るような口元で少女は言うと、未練もなく手の中に残った木の枝を下へ落す。

「?」

 訝しむ間もなく、少女の右手が桜の木の下へ向けられた。

「コクリ丸!」

「ひゃん!」

 呼ばれて子犬が一声こたえた。それまで主人に忘れられたようになっていたが、ちゃんとお座りをして待っていたのは、頭のいい証拠だろうか。

 コクリ丸と呼ばれた子犬は、牙を剥き出しにして空楽へ襲い掛かった。だが、マメシバと間違える程の小型犬である。そのまま木刀で撃つのが躊躇われる絵面だ。

 空楽は瞬間だけ後方を確認し、校門の方へと下がった。戦闘意欲だけはあるコクリ丸は、牙をその体へ食い込ませようと、追撃を止めない。

 その後を追って、主人である少女も校門へ駈け込んできた。

「追うぞ」

 ヒカルの一言に、アキラは無言で返事をした。ダッと駆け出すと、普通の人間である明実はついて来ることはできなかった。

 後に残されたのは、切断された竹刀を構える恵美子と、野次馬たちであった。

 後ろ向きに走る空楽は、そのまま開けっ放しの昇降口からA棟を抜け、校舎に囲まれた校庭のド真ん中で停止した。追いかけてきたコクリ丸と少女が、一定の距離を持って停止する。

 それからワンテンポ遅れて、アキラとヒカルの二人が追いついた。

「まだ戦うというのか?」

 空楽の確認に、少女は首を縦に振った。

「あなたを倒せば、この学校の隅々まで、あたしが来たことが分かるでしょ?」

「さあ、どうかな」

「そうすれば、あたしが探している人が見つけやすくなるのよ」

「余程の実力者なんだな。だが、飼い犬に攻撃させるなんていう卑怯者と、その人物が会いたいと思うか?」

「じゃあ、あたしが手を下せばいいのね」

「?」

 再びニヤリと嗤う少女に、空楽は眉を顰めた。

「コクリ丸!」

 また少女が子犬の名を呼んだ。牙を剥いて唸り声を上げていたコクリ丸は、振り返って主人を見た。

「来なさい、コクリ丸!」

 少女が左手を差し出すと、まるで抱擁を求める幼子の勢いで、主人へ向かってジャンプした。

「なにっ?!」

 空楽は呻き声のような物で驚きを表現した。それも仕方がない、少女へ至るまで行った短い飛行の間に、コクリ丸の姿は大きく変わったのだ。

 手足が折りたたまれ、胴へと収まり足金物に変化した。その胴はぐぐっと伸びて一本の棒のようになる。

 盛んに振っていた尻尾は固まって、長く黒い棒状へ変化、ついには柄巻きが巻かれた二尺ほどもある長い柄となった。

 犬特有の鼻面はさらに伸び、湿った鼻鏡は、まるでなめし革で作られた石突きになり、体毛はすべて一方向へと梳かされ、細く伸びた胴を保護する目的をさらに強めていた。

 全体は背骨側に反り、そして最終的には鞘に納められた刀身五尺ほどの大太刀へとなり果てて、少女の左手に受け止められた。

「ちょぉっとまてぇい!」

 空楽が悲鳴のような声を上げる。

「なんだ、そのフレンダーみたいな変形は! もう一度やってみせろ」

「は?」

 一瞬だけ戸惑うような顔を見せた少女であるが、二本の帯取をジーンズのベルト通しへ絡めると、木の枝で見せた時と同じ構えを取った。

「このコの名前は、心霊兵器『狐狗狸(コクリ)丸』。かの一刀石を二つに切ったという伝説の太刀。その木刀で受けきれるかしら?」

「一刀石? 新陰流か」

 一刀石とは、奈良に残る真っ二つになった大きな石の名である。柳生新陰流の始祖である柳生石舟斎が切ったという伝説があった。

 空楽が正眼の構えから八双の構えに持ち変える。しかし、ただの桜の枝で竹刀を切断するという相手が、今度は真剣を手にしたのである、しょせん木製の得物では防ぎきることは難しいであろう。

「ちっ」

 いまや残された見物人は二人、アキラとヒカルだけである。しかし校庭のド真ん中では、まだ誰が見ているか分からない。ヒカルは四方の窓へ視線をやったが、誰が見ているとも見ていないとも断言できない状況であった。

 さらに野次馬たちがワイワイと騒ぎながら、校門から戻って来る気配すらあった。

「おい」

 ヒカルが横のアキラを睨みつけるように振り返った。

「二人同時に、左右からかかって捻じ伏せるぞ」

「えー」

 アキラは素直に眉を顰めた声を出した。

「大事になってからじゃ、遅いだろうが」

「もう充分に大事だろ」

 機嫌の悪そうな声に、達観した声で返す。

「!」

 ヒカルがなにか喚こうとしたその瞬間に、少女が空楽へ斬りかかった。

 犬の毛皮を巻いたように見える鞘から、裂ぱくの一撃が繰り出される。その刀身も、普通の日本刀とは比べ物にならないほどの大太刀で、アキラみたいな少々小柄な体格だと、一発で背開きにされそうなほどだ。

 空楽は、真剣と木刀で真面目に斬り結ぼうなんていう愚かな選択はせず、素直に自分の体を地面へ投げ出した。

 四方を囲む校舎の窓ガラスがビリビリと震える。抜き打ちの衝撃波が、校庭に小さな竜巻が生まれた程の空気の流れを生んでいた。

 その何物でも両断する一撃を、下にくぐって交わした空楽は、少女の左脇を転がって間合いを詰めた。

大振りで空いた脇を狙って、木刀を振るう。

 固い音があたりに響いた。

 その渾身の一撃は、左手によって操られた鞘によって受け止められてしまっていた。

 先に少女の首だけが左を向き、その後に巨大な刀身がついてきた。

 空楽は大きくトンボを切っ(バックフリップをし)て、少女と再び距離を取った。

 まるで巨人が吹きかけた息のような向かい風を、交差させた腕で顔面を庇うだけで耐えた二人がそこに立っていた。

「助太刀はいるかい?」

 昇降口を抜けて行った強風に、校門のところにいる野次馬たちが悲鳴を上げるのを聞きながら、ヒカルは空楽に訊いた。

 彼は身長差から二人を見おろすと、フッと余裕のある微笑みを見せた。

「もう少し苦戦したらお願いしよう」

 普通の女の子なら惚れてしまうかもしれない爽やかさだった。生憎と見ていたのは「女の子のようなもの」である二人であったが。

「そろそろ、か」

 なにかを待っていたような口調で、空楽は右斜め向こうにあるC棟の非常口を見た。そこにスカート姿の誰かが立っているように見えた。

 空楽は、再び鞘へ刀身を収めた少女に向き直ると、今度は別の構えを取った。言うならば左片手脇構えといったところ。自身の体を使って木刀の刀身を、相手から隠すような構えであった。

