忘却から愛と贖罪を込めて(Ⅱ)
丸型の木のテーブルと座り心地を重視して椅子を選んだのは頼政だ。
テーブルにはメニュー表やナプキンが設置されている他、世界中のお菓子や紅茶の種類などを紹介している蘊蓄表のようなものがある。注文の品がくるまでの間の退屈しのぎとして置いたものだが、これがわりと好評だったりする。
客の六割は女性。
主なメニューはケーキやデザート、サンドイッチなどの軽食。どこにでもあるような普通の喫茶店だ。店自体はあまり広くなく、客の定員は十人。
ショーケースの中で飾られている骨董品類の存在さえ省けば。
壷、ランプ、食器、アクセサリー、時計など。
夜鳥曰く年代物のそれらは要望があればケースから取り出して実際に触れることもできるし(手袋の着用が条件となるが)、買取りも可能だ。
骨董品を見ながら茶や食事を楽しむ。それがこの『彼方』の経営理念らしい。
ちなみに主にキッチンは頼政、給仕は夜鳥の役割だ。
(その経営理念しっかり守れてるのか? これは……)
焼き上がったアップルパイを切り分けながら頼政はふと疑問に思う。
ちらりと厨房から店内を覗いてみれば、先ほど入店した女性客たちが骨董品には目もくれずに雑談している。
週に二回、頼政の大学が休みの日だけ喫茶店の機能を果たしている『彼方』だが、客たちの狙いの大半はデザートと夜鳥だ。
骨董品は完全にオブジェ扱いで興味は一欠片もない様子である。
彼女たちにとっては、生きる美術品と言っても過言ではない夜鳥のほうが価値があるのだろう。
これでは骨董喫茶店ではなく、ただの喫茶店だった。
「アップルパイ焼き上がりました」と書かれた札をレジの横に置くと、それに気付いた客から早速注文が入った。それも一人で二ピース。アップルパイは秋の時期しか出さない限定のメニューで、今一番売れている。
程よく酸味が残るようにコンポートした林檎を生地に包んで焼いたそれは、香ばしいパイと甘酸っぱい林檎のそれぞれ異なる食感を味わえる上、甘さも控えめなのでいくらでも食べられると好評だ。この辺りは頼政が好みで作った結果でもある。
頼政自身ケーキや甘いものが好きなのだが、最初は美味しくて次々と食べるのだが、暫くすると満腹になっていないのにもう食べられないことがよくあった。甘さに疲れてしまうのだ。
なので、自分で作る時は砂糖の甘みではなく、素材の味をより深く感じるように作っていた。
このアップルパイはそのこだわりが特に強く出ている。そんな手作りの焼き上がったアップルパイが売れている事実は何だか気恥ずかしい。
「あ、頼政。私の分ちゃんと取ってくれてる?」
次々と入るアップルパイの注文に焦った表情で夜鳥が厨房に入ってくる。
「ねーよ、そんなの! 店に全部出しちゃってるわ!」
「それは残念だなぁ」
少し残念そうな顔をされるが、こちとらお客様商売である。アップルパイが食べたい店長と客を天秤にかけたら、後者に譲るに決まっている。
「それより、この状況いいんですか?」
「何が?」
自分の分は確保されていないと分かり、少し拗ねた口調で夜鳥が言葉を促す。
自宅から持ってきた林檎であとで何か作ることはまだ黙っておこうと決め、頼政は一抹の不安を口にした。
「この店、このままでいいのかなって思うんですけど。皆、骨董品じゃなくて夜鳥さん見てません?」
「見てるね。うん、女の子にモテるのも辛い」
「夜鳥さんの苦労はどうでもいいとして、もう少し骨董品にスポット当てる何か……こう……やってみません?」
「別にいいんじゃないのかな? 平日は普通に骨董品屋として、一応儲かっているし」
夜鳥の言う通りだ。普段は骨董品屋としてマニア向けの営業を行っている。だから骨董品目的の客は喫茶店の『彼方』に訪れることはあまりない。
そして、本人の言葉を信じるならばちゃんと商売にはなっているので経営難を心配する必要はなさそうだ。
頼政もちゃんと働いた分だけお給金をもらっている。
それでも頼政としては、もっと客たちには骨董品に興味を持って欲しいと思う。いつまでもショーケースの中に置かれたままの骨董品たちを見ていると、たまに哀れに思えてしまうから。
「この店の経営理念とは一体どこに行ってしまったんだろ……」
「あまり深く考える必要なんてないと思うけど。どうせ喫茶店のほうは娯楽でやっているだけだし」
「娯楽ですか」
「経営理念なんてそんなのどこの店や企業だってしばらくすれば売上とか効率とかで塗り潰されていくものだよ。そんなことよりも頼政、今日は少しだけ店を閉める時間が遅くなるかもしれないけど大丈夫かい?」
珍しい。いつもなら夕方五時になったらすぐに店を閉めているのに。
「誰か特別なお客さんでもくるんですか?」
「朝電話かけてきた人。何でも人があんまりいない時がいいってことでね」
「うへぇ……」
詳しい話もしないまま、夜鳥が厨房から出て行く。
人があまりいない時。しかも、喫茶店に行くのにわざわざ電話をかけている。何か訳ありの予感がする。
