忘却から愛と贖罪を込めて(Ⅴ)
生きたい、と強く願っていたのは本当のことだ。たかが病気でまだ死ぬわけにはいかないと本気でそう思っていた。
結婚する時、妻とは老後は一軒家に住んで犬を飼ってのんびり過ごそうと約束した。まだ二歳の子供もこれからどんどん成長する。その姿をこの目にしっかり焼き付けると誓った。
助かる確率は五十%。
医師から伝えられたその宣告に妻や自分の両親は呆然としていたが、あまり不安には感じなかった。それだけ助かる見込みがあるのだ。自分よりも低い生存率にも関わらず、病気を勝ち抜いた者たちもたくさんいる。
絶対に助かる。皆にそう宣言した。
……あの時の熱意が日に日に削り取られていく現実。病魔は勢いを止めることなく体を蝕み続け、投薬による副作用に苦しめられる。生き地獄だ。
この苦痛を味わっていないくせに病院の人間も家族も「頑張って生きろ」と言う。
生きる。生きたいと思っている。それでも生きることを強いられることは重荷に感じられた。彼らも「死んでもいい」とは言えないから、その反対の言葉を言い続けるしかないと分かっている。
頭では分かっていても不安と苛立ちは収まらなかった。
いつ治るのかと聞いても誰も明確な答えを出さない。それで「いつか治る」と繰り返す。そのことに無責任さを感じて周りに八つ当たりをし、あとから酷い自己嫌悪に襲われる。
『病気がよくなったら三人で動物園に行こうね』
妻がそう言って、子供が嬉しそうに頷く。以前までは幸せだと思っていたその光景をすでに忌々しいと思うようになっていた。
そして、子供と視線が合った時、つい口走ってしまった。
『お前が俺の代わりにこの病気にかかればよかったんだ』
その瞬間、妻は顔を怒りで歪ませて棚の上に置いていた時計を自分へと投げ付けた。祖父の形見で宝物であったそれが胸に当たり、思わず呻き声を上げた。
『あなた……何を言ってるか分かってる!? 私ならともかく、この子にそんなことを言うの!?』
言葉は理解していなくても、ひりつく空気を感じ取った子供が泣き出す。妻は子供を抱き上げると何も言わずに病室を出て行った。
醜い。自分はどんなに醜い人間なのだろう。
我が子が身代わりになればいいと本気で思ってしまった。楽になりたいがために子供を病魔に差し出そうとした。
『俺には助かる資格なんてない……』
そのあとのことはよく覚えていない。ただ、いつもは施錠されている屋上へのドアがこの日に限って開いていた。
それは幸運だったか、不運だったか今となってはどちらでもいい。
入院生活と病気で衰えた体力を振り絞り、フェンスをよじ登った。有刺鉄線で体が傷付こうが関係なかった。
夕焼けに染まる鮮やかな空を見上げたあと、本来ならば越えてはならない一線を踏み出した。宙に放り出した体が地上へと叩き付けられた時、すべてが消えた。楽に、なれた。
だが、その間際に子供の顔が脳裏をよぎった。自分は生きるべきではないと死を選んだ。子供に酷い言葉を告げたことを謝りもせず。
謝りたい。それが父親としてできる最後の行いだ。
……その思いが強すぎたのか、男は今も自分が落ちた場所に立ち続けていた。
肉体は朽ちて心は消え去り、自我のない魂だけが花壇の上で意味のない日々をすごしている。もう男は自分がどうしてここにいるのか、最期に残した未練すら覚えていない。
なのに、燃えるような赤い空を見上げると何かを感じた。何かをしなければならない。そんな漠然とした使命感がぼやけた思考に浮かんでは消える。
これからも男はそんな無駄な時間を永遠にも近い年月を繰り返す、はずだった。
「パパ」
夕暮れの空が薄暗くなっていく頃だった。
小さな声に反応し、男はゆっくりと振り向く。声の主が誰なのか認識していたわけではない。声に呼ばれた気がしたのだ。
そこには針の止まった置き時計を持った子供が立っていた。男をまっすぐ見据えていた。
「パパ」
ぼんやりとその姿を見ていた男に、子供が何かを促すようにもう一度呼ぶ。
「……………………」
自分を「パパ」と呼ぶ子供。見に覚えのある時計。
……カチ。
男の両目が見開かれると同時に時計の秒針が動き出した。止まっていた男の時間を再開させるように針は進み続け、消えたはずの記憶が蘇っていく。
あの置き時計は骨董品の収集が趣味だった祖父の大事な形見。
そして、あの子供はずっとその成長を見守り続けたいと願った大切な我が子だ。
「ひ……かる……」
「なぁに、パパ?」
男に名前を呼ばれた子供は優しく微笑んだ。
その笑顔に男は困ったように笑うと、目線を合わせるためにしゃがみ込んだ。
「あの時は……あの時は酷いことを言って悪かった。こんなことを言える立場じゃないのは分かってる。でも、言わせてくれ」
子供に触れようとした手は宙を掴むだけだった。
だから、せめて言葉だけでも。
「パパの分まで強く生きて欲しい……ママと一緒にずっと……」
「……うん」
静かに頷いてくれた子供に目の奥が熱くなる。目の前が滲んで見える。これで最後の望みは叶った。
男がそっと瞼を下ろすと、涙が流れ落ちる代わりに彼の体が風景に溶け込むように消えていった。
一人残された子供は風もないのに揺れたコスモスを眺め、大きく息を吐いた。
口から吐き出された黒い煙が子供に纏わり付き、幼い体から煙草を咥えた美しい青年の姿に変わっていく。
