六月の出来事B面・⑩
「なんだ、今日は二人も休みか」
アキラの頭の上で声がした。それで担任が教室に入って来たことに気が付いた。
のそのそと天板の上に伏せていた上体を起こす。
(二人?)
不思議に思って教室内を振り返る。窓際にある空席は明実の物だ。いまごろ研究所の中で大好きな実験を繰り返している事だろう。
日曜日の会見の後、明実は研究所へ直行した。
「この扉の向こうは見ないで下さい」などと、ツルの恩返しみたいな事を言い残して、実験室に閉じこもった。
それから二〇時間は経過しているはずだ。研究所から下所するときは、またヒカルと一緒に迎えに行く事になっているが、連絡は入っていない。
(もう一人は?)
と首を巡らせると、六列ある机の窓から数えて三列目。アキラの隣の列の一番後ろが空席になっていた。
(誰だっけ?)
すぐに思いつかなかったアキラは、教室内を見回して、いま確認できる顔から引き算で思い出そうとした。
腕を組んでつまらなそうにしているヒカル。目を引かれる恵美子。なぜかバツの悪そうな顔をしている由美子。こちらでは寮生の有紀が、机の上にノートを広げている。
(ああ、真鹿児がいないのか)
「そんなところが今日の話しだが、誰か質問はあるか?」
そんな欠席者の確認をしている内に、担任による連絡事項は終わったようだ。
教卓の前で最前列という授業中居眠りが一切できない立地の席である。アキラは少々見上げるような気分でないと、教師の顔を見ることはできない。
見上げると、目の周りにマンガのようなアザをこしらえた担任は、なにかイタズラ気な表情でアキラの顔を覗きこんできた。
あの冗談みたいなアザは、アキラが四月に関わった事件でできた物だったが、時間の経過を示すように、だいぶ目立たなくなっていた。
「ところで、耳の早い生徒は知っているかと思うが、このクラスに新しい仲間が増えます」
「ええ?」
「転校生?」
「うそお」
担任の発表に教室がざわめいた。
(まさか…)
昨日、南欧風の屋敷から帰る時に、車寄せで手を振ってくれていたギンガムチェックの姿を思い出す。
「と、言っても転校生ではありません」
もったいぶった言い方に、教室中がブーイングの嵐に変わった。
「今日から副担任になる先生を紹介します」
(そういえば真鹿児がそんなことを言ってたっけ。それともコジローだったか?)
芝居っけたっぷりに、担任の腕が入り口の方へ伸ばされた。
「マーガレット松山先生です」
担任の呼び込みで、その副担任とやらが教室に入って来た。
ガタッ。
後ろの方で椅子を蹴る音がした。しかしアキラはそんな事を気にしている余裕などなかった。
入って来たのは二十代後半と思われる程の、背の高い女性であった。特徴的なのは、先が床に届きそうな亜麻色の髪である。切れ長で宝石みたいな碧眼といい、よく通った鼻梁といい、純粋な日本人ではなく、かといって一〇〇パーセント欧州人というわけでもなさそうだ。
そして、その妖艶なという形容詞が似合う顔に、アキラは見覚えがあった。
「トレーネ…」
「どうした海城? あまりの美人さんに、顎が外れとるぞ」
担任が入れてくるちゃちゃも気にならなかった。彼が紹介した副担任とやらは、四月に死闘のすえ倒したクリーチャー、トレーネそっくりだったのである。
チラリと後ろを確認すると、ヒカルは右手でスカートの裾を押さえながら、半分席から立ち上がっていた。
副担任はピンク色のチョークで、黒板に自分の名前を大きく書いた。
「マーガレット松山です。よろしくお願いします」
その作られた笑顔に輝く碧眼の中央には、青い炎のような光が揺らめいていた。