「今度は、こちらからだ!」

 空楽は少女に向かって駈け込んだ。それを迎え撃つ彼女は、先程よりワンテンポだけ抜き打ちを遅らせた。確実に間合いに入ったところで仕留めようという戦術だ。

 刀身を疾らせる右手、空楽の狙いはその開いた右脇だ。

 今度こそ相手にダメージを与えたことは確実、と見物人の二人が確信した瞬間に、再び固い音が校庭に響いた。

 がら空きの右脇へ打ち込まれた木刀の先端を、長い柄の先端を覆う柄頭の金具が迎撃していた。大太刀の抜く軌道を変えて、刺突武器として柄を繰り出したのだ。

 逆転を狙った一撃を受け止められてしまった空楽を、その体勢から抜き打った巨大な刀身が襲った。

 今度は転がって逃げられないように、刃先が校庭の土を擦りながら回転させてきた。

 しかし、その攻撃を読んでいた空楽は、その巨大な刀身を操る少女の右肩を踏み台にして、上空へと逃れた。

 地面に描かれた半円の模様。そして少女の肩に残された一つの足跡。

 上空で膝を抱えるようにして体を回転させた空楽は、アキラたちから見て向こう側へと着地した。

「くっ」

 少女が、自分につけられた足跡を見て、唇を噛んだ。どうやらそれを屈辱として受け取ったようだ。

 それに対する空楽は、全ての構えを解いた。

「?」

 どうしたのだろうと見ると、彼の視線はアキラたちよりも後ろへ向いていた。

「ほ、ほんものだあ」

「ま、マジ?」

「ここに来て、いまさらブ〇―チ?」

「いやいや、あれは喧嘩屋の斬馬刀」

「やばいんじゃない?」

「ロンダルギアの洞窟を抜けた先のホコラに…」

「うわーい、ざんパクとうだああ」

「だれか、先生を呼んで来て」

「いや警察よ」

「じえーたいじゃないのか」

 やっと野次馬どもが追いついてきた。校庭の中央で大太刀を握る少女を見て、新たに騒ぎ始める。

「オレ、空楽に一○○○」

「じゃあ女の子に二○○○」

 こんな時まで賭博屋(ブックメーカー)が現れるのは、もう校風としか言いようが無かったが。

(警察はまずいんじゃあ…)

 まわりで騒ぎ始めた生徒たちを見て、アキラが不安を感じてヒカルを見た。ヒカルはヒカルで、いちいち顔色を窺うなという表情をしていた。

「邪魔が入りそうだな」

 空楽が少女に語り掛ける。

「ええ」

 大太刀を納刀しながら少女がこたえる。

「まだ続けるつもりならば、ついてこい」

 相手の意思を確認した空楽は、再び後ろ向きで走り出した。迷わず少女が追いかけ、それに引きずられるように野次馬の集団も走り出す。

 集団の先頭にいるのは陸上部の面々…、と思いきやアキラとヒカルだったりする。二人は「女の子のようなもの」であるから、普通の人間と体力や凌力がケタ違いに違うのだ。

 戦場はC棟を抜け、体育館と格技棟に挟まれた水場に移っていた。

 非常口を駆け抜けたヒカルはそこで急停止した。滅多に閉じられることのない、そこの鉄製の扉へ手をかける。

「おい、アキラ」

「?」

「押さえるのを手伝え」

 閉められた扉にドーンと、まるで冬の日本海で見られる荒波のごとく、野次馬たちがぶつかってきた。

「おい! あけろ!」

「うをー」

「おさないで」

「ほうわー」

「商人を連れて行かなくちゃいけないのよ」

「きゃ、どこ触ってんのよ」

「俺の二〇〇〇!」

「あけてくれええ」

「まさかサブローの中にイチローが入っているなんて」

「ぎゅう」

 バンバンと野次馬たちが強化ガラスを叩く様子は、まるで安物のハリウッド映画によくある、ゾンビの群れだ。

 慌ててアキラも扉に背中をついた。足を突っ張って支える手伝いをする。

 C棟から出たそこは、屋根付きの渡り廊下となっているため、何本も支柱が立っている。トタン屋根を支える支柱は、細いなりも鉄製だから、持っている武器が大きければ大きいほど、それが邪魔をして戦いに不利になる。

 そこまで空楽が考えて戦場を移動させたのなら、一流の戦術家ということになる。

 しかし少女は、攻撃の方法を横なぎの大振りから、直線的な突きに変えることで、戦場に対応していた。

 水場を利用してかわす空楽へ、右片手平突きが襲う。その突きをかわして、空いた右脇を狙っても、今度は左手で操る鞘を突き出して少女が迎撃するという形だ。

「やはり木刀と真剣じゃ、ジリ貧だな」

 アキラとヒカルが扉を鎮めたあたりで、そこにある非常階段を一人分の影が降りてきた。誰かと思ったら、校門前で姿を消していたサトミである。

「むう」

 周囲に立つ支柱に、自分が引っかからないように注意しつつ、豪風と共に突き出される刀身を避けながら、空楽はサトミを確認した。

「武器でこんなに不利になるとはね。やはりライトサーベルでも作って、用意しておく必要があるわね」

 空楽がサトミを見る目は、分かっているなら何とかしろと言っているようであった。それに対し、サトミは自信たっぷりに頷いてみせた。

 花崗岩で化粧した、蛇口が並ぶ長い水場の上へ飛び上がった空楽は、そんなサトミに向かって手を差し出した。

「闇あるところに光あり。悪あるところに正義あり…」

 下からの突き上げを再びのジャンプで避ける。

「剣狼よ!」

「なにが『剣狼よ』よ!」

 文句を言いながらも、サトミは後ろ手に持っていた棒状の物を、空楽へ向かって投げた。空楽はそれを難なく空中でキャッチする。

「あれは…」

 アキラは唖然として、空楽が手にした物を見た。それは緋色の鞘に納められた一振りの小太刀であった。

それをアキラは別の場所で見た事があった。

 嫌な予感がして、サトミを振り返る。

「無断で借りて来ちゃった、てへ」と形の良い唇の端から舌先を出す。

「あれって、刀剣研究会が博物館から借りた…」

「そう『白露』よ」

 あっさりとサトミが認めた。今週、改修工事が始まった博物館から、高等部の刀剣研究会が借りだした一振りで、A棟の展示スペースで公開されていた品だ。

 長く清隆学園が存在する土地に伝わって来た小太刀であるが、縁あって大学付属の博物館に所蔵されていた一振りだ。

 その特徴は、なにより日本刀と思えない程の「白い」刀身である。何かしらの白い塗料で塗装されているのではない。この世に二つとない物を生み出そうと、打たれた時に行われた焼き入れの段階で、何か特殊な処理をして、刀身の表面に顕微鏡で見なければ分からないような細かい凹凸を生じさせているのだ。

 その方法は、現代には伝わってはいない。一説によると、まだ熱せられて赤くなっている刀身を、罪人の腹へ突き入れたのではないかという。もちろん、そんなことを実際にされたら、やられた方はただでは済まないだろう。