黒い男は懐から淡く発光している金のライターを取り出すと、ほんの少し強い力で握り締めた。すると、光は消えた。
ずっと車の陰に身を潜めていた彼の助手が姿を現す。
「夜鳥さん、あの人は」
「成仏したよ。子供に言いたいことを言って満足したんだろうね」
「子供……ということはやっぱり……」
「そう。私が彼に見せていたのは、彼の子供さ」
「……相変わらず、すごいですね。他人に化けられるっていうのは……」
「君は勘違いしているよ。私は変身できる魔法を持っているんじゃなくて、『これ』のおかげだ」
そう言いながら夜鳥は懐から出したライターを頼政に見せ付けた。
細かな装飾が施されたそのライターが生み出す『現象』は俄には信じがたいが、確かに存在する。
このライターの火で点いた煙草の煙を纏うと、夜鳥は他人の姿を借りることができるのだ。
どういう原理かは分からない。ただ、条件が通れば誰にでもなれるようで、夜鳥はライターを使用している。今のように有事の際に用いることもあれば、「今日は違う誰かになりたい」という気ままな理由の時もある。
いずれにせよ、サイコメトリーよりある意味非科学的なことだと頼政は思う。
現にこうして幼い子供が煙を纏いながら青年に変わるところを見ているのだから。
そして、こういった道具をこの男はいくつも持っている。
ライターをぼんやり見詰めていると、夜鳥が小さく笑った。
「貸さないよ? これは私にしか使いこなせないからね」
「いいですよ。誰かに化けたいとかって欲求もないですから」
「うん。それがいい。私は君の姿をした君が一番大好きだから」
そう言われると、何かくすぐったさを感じる。頼政はそれを紛らわすように話題を変えた。
「……何か無理言っちゃってすいません、ほんとに」
「ん?」
「いや、あの人の子供のこと……」
子供に暴言を吐いてしまったことを謝りたいのなら、子供をここに連れてきて謝らせてあげたい。それが頼政がした『相談』だったのだが、夜鳥は自分が子供に化けることで実現させた。
香菜に真実を話したとして、受け入れてくれるとは思わなかったからだ。
頼政もそこは薄々感じていた。
なので、断られることを前提に話を持ちかけたものの、夜鳥がまさかこんな手を使うと予想はしていなかった。
「三上香菜は旦那に子供を連れて行かれると恐れていた。その恐怖の根源が君の見た彼らのやり取りだとしたら、子供をこの病院に、しかもこの時間に連れてくるなんて絶対に彼女が許さない。旦那が後悔していたのも、子供に謝りたいと思ったのも知っている人間は君だけだ。この世界のどこを捜しても君しかいない」
「……報われないですね、それ。肝心の人たちに理解してもらえなくて、僕にだけなんて」
「でも、彼は頼政が動いてくれたおかげで彼は願いを叶えられた。これが最善だと思ったほうがいい。若い頃から悩みを持ちすぎると早い段階で……」
そう言いながら夜鳥の視線が自分の頭に向けられていると気付き、頼政はハッとした。
「え、何ですか。何その意味深な視線と発言……」
「別に君が思ってるようなことじゃないし、別に多くの男性が持つ悩みを指してるわけじゃない」
「髪か、やっぱ髪だな!?」
「こら、頼政。私は君が将来絶対ハゲるタイプだなんて一言も言ってないよ」
「言ってないだけで思って……」
そこで頼政は病院の中から看護師や患者がこちらを覗いていると気付いて、まずいと思った。彼らの眼差しが完全に不審者を見る目だ。
「あー、帰りましょ夜鳥さん……」
「そうだね。こっちの時計も役目を果たしたみたいだし」
夜鳥の手の中にある時計の針はいつの間にか止まっていた。もう二度と動くことはないだろう。頼政は何となくそう感じた。
「あの、夜鳥さん。三上さんの旦那さんの気持ち知ってる人間は君しかいないって言ってましたけど、一応アンタも含まれてると思いますよ。僕が教えたんだから」
「まあ、そうと言ったらそうかもしれない」
「あと、どうやって三上さんの子供のこと知ったんですか?」
夜鳥が化けられる人間の条件は一度でも認識があることだ。
写真や映像越しではなく、実際に自身の目で見なければならない。
それが条件であると頼政は以前聞かされていた。
夜鳥は香菜たちの子供を見ているのだろうか。
「それは企業秘密だよ。いくら君であっても、だ」
そう言いながら夜鳥は先に車へと向かった。
夜鳥の答えはイエスでもノーでもない。なので、頼政もこれ以上詮索はしなかった。
どうせいくら問いただしてもまともな返答が得られないことは経験上分かっている。
何せ、頼政はこの夜鳥夏彦という男に関して知らないことのほうが多いくらいだった。
「あと、もう一度言うけど、知っている人間は君しかいないよ」
「頑なだなぁ……」
「だって、『俺』は人間じゃない」
こちらを振り向き、星一つない夜空の下で妖艶に笑う夜鳥に、頼政は冷めた視線を送った。
「そんなの知ってますよ」
「へえ、覚えててくれたか。嬉しいな。うん、嬉しいよ」
言葉通り、本当に嬉しそうに呟く夜鳥に頼政は何も言わず、小さく笑った。
人間じゃない。そんな些細なこと、さして気にすることなどではないのだ。
頼政にとって大事なのは、この年上の不思議な友人といつまでともにいられるか。ただ、それだけの話だった。