忘却から愛と贖罪を込めて(Ⅰ)
――では、次のニュースです。食事をろくに与えられず衰弱していた幼児が発見されました。また、幼児の体には複数の痣が……。
テレビの画面が別のニュース番組に切り替わる。明るい話題だったのか、ニュースキャスターやコメンテーターがにこやかな顔をしている。
その光景をぼんやり眺めていた深山頼政は自分がテレビのリモコンを掴んでチャンネルを変えていたことにようやく