 それ故か「切刃造波紋蛙子小太刀(きりはつくりはもんかわずごのこだち)」という正式名称ではなく、「妖刀『白露』」としての名の方が一般的であった。

 空楽が、背の方は黒く、刃の方へ移るに従って血のような緋色にグラデーションしている鮫鞘の鯉口を切った。

 まるで塩を固めて作ったような白い刀身と、存在自体が冗談みたいな巨大な刀身が、水場の上空でぶつかり合った。

「ぎゃん!」

 その瞬間、子犬が悲鳴を上げたような金属音が鳴り響き、夕陽がつくる体育館の影に入って暗い周囲を、鉄工所で見られるような赤い光が一瞬だけ照らし出した。

 技も武器もまったく対等であった。いや、少女の方はアキラの体に使われている『施術』という超科学的な技術で強化されているとしたら、軍配は空楽に上がったと言って過言ではないだろう。

 抜き身の妖刀『白露』を提げ、自然体で立つ空楽。

 再び大太刀を納刀し、右手を添える特徴的な構えを取る少女。

 見慣れた体育館裏が修羅場と化していた。

 交差する視線。

 と、ふいに少女は構えを解いた。

「また機会があったら、この続きをしましょう」

「次があったらな」

 そのまま大太刀を肩に背負うように持ち変えると、悠然と歩き始める。その背中を空楽は追わなかった。

 少女の姿が校舎の角で見えなくなった。

「どうした」

 戦いが終わったと見るや、サトミが空楽の横へ駆け寄った。

「恐ろしい相手だった」

 空楽は『白露』の刀身を確認しながら、呟くように語った。

「だが、さすが『白露』。一片の刃こぼれも無い」

 しかし『白露』を納刀することは叶わなかった。たった一合したきりなのに、鞘と反りが合わなくなってしまったのだ。

「やべ」

 さすがに無断拝借の日本刀を棄損したとなれば、大問題となる。サトミが笑顔のままで不味そうな顔を作る。それを見て、片方の眉を額の方へ寄せた空楽は、何でもないような事のように言った。

「大丈夫だ。このまま置いておけば、一晩で自然と元の形に戻る。刀とはそういう物だ」

 抜き身の『白露』と、緋色の鞘を別々にサトミへと返す。

「戻しておいてくれ」

「了解。って、どうした?」

 空楽の顔が初めて歪み、左手で右肩の辺りをほぐし始めた。

「筋の一本も覚悟していたつもりだが、相当だった」

 どうやらノーダメージというわけでは無かったらしい。追撃を行わなかったのも、そこら辺に理由があるようだ。

「まあ、その位で済んでよかったわ」とサトミがニッコリ。「あのまま戦っていたら、どちらか死ぬまで続けていたでしょ?」

「さあてな」

 惚けるためにそっぽを向いた空楽の視界に、非常口の鉄扉に張りつく二人が目に入った。

「なにをしている? 二人とも?」

「も、もう限界ぃ」

 アキラが音を上げた瞬間に、野次馬どもが扉を突破して雪崩れ込んできた。

「どうなったの?」

「だいじょうぶ?」

「わたしメリーさん」

「あ、終わってる」

「あの娘はホタルでね」

「アカヒトさんって知ってる?」

「変化の杖をグリンランドのジジイに…」

「ああ、もう」

「見逃した」

 二人を飲み込んだ野次馬どもが、好き勝手なことを言いだした。

「結局、どっちが勝ったんだよ!」

 さきほど賭けていた男子生徒が叫び声を上げた。

 それに背を向けるサトミと空楽。

「おい」とサトミ。

「うむ」と空楽。

 あっという間に二人は、渡り廊下へ走り去っていってしまった。



「あ痛てて」

「まあ、どうしたの?」

 アキラが家に着くなり、ダイニングから出てきた家族が、目を丸くした。

 背は、いまのアキラよりちょっとだけ高く、体のラインはほとんど変わらない。極端な事を言えば、そこに鏡が立ててあるんじゃないかぐらいにお互いが似ていた。

 着ている物は白いサマーセーターにデニム地のロングソフトパンツ。そして家事をしていたのか、エプロンをしていた。

 似ているのも当たり前だ。彼女が、アキラの母親である海城香苗である。もちろん高校生の子供がいるから、それなりの年齢のはずが、まったくそうは見えなかった。最近のアンチエイジングの技術が凄いのか、彼女自身の努力が凄いのか。こうして向かい合っていると、仲の良い姉妹にしか見えない。

「転んだところを、みんなに踏まれてさあ」

「まあまあ」

 肩のあたりをはたいてくれるが、すっかり砂ぼこりまみれになった制服は、それぐらいでは綺麗にならない。

「ヒカルちゃんも」

 後から入って来たヒカルも同じ状態な事を見て取った香苗は、ヒカルの行く先を遮るように前に回り込んだ。

「た、ただいま」

 居候を始めて三か月目。まだ照れのある挨拶をして、立ちはだかった香苗をかわして二階へ行こうとする。

「待ちなさい」

 迫力のある笑顔がそれを止める。

「そんな汚い格好で家の中をうろつかないで頂戴」

「いや、そんなこと言ったって…」

 いつまでも玄関に立っていろと言われた気がして、アキラが情けない顔になった。

「家の中が汚れるでしょ」

 キッと睨まれて、二人仲良く首を竦めると、フワッとしたいつもの笑顔に戻してくれた。

「ほら、これ」

 玄関に常備してあるレインコート用のハンガーを二人に押し付ける。

「そこで制服脱いで、ブラシかけてあげるから。それまで上がっちゃダメよ」

 母親の威厳で厳命し、自分はタンスへ洋服ブラシを取りに行こうとする。

「ま、まってよ」

 アキラが悲鳴のような声をあげた。

「こんなトコで脱ぐの?」

「汚れて帰ってくる、あなたたちがいけないんでしょ」

 バッサリと断言されて、アキラとヒカルは顔を見合わせた。

 扉が閉まっているとはいえ玄関先で制服を脱ぐのには抵抗がある。しかも二人一緒というのはもっと抵抗があった。

 外見は「女の子のようなもの」であるが、アキラの中身は間違いなく思春期の男の子なのである。ちなみにヒカルの方は、同じ「女の子のようなもの」であるが、中身はれっきとした女である。