「頼政、三番のテーブルにサンドイッチとフルーツサラダ一人前ずつ」
「は、はい!」
気になりながらも今は目の前の仕事だと、頼政はサンドイッチ用に耳が切られた食パンを用意した。
◇◇◇
秋になると夕暮れが早くなる。つい一ヶ月ほど前は夕方でもまだ明るかったのに、今は夜になるかならないかの暗さだ。長袖の服を着る人も多くなった。
他の客は全員帰り、夜鳥と頼政だけとなった『彼方』に本日最後の客がやってきたのは、五時になってから二、三分経ってからのことだった。
「いらっしゃいませ、今朝お電話いただいた三上様でよろしいでしょうか?」
「え、あ……はい、閉店したあとなんて無理を言って申し訳ありません」
客は一瞬、夜鳥を見て呆けていたが、すぐに深々と頭を下げた。見惚れていたんだろうな、と頼政は苦笑いを浮かべる。
客は黒髪を後ろで一つに結っており、黒縁眼鏡をかけた物静かそうな女だ。
三十代前半くらいだろうが、目の下には化粧でも誤魔化しきれない黒い隈ができていた。
頼政の予感はどうやら的中したようだ。緊張していると、隣の男が小さく笑ったのが聞こえた。
「頼政、この方は三上香菜様。骨董品を売りにきてくれた人」
「えっと、僕は……」
「こっちの彼は私の助手の深山と言います。三上様、彼も同席しても構わないでしょうか?」
「……ええ。このお店の方でしたらそれは構いません」
数秒ほど間を置いてから頷く香菜を見たあと、頼政は首を傾げた。
たまに夜鳥は頼政を助手と呼称する時がある。
骨董品に関してはほぼ知識ゼロの大学生をそんなふうに呼ぶのはどうなのだろう。今この状況では厨房担当と紹介されるよりはいいのだろうが。
「お話の前に何か温かいものでも。コーヒーと紅茶、どちらがよろしいですか?」
「ありがとうございます。ではコーヒーを」
「かしこまりました。頼政、お願い」
「はい」
「三上様はこちらへどうぞ」
夜鳥に促されて店の一番奥のテーブルに案内される香菜とすれ違った瞬間、頼政は違和感めいたものを覚えて振り返った。
「……?」
香菜本人ではなく、香菜が肩から提げているバッグからだろうか。妙な気配を感じる。
それは決して気のせいではないだろう。夜鳥も微笑みながらも、その視線はバッグに注がれている。
あまり変な用件でないといいのだが。頼政は内心祈りつつ、コーヒーカップを手に取った。
「……こちらのものを買い取っていただきたいんです」
頼政が淹れたコーヒーを一口飲んでから香菜はそう話を切り出した。
『彼方』では骨董品の販売だけでなく、買取りも行っている。
平日は夜鳥が直接客の自宅に赴いて出張買取りもしていた。頼政もたまについていく時がある。
希少価値がある商品だと数十万の金が動くという。
「……お電話で話された通り、そちらの品だけで?」
「はい」
香菜が鞄から出したのは黒塗りの置き時計だった。大きさは白菜より少し小さめといったところか。
丁寧に扱われていたようで、金色に光る時計の針は止まっているものの、目立った傷はついていない。
夜鳥は時計を見ると、目を細めた。
「これは、誰のものですか?」
「だ、誰のものって……」
「いやいや、あなた自身のものではないでしょう? 骨董品を布か何かで包むことなく、バッグにただ突っ込んで持ってくるなんて粗末な扱いをする人なんて中々いないんですよ」
確かに夜鳥の言う通りだった。
しかも、香菜は素手で時計に触れている。とても骨董品の価値を理解していない人間の触れ方だと頼政は思えた。
「……だって、私にはこれが高いものだとは思えませんから」
図星だったのか、香菜は苦笑しながら言った。
「私がこうしたせいで買値が下がるならそれでも構いません。何だったら数千円程度でも」
「それはつまり、あなたは金欲しさではなく、ただ手放したくてここにきたわけですね。自分の所有物ではない時計を」
煽るような物言いをする夜鳥に、香菜の目付きが若干鋭くなる。あ、まずいと頼政が思った瞬間には香菜は声を荒げていた。
「死んだ夫の私物をどうしようと私の勝手じゃないですか……!」
「えっ、死んだ夫?」
思わず頼政がそう呟くと、彼女は気まずそうに口を手で塞いだ。
「……申し訳ありません。取り乱してしまって」
「いや、私も言い方が悪かったですから。それに今朝の電話で旦那様の遺品であることは承知していました。ただ、分からないのがその遺品を何故売り飛ばそうとしているかです。後にトラブルに巻き込まれるのは避けておきたい。そのために理由はこっちも知っておく必要があります」
真顔で淡々と述べる夜鳥に香菜は黙り込んだ。彼女を促すように夜鳥はさらに続けた。
「失礼を承知で尋ねます。金銭に困っていたとか?」
「いえ……」
「ですよね。あなたはいくらで買い取ってもらえるかについてはさして興味がなかった。そうなると……」
「気味が悪くて」
観念したように香菜は口を開き、夜鳥の言葉を遮った。