 遠慮がちにヒカルを見ると、トンと肩を押された。

「こっち見んな」

「あ、すまん」

 背中合わせになって、制服を脱ぎ始める。

 ベストとスカートをハンガーにかけたところで、香苗がブラシを持って戻って来た。

「ブラウスは洗っちゃった方が早いか。そのままシャワーにしちゃいなさい」

「ちょ、ちょっと待ってよ」

 慌ててアキラが悲鳴のような声を上げる。

「それだと…」遠慮気味に隣へ視線を走らせる。

「オレがここで待ち続けるわけ?」

「あら、嫌?」

 香苗はキョトンとしてみせて、それからちょっとイタズラ気に微笑んだ。

「じゃあ女の子同士なんだから、一緒に入っちゃいなさいよ」

「ええ~」

「なんだ? あたしとだと不満か?」

 つい声が出たアキラを軽く小突くヒカル。

「だって絶対『あたしが終わるまで、外で待ってろ』って言うだろ」

 ヒカルの声真似なんか挟んでアキラは文句を言った。

「わかってんじゃねえか」

 ニヤリと嗤うヒカルに、香苗が眉を顰めた声を出した。

「アキラちゃんと一緒が嫌なら、かあさんと入る?」

「はぁっ?」

 こんな素っ頓狂な声がヒカルから出るなんて、初めて知った。

「あら?」

 ずいっと一歩前に出て、ヒカルに顔を近づける。

「かあさんとじゃ、いや?」

「なんでカナエまでシャワー浴びる話しになってんだよ!」

 両手で軽く香苗の肩を押すと、先に入った者勝ちとばかりに、靴を脱ぐ。

「あら、ざんねん」

 全然残念そうに聞こえない声でそれを見送った香苗は、アキラに振り返った。

「ほら、シャワー」

「ええー、マジかよ」

 香苗に促されてヒカルの背中に続く。前を歩くのが下着にブラウス、それを締め付けている三つのホルスターという倒錯的な姿だ。もちろんアキラも似たような格好なのだが。

 狭い脱衣場に入り、踏まれてすっかり埃だらけになったブラウスを洗濯籠へ脱ぎ捨てる。見たくなくても、視界に下着を脱ぎ始めるヒカルの背中が、目に入る。

(うわあ)

 ヒカルの肩に残った下着の跡に、女体特有の艶っぽさを感じたアキラは、慌てて背中を向け直した。

 その背中だけでなく、たくさんのアザができていた。多数の人間に踏まれたことによりできた物だ。アキラが人間のままだったら、下手すれば死んでいたかもしれない。それほどの数、くまなく踏まれたのだ。

「なにジロジロ見てんだよ」

 ヒカルが非難する声を向けてきた。と言われても、アキラはほとんど背中を向けていたし、声が聞こえた瞬間に目を閉じていたのだが。

「見てねえよ」

 洗濯機に向けって声を荒げる。

「ホントか?」

「目ェ、閉じてるから」

「ホントかなあ」

 段々とヒカルの気配が近づいてきたような気がする。なにか頬をかすめた気配がした後に、ヒカルまで悪戯気な声になって訊いてきた。

「これ何本だ?」

「三本」

 問答無用に蹴られた。

「いてえ」

「見えてんじゃねえか」

 のけぞって痛みに耐えるアキラに、ヒカルが軽蔑するような声をかける。

「あたしが上がるまで、そこで苦しんでろ」

「まってくれ」

 目を開かないように顔をしかめながら自分の無実を訴える。

「ここで待ってるのはいいが、ホントに目を閉じてたんだって。信じてくれよ」

「…」

 それに対する無言。まだ三か月ちょいの付き合いしかないが、アキラにはヒカルが腕組みをして自分を睨みつけている様子が見て取れる気がした。

「じゃあ…」

 突然顔面に違和感があった。なにかの布を目に巻きつけられたのだ。驚いて触ってみれば、おそらく制服で締めることになっているネクタイじゃないかと想像がついた。

「これで覗くことはできねえな」

「覗きもしねえよ。そんな恐ろしいこと」

「外したら、イノセンスの的だからな」

 ビシリと言って、浴室の扉を開く音がする。

(こんな格好、他の人に見られたくないなあ)

 なにせ全裸に目隠しである。だが家に居るのは香苗だけである。さすがに彼女も、可憐な乙女のように見える二人が入浴中に、いくら幼馴染だからといって、男の子である明実を家に上げることはすまい。まあ彼は、今ごろ研究所にいるはずだが。後は父親の剛だが、彼は出張中のはずである。

 と、その手を引かれた。

「え?」

「二人で入っちまうぞ」

「ちょ、ちょっと」

「その方が効率的だからな」

 急に引っ張られて、浴室との段差で躓きそうになる。それをヒカルは受け止めてくれた。

(うわ、柔らかい。肩のあたりかな?)

「ほら、しっかり立てよ」

 見えないから余計にヒカルの肌の柔らかさが感じられて、アキラは体を強張らせた。

「いいよ、外で待ってるよ」

「いいから。風邪ひいちまうぜ」

「おまえさあ」アキラから呆れた声が出た。「遊んでるだろ」

「まあな」

 苦笑しているようなそんな声。

「三月の時はあんなに怒ったくせに」

 まだ出会って間もない頃、アキラが姿形は「女の子のようなもの」だが、実は『施術』でこんな姿にされた男だという事を知らなかったヒカルと、一緒に入浴したことがあった。その後に、ヒカルが銃を振り回して怒りまくったのは、懐かしい思い出とするには、まだ早い気がする。

「もちろん見たら今でも殺す」

 言っていることは過激だが、やはり声に、このシチュエーションを楽しんでいる響きが混じっていた。

「見えなきゃ体洗えないだろ」

「んなもん、あたしが洗ってやるよ」

「ええっ」

 驚いている内に扉が閉められる気配がし、肩を掴まれて座らされる。頭の中で大体いつも体を洗う位置だと想像できた。

 シャワーの湯が体にかけられていく。ちょっとアザに染みた。

 しゃこしゃこと泡立てている音がした後に、暖かい手が背中に押し付けられた。どうやら本当に洗ってくれているらしい。

「み、見えなくても自分でできるから」

 背中を流してくれているという事は、ヒカルは後ろにいるはずだ。前を手探りしても大丈夫だろうと、手を伸ばしてボディソープのポンプを見つける。

 自分の手に出したボディソープを、そのまま首元に塗り付け、前の方へ塗り広げていく。

「また、そんな横着な洗い方して」

 まるでお姉さんが叱るような口調でヒカルが言ってくる。とは言っても目を塞がれた状態じゃ、これ以上のうまい方法が思いつかない。

 大勢に踏まれたとはいっても、体がそんなに汚くなったわけでもない。髪と、あと首元ぐらいに砂を感じるぐらいだ。

 背中を洗ってくれたヒカルも分かっているのか、大雑把に上から下までひと撫でして、シャワーをかけてくれた。

「つぎは頭だな」

 そういうとアキラの目を塞いでいる布に手をかけた。後頭部で結んであるので、頭を洗うとしたら邪魔になる。

「これ外したからって、目ぇ開けるんじゃねえぞ」

「わかってるよ」

 アキラが返した当然の言葉を聞いてから、ヒカルは目隠しを解きにかかった。グイグイと後ろに引っ張られて眼球が痛い。

「あ、あれ?」

 普通に縛ってあるだけなのだが、濡れた事により結び目が締まったようで、なかなか解けない。

「いてーよ」

 文句ぐらいは言ってもいいだろうとアキラが口を開いた瞬間に、それは襲って来た。

 ポヨンポヨンと背中に当たる感触。

(こ、これは…)

 ちなみにヒカルは着やせするタイプだ。

 風邪で熱を出した時に使う氷袋、その中身を熱湯にかえたような感じの物が二つ、背中に当たって…、その中に尖っている部分があるのまで知覚してしまった。

「おかしいな。こんなに固くは…」

 結び目に夢中になっている本人は気が付いていないらしい。アキラは全身の血液が顔に集まって来るんじゃないかと思った。

 何度も当たるので、とうとう我慢の限界がきた。

「こんなの、上にずらしちゃえばいいだろ」

「わ、ばか」

 グイッと目隠しを顔からどかすと、両手で結び目に力を入れていたヒカルの体が倒れてきた。ある意味、そこが支えになっていたのだろう。

 ガラガッシャン。

「どうしたの? 凄い音」

 風呂場から聞こえてきた破壊的な音に、慌てて香苗が飛んできた。風呂場の扉を開けて中を確認する。

「いつつ」

 海城家の風呂場の床で、全裸の「女の子のようなもの」が二人、シャンプーなどのボトルを蹴飛ばして、絡み合っていた。

「まあ」

 現状を確認した香苗は、目を丸くした。それから扉を閉めにかかる。

「ごゆっくり」

「『ごゆっくり』じゃねえぇ!」

 向こう三軒両隣に聞こえるようなヒカルの怒号が響いた。



「なによ、その大荷物」

 翌日の土曜日。まだ講習会が始まる前の時間に昇降口に現れたアキラとヒカルの姿を見て、ちょうど登校してきていた由美子が目を丸くした。

 いつも使っているバッグに加え、まるでバスケットボールが三個入るボールケースのような円筒形のバッグを、それぞれの肩にかけてきたからだ。

「これは…」

 アキラが何か言う前に、後ろからやってきた明実が口を挟んだ。もちろん今日もトレードマークの白衣を制服の上から着ている。

「女は荷物が多いと聞くが、たった一泊ていどの遊びに、こんな大荷物が必要なんてな」

「あら」

 視線を大分上にやって由美子。彼女は女子の平均的な身長しかないのだ。

「キャンプ?」

「まあ、そんなもんかねえ」

 つまらなそうにヒカルが後ろ頭を掻いた。

「そんな大荷物、ロッカーに入るの?」

 当然の疑問が出た。

「いや、入らねーだろ」

 ヒカルが下駄箱に、自分が肩にかけている分の荷物を押し当てて見せた。だいたい目検討だが、クラスの廊下に置いてある個人用のロッカーと同じ大きさのはずだ。

 円筒形の太さはロッカーの一つ分よりは小さいが、奥行きが全然足りない。

「こっちは事務局にでも置いておくつもり」

「事務局?」

 アキラの言葉にキョトンとする由美子。しかしすぐに言葉の意味を思いついたのか、その表情を消した。

「ああ、あんたらの秘密基地ね」

「秘密基地って…」

 目を点にする二人の後ろで、明実が生えていない顎髭を撫でながら感心した声を漏らす。

「言い得て妙だな」

「褒められてねえよ」

 半分だけ明実を振り返って睨むアキラ。そんなアキラに、由美子が訊ねた。

「今日はどの講習会を受けるのよ」

「ええーと」

 金曜日の終活に渡されたプリントを思い出しながらアキラは口を開いた。

「英単語と、地学。それと古文かな」

「文法の方はいいの?」

 由美子が眉を顰めて訊いた。

「そっちは…」親指で後ろのノッポを指差す。「実践で、だいぶ鍛えられてるし」

「へえー」

 由美子が今更ながらと明実を見て目を丸くする。

「あんた、英語喋れるの」

「失礼な」無駄に胸を張る明実。外見が欧州寄りの彼にそんな事を訊く由美子も相当だが、それにも増して明実の方も相当であった。

「五か国語はいけるぞ」

「五か国…」

 いつもはバカなことしか言っていないクラスメイトである。こうして実力を見せつけられると、ショックのような物があるのだろう。

「ちなみに、その五か国って、ドコとドコだよ」

 ジト目になったヒカルが訊くと、彼は指折り数え始めた。

「まず、いま喋っている日本標準語だな…」

「日本標準語って…」と由美子がだいぶ怪しい明実の日本語を指摘しようとした。

「…それから母親(マー)の母国語であるスロバキア語。そしてもちろん英語と…」

「スロバキア人って英語が不得意って、ホントか?」

 差し込まれたヒカルの質問に、折っていた指から目を上げて明実はこたえてくれた。

「不得意というわけではないが、喋ることができない割合は、日本人並みだな。ヒカルは行ったことは無いのか?」

「鉄のカーテンがあったからな」と、うっかり滑らせた口元を押さえる。

「三つじゃない」

 由美子が指を三本立てて言った。

「日本語と英語、それとスロバキア語なんでしょ?」

「あとは北海道弁と栃木弁」

「はい?」

 目が点になった由美子を置き去りにして、二人を促す。

「さ、急がないと間に合わないぞ」

「ちょっと待ちなさいよ」

 さっさと行こうとした明実の前に由美子は立ち塞がった。

「北海道弁と栃木弁って…」

「ああ、ほらオイラの父親は道産子だから、それで北海道弁。栃木弁の方は、近所に強い訛りの人がいてな。そうだな、その人の仮名は、池田和美とでもしておこうか。いつも幼稚園の帰りに、アキラと一緒に世話になってな。自然と身について…」

 饒舌に語り出したその足へ、由美子の踵が落とされた。

「OUCH!!」

 こんな時だけ流暢な英語だったりする。

「ホントは日本語しか喋れないんじゃないの?」

 疑いの目を向ける由美子に、明実はとても心外だという顔をする。

「なにを言う。父の兄であるところの伯父はエドモンドだし、祖父はエドワードだ。さらに再従兄弟にはエドガーがいるぞ。たしか先祖にはエドウィンまでいたな。なにせオイラは『スロバキアと道産子の混血でチャキチャキのエドっ子』だからな」

「それエドの意味違う…」

 アキラが頭を抱えた瞬間に、明実の足に再び由美子の踵が落とされた。ちなみに明実の父親は北海道出身には間違いないが、どこを切っても日本人である。祖父がどうとかは、まったくのデタラメだ。

「ホント、不真面目が服を着て歩いているようなヤツラばっかし」

 そのままプリプリと怒って行ってしまった。

「さて…」

 人体の急所であるはずの足の甲を攻撃された割に、平然と白衣を翻して、大半の生徒がB棟の階段室へ向かうのに逆らって、A棟へ足を向ける。

「はやく荷物を置いて、講習とやらへ行こうではないか」

 先ほど訊かれたとおり、アキラの予定としては、朝一は英単語の講習会へ向かうつもりだった。そして、じつは残りの二人は、講習を受ける必要がなかった。

 大人たちから「明日のノーベル賞受賞者のその候補」と目されている明実は、一年生のこの段階で、留年さえしなければ清隆大学に迎え入れられることが内定している。本当は飛び級をして一刻も早く大学の研究室に入ってもらいたいと要望があった程なのだ。しかしアキラには理解できないのだが「普通の高校生生活を送りたい」という理由で辞退している。

 ヒカルはヒカルで、すでに大学を卒業したレベルの頭を持っている。これはヒカルを『構築』する五人の中に、大学を卒業した者が含まれているからのようだ。ヒカルにとって清隆学園高等部に在籍する理由はただ一つ、アキラと明実の護衛のためなのだ。

 そういうことで、今日の二人は、アキラの講習会につきあうことになっていた。先週までだったら、科学部事務局へ直行して悪だくみを始める明実と、それの護衛兼秘書としてヒカルが張り付いて、その間にアキラが講習会を受けてくるというのが、いつものスタイルであった。

 だが、昨日のあの事件である。また、あの少女が襲ってくるかもしれないと考えると、なるべく三人が一緒に行動した方が良いだろうという常識的な判断がなされ、二人がアキラに付き合う形となった。昨夕に明実が清隆大学の研究所に一人で残ったのは例外だ。あそこは国の関係する研究も扱っているので、セキュリティが段違いに厳しいのだ。

 明実が鍵を開けた科学部事務局へ大荷物を置いて、通学バッグだけを肩にかける。もちろん教科書に参考書、筆記用具が必須だからだ。

 講習会自体は、一部を除いて、いつも授業を受けているB棟の教室で行われる。D棟経由でB棟に戻り、一年生の教室が並んでいる三階へ上がる。

 と、階段室でさらに上へ行こうとする人影を見つけた。

「?」

「おや、マカゴでないかい?」

 明実が怪しい日本語で声をかけると、大きな三脚を肩に背負っていた孝之が、階段の途中で振り返った。

「おや、お三方お揃いで」

「どこに行くんだ? もう講習会始まるぞ?」

 アキラの質問に、照れたような顔を向ける。

「ほら、今日はめずらしく快晴だから、星を見に」

 ここまで天文に熱心だと、口を開けて顔を見合わせることぐらいしかできない。

「昼でも見える一等星だっけ?」

 ヒカルがかろうじて言葉を発した。

「そう」照れたように笑って、まるでイタズラ小僧のように鼻の下を擦った。

「ほどほどにしろよー」

「ありがとう」

 心配してくれたクラスメイトに微笑み返して、孝之は高等部で一番高いB棟の屋上へと上って行った。

「さてと」

 バッグから昨日配られたプリントを出して、目当ての講習会が行われる教室をチェックする。各教室の黒板側にあたる扉には、小さなフックが取り付けられており、そこにその教室で行われる講習内容を示したプレートが下げられていた。それとプリントを見比べて廊下をさ迷う。

 プレート自体は、アクセサリーチェーンを介していたり、直接穴を開けたファイルに印字した紙を挟んだ物だったり、各教室で統一性がない。それというのもこれらは各教師が手作りした物だからだ。

 ちなみに教師たちにとって講習会は休日出勤扱いとなる。それを支えているのは、生徒たちを導きたいという教育者としての使命感と、それに見合う特別給(ボーナス)だ。

 学園側としても生徒たちの学力が向上する事は嬉しいが、休日出勤ともなれば給料にそれなりの色をつけなければならない。そこを補填しているのが、生徒会が善意で集めている(ということになっている)学園への寄付金だ。もちろん実際は非公然活動たる(裏)投票などで集めた金の一部である。

 こういうように善い事にも使っているので、建前上は裏で行っている事になっている、こういった生徒会の非公然活動を、教師たちは大っぴらに取り締まらないでいた。

 目当ての教室を見つけて、開けっ放しだった扉から入室する。

 まずするのが教卓に置きっぱなしになっている名簿にクラスと氏名を記入することだ。出席が義務ではないので出欠の確認ではない。後々に学習成果の研究などに参加者を把握していないと無駄になるからだ。

 それから後ろの方に席を取る。普段は教室が前の方から埋まっていくが、今日のアキラたちは特別だ。

 アキラが学習用具を机に並べているのを、珍しそうに見てから、他の二人も同じようにする。

 教室の入りは八割と言ったところであった。



「くわあああ」

 まるで怪鳥の雄叫びのような変な声を上げて、ヒカルが体をのばした。

 ヒカルにとって学ぶ必要が無い講習である。しかし、建前は学習意欲がある生徒が集まっている場である。居眠りなどできるはずもない。

「ん? 終了か?」

 腕組みをしたまま硬直していた明実が、ヒカルの声で瞬きをさかんに始めた。

「なんだ? おまえ寝てたのかよ」

 アキラは呆れた声を出した。

 最初の英単語は、まだ集中力が続いたのだろう、真面目にノートを取っていたりした。それが終わり教室を移動して次の地学は興味が出たのか、若干喰い気味に乗り出して聞いていた。

 しかし今まで受けていた講習は、古文である。明実のもっとも苦手とする分野であり、また興味が一番ない教科であった。

 それでも学習意欲がある生徒を演じるという事は忘れていなかったらしく、目を開けたまま寝ていたようだ。

「次はなんだ?」

 眼球が渇いてしまったのだろう、目頭を押さえながら明実が訊いた。それにアキラが机の上を片付けながらこたえる。

「おしまい」

「おわり?」

 信じられない物を見るような目つきで、席を立ったアキラを見る。

「うん。今週の受けたい講習会は、ここまで。なんだったら四時間目も、ドレか受けるか?」

「いやいやいやいや」

 全力で明実が否定に入る。もう苦行はこりごりなのだろう。

「じゃあ、後は科学部か?」

「そういうことになるな」

 アキラがちょっと納得いかなさそうな顔を見せていると、水を得た魚のように明実が生き生きとし始めた。

「昨日の内に、ユキちゃんから連絡があったのだ。二人が着れそうな服を選んでおいたとな」

「服ねえ」

 ヒカルが疑いの眼差しを向ける。

「なんかイヤらしいのを用意してそうで、今一どころか二も三も不安なんだが」

「たしかに」

「あ、オイラが信じられないのか?」

「そういうことは、オレを元に戻してから言え」

 ビシッと指を、ついでに言葉で釘を、差しておいて、アキラは肩にバッグをかけた。

「また男子寮か? 遠いんだよなあ」

 ぼやくように言うと、安心させるように明実が言う。

「見繕った服は、司書室に持って来てあるらしいぞ」

「司書室?」

 あまり馴染みのない部屋名に、小首を傾げる。

「閉架に併設されている、図書委員会の根城だ」

「へいか?」

 これまた、馴染みのない単語だ。

「図書室の隣だ」

「じゃあ、最初からそう言えよ」

 B棟の西階段を一つ下り、D棟の屋上へ出る。C棟の二階にある図書室に行くならば、このルートの方が、余分な上り下りがない。

 D棟の屋上を縦断し、C棟との境目にあるペントハウスから二階へ下りる。下りてC棟に入れば、そこが図書室前だ。

 廊下に置かれたガラスケースの中に、図書委員会が推薦する本の表紙がコピーされて並んでいる。

 図書室の入り口自体はその横になるのだが、明実はそれよりも手前にある扉を遠慮なく開いた。

「おーう」

 室内をろくに確かめもせずに声をかけて入って行く。アキラとヒカルは入り口のところで顔を見合わせるばかりだ。

「あら」

 そんな二人に室内から声がかけられた。

「海城さん、久しぶり」

 見ると、なぜかジョウロを持った女子生徒が、アキラに向けて親し気な笑顔を向けて立っていた。

「ええと」

 その日本人形のような雰囲気の女子生徒には見覚えがあった。昨日の事件の時に、恵美子に庇われていた女子生徒である。だが、アキラはもっと前から知り合いであった。

「岡さん…、だっけ?」

「うん」

 入学前のオリエンテーションで知り合った(おか)花子(はなこ)である。同じクラスではないが、廊下などですれ違ったりすると、挨拶ぐらいは交わす仲であった。

 曖昧な返事だったのにも関わらず、微笑みを崩さずに二人を招き入れてくれる、ジョウロを持ったままだったが。

「ダレだよ」

 後ろから押し殺した声が囁かれた。

「図書委員会で王子と一緒に副委員長やってる、岡さんだよ」

「ふ~ん」

 なんだか納得いっていない声のヒカル。

「お茶、淹れましょうか?」

 ジョウロを適当なところに置きながら花子が訊いてきた。

「いや、長居はするつもりは無いんだけど」

 遠慮しつつ二人は司書室に入室した。まず目につくのは窓際に置かれた巨大なテーブルである。その周囲にてんでバラバラに椅子が置かれていた。テーブルの下には複数の通学用バッグが放置されている。

 手前には応接セット。右手は鉄製の本棚が並ぶ閉架書庫で、左手には事務机が並べられているエリアがある。その事務机の向こうには、図書室内が見渡せる大きなガラスを嵌め殺した壁と、図書室のカウンターと行き来できるように扉が一つ。

 あとはブックカード用の棚や、資料用や地図用の収納棚が壁際に配置されていた。

 明実が当たり前のように大テーブルに置かれた椅子に座る。そこには先客がいた。

 昨日のチャンバラで活躍した空楽が窓際の席で文庫本を開き、閉架側の椅子には寮生でもある有紀がテーブルに置いたノートに何か書いている。反対側には球形という表現がピッタリな圭太郎だ。彼は新書版の本を読んでいたようだ。

 多少腰が引けながら、二人はその四人が着く大テーブルに近づく。数点の文房具を差したペン入れ以外は、キングサイズのベッドよりも広い空間がそこに広がっていた。

「あ、用意して来たで」

 すでに明実の声で気が付いていただろうが、有紀が向かっていた紙から顔を上げて笑顔を見せてくれた。紙に何を書いていたのだろうと覗くと、グリプス戦役で活躍した臙脂色が特徴の量産型ロボットであった。

「なぜ、いまさら?」

 つい呟いたアキラの声が耳に入ったのか、曖昧な微笑みに表情を変化させると、有紀が断言した。

「いまさらやさかい」

 その時、図書室との境目にある扉が開いて、誰かがノッシノッシという表現が似合う歩き方で入って来た。

「あれ? 二人まで来たの?」

 振り返れば由美子である。

「これ以上、居候は要らないんだけど」

 とジト目を大テーブル付近に座る四人へ向ける。

「いそうろう?」

「こいつら図書委員でもないのに、ここに入りびたりでさあ。まったく邪魔ったらありゃしない」

「そんなこと言わないでさ。広い心を持ちましょうよ」

 圭太郎が笑顔を向ける。その座っている彼に、容赦なくボディブローを叩きこみながら、由美子は首だけを二人に向けた。

「で? なんか用?」

「用って、こっちが呼ばれたようなもんなんだが」

 ヒカルがつまらなそうにこたえた。

「また何か、悪い事考えてンな?」

 ギロリと睥睨するが、四人ともどこ吹く風といった風情である。

「そんな、悪い事なんて。これっぽっちも考えてませんって」

 その巨体故にダメージがあまり無いのか、圭太郎の笑顔は少しも崩れていなかった。

「ちなみに訊くけどさ」と前置きをして、由美子は話題を変えてくれた。

「真鹿児が、どこに行ったか知らない?」

「たぶん、あれ」

 由美子に問われて閃くものがあったアキラは、窓の外を指差した。

「?」

 由美子はアキラの横まで来て、その指差す方向に視線を沿わせた。校庭で野球部が打撃練習している遥か向こう側、B棟の屋上に立てた三脚に屈折式望遠鏡を乗せて覗き込んでいる人影がある。

「あ~!!」

 仇敵を見つけたとばかりに声を上げた由美子は、廊下への扉に向かいながら、給湯器のところにいた花子へ声をかけた。

「ハナちゃん、あたしちょっと出てくるね」

「? はーい」

 返事と一緒に、お盆を持って花子がパーテーションの向こうから出てきた。

「はい、お茶」

 大テーブルに六人分の茶器が並ぶ。アキラとヒカルの二人には備え付けの物らしい小さな湯飲みが、他の四人には個性豊かな器が並んだ。どうやらそれぞれがコップや湯飲みを持ち込んでいるらしい。

「あ、すまんね」

 明実がさっそく口をつけた。

「よいしょっと」

 有紀が、大テーブルの下から黒い大きなバッグを持ち上げた。そのまま広いテーブルに、お茶を避けながら中身を並べていく。

 広い天板に並べられたのは各種の戦闘服だった。軍隊で使うような物から、警察組織が使っていそうな物などデザインだけでも様々だ。さらに言うならベトナム迷彩ありデジタル迷彩あり、珍しいところではロシア海軍歩兵のデジタルフローラ迷彩さえある。パターンだけでなく色も普通の三色迷彩から始まって、白黒灰の都市迷彩。紺水白の海軍迷彩など、それこそ色々ある。そしてもちろん単色でパターンが全くない物も出てきた。

「なになに? ファッションショー?」

 花子が女の子らしく、並べられた服に目を輝かせる。

「ん、まあ、そうであるな」

 曖昧にこたえる明実。

「へえ、色んな服があるね」

 花子がアキラに微笑みかけ、そして不思議そうに言った。

「でも、どれも地味な色ばっかり」

「そりゃそうだろ」

 ピンク色の入った都市迷彩や、鮮やかな青色の海軍迷彩も混じっているが、総じて戦闘服なのである。戦場で目立ってしまったら、ただの的だ。

「お、これなんかいいじゃん」

 ヒカルがベトナム迷彩の戦闘服を取り上げた。

「?」

 他の物と違いが分からないアキラと花子が不思議そうな顔をする。すると、いつもの調子でアキラに噛みついた。

「わかんねえのかよ、このマヌケ」

「マヌケって…」

 目を点にしていると、ヒカルはその迷彩服の肩の所を指差した。黒一色で羽を広げた鷲が描かれている。

「大佐だぜ、大佐。女がそうそうなれる階級じゃねえ」

「んなの、わかんねえよ」

「じゃあ、こっちは?」

 同じような戦闘服を花子が指差した。そこには逆さの扇形と、それに沿わせた線が三本描いてある。

「曹長だな。いや、星があるから上級曹長か」

「よく知ってはる」

 有紀が感心した声を漏らした。

「ま、まあ。常識の範囲だろ、こんなの」

 ヒカルがそう口にした瞬間に、花子が耐えきれないとばかりに噴き出した。

「あ?」

 まるで濁点がついているようなヒカルの声に、慌てて真面目な顔を取り繕う。

「ご、ごめんなさい。同じことを言っていた人がいたから」

「当ててしんぜよう」

 明実が人差し指を立てた。

「サトミだな?」

「ええ」

 半歩だけ下がってうなずく花子。そこへズーッと音を立てて自分の湯飲みから茶を啜っていた空楽が声をかけた。

「ハナちゃんや。少々口が寂しいのう」

「お茶菓子?」

 キョトンとして小首を傾げる花子。

「たしか、この前のモナカで売り切れよ? 欲しかったら不破くんも買ってきてね」

「む」

 機嫌悪そうに眉を顰める空楽。湯飲みを置くと、ゴソゴソとサイフを尻ポケットから取り出した。開いて中を見て、盛大な溜息をつく。

「はいはい。次は何にします?」

 花子の声に励まされたかのように、彼の顔が明るくなった。

「やっぱり、お煎餅かな」

「はいはい。今度ね」

 ちなみに土曜日の今日は、購買部も学食もお休みである。利用できるのは自動販売機ぐらいなものだ。

「さあ」

 気を取り直したように、明実が立ち上がって、大テーブルに並べられた戦闘服を扇ぐように腕を開いた。

「どれでもいい、好きな物を選んでくれたまへ」

「くれたまえったってよ」

 一着を手に取ったヒカルが、自分の胸にそれを当てる。男子寮で貸し出し用になっているぐらいだから、サイズはだいぶ大きい。唯一の救いは、ちゃんと洗濯してあることぐらいか。

「こりゃあたぶん、ブカブカだぜ」

「そんなもん、着てみないと分からんだろう」

「着てみる?」

「さあ、遠慮せずに」

「ここで?」

「もちろん」

 うなずく明実へ、ヒカルの鉄拳が炸裂した。

「こんなところで、着替えられるかあ!」

「まあまあ」

 そのまま二発三発と殴ろうとするヒカルを、アキラと花子との二人がかりで、左右から押さえ込みに入る。

「痛いではないか」と、当たり前のようなことを言ってから、とても不思議そうに訊く。

「なにか、気に入らない点でも?」

「こんなトコで着替えたら、覗き放題だろうが」

 ヒカルが図書室との境にあるガラス窓を親指で指差した。確かにそうだろう。今だって、あまりのヒカルの剣幕に、利用者の一人が、何があったのだろうと不思議そうに、こちらを見て行ったぐらいだからだ。

「それが?」

 とても不思議そうに明実が部屋の中を見渡した。御門明実は良くも悪くも科学者であった。年頃の娘が半裸姿を見せたところで、彼の論理的思考は揺るぎもしないであろう。

 ただし同じ部屋にいる他の男子はそうもいかないし、隣の図書室を利用する不特定多数は、もっとそうではないだろう。

「ほな、他のトコで着替えていらっしゃい」

 有紀が大テーブルに散らかした戦闘服を、元のバッグへと押し込んだ。

 アキラとヒカルは顔を見合わせる。

 特に言葉を交わさなくても、お互いの意思がわかった。

(どこにする?)

(そんな事言ったって、あそこしか無いだろ?)

「じゃあ、着替えてくるから、ちょっと待ってろ。それとアキザネ」

 ヒカルが手を出す。それを不思議そうに見る彼に、アキラが横から言った。

「事務局の鍵を貸せ。そこで着替えてくるから」

「おーおー」

 納得いったとばかりに左手を振り、右手で鍵束を白衣のポケットから取り出す。

 いちおうC棟の非常口から校庭に出れば、体育の授業でよく使うD棟にある更衣室が近い。しかし、少しでも戦闘服でうろつく距離が短い方が良いだろう。事務局ならば階段を上ればすぐに図書室だ。制服以外でうろついていると、異装許可を取っていない場合は、基本的に風紀委員会の取り締まりの対象となる。

 二人で連れ立って階下の科学部事務局へ。ここも窓があるが、荷物が積み上げられているので外からの視界は通りにくい。いちおうカーテンを閉めておく。

 アキラはさっそく、町でもよく見る三色迷彩へ袖を通そうと、バッグから引きずり出してみた。すると、それに絡みついていたらしい、黒白灰の都市迷彩柄をした小さな布地が床へ落ちた。

「うわあ」

 拾い上げて見れば、なんと都市迷彩柄のビキニトップである。同じ迷彩柄とはいえ、なんという布地の少なさであろうか。

「なんだ? そんな物にするのか?」

 上着、ベストを脱ぎ、ホルスターを外しながらヒカルが訊いてきた。

「んなことあるか」

 アキラは慌てて摘まみ上げたソレを、バッグへ放り込み直した。

「いちおう後学のために言っておくが、長袖長ズボンが基本だぞ。地面で飛んだり跳ねたりするかもしれねえからな。怪我の予防だ」

 そう言ってヒカルは、ブラウスのボタンへ手をかけた。慌ててアキラは背中を向ける。

「わかったから、その不意打ちみたいな事はやめてくれよ」

「不意打ち…?」

 本当に不思議そうな声でこたえてから、改めて気が付いたように胸元を押さえたヒカルが、早口になった。

「ホント、おまえは迷惑なやつだ。なまじっか、家に帰るとカナエがいるから、余計にややこしい」

 それからゴソゴソとやっている音が続き、アキラも着替え終わった頃に声がかかった。

「もう大丈夫だぞ」

「そうか?」

 恐る恐る振り返ると、ヒカルはデジタル迷彩の戦闘服に、ボタンをまったく閉めないで袖を通しただけという姿だった。

 とはいっても、下にチェッカーフラッグのような柄をした白黒のTシャツを着ていたのだが。

 そのTシャツは、家で着ているのを見た事がある。おそらく今朝、ここに持ち込んだ荷物から出したのだろう。

 アキラもピンク色をしたホットパンツとTシャツを入れてきたことを思い出した。戦闘服の下にそれを重ね着すれば、どんなブカブカな服でも余計な視線はカットできるだろう。

「こいつはダメだな」

 ヒカルはその服の腿の辺りが気に入らないらしく、さかんに引っ張って様子を見ている。見るからに、そこの布地が余りすぎだ。

 そうやって試着を繰り返して、アキラはカーキ色単色の物を選び、ヒカルは黒色単色の物を選んだ。もちろん元からオーバーサイズなので、袖や裾は何回か捲り上げなければならなかったが。

「やっぱり、おまえは黒色が似合うな」

 アキラの素直な感想に、珍しくもヒカルは頬を赤く染めた。

「そ、そうか? じゃあ、コレを返しに行きながら、お披露目と行こうぜ」

 ヒカルは余分な戦闘服をまた仕舞ったバッグを持ち上げながら提案した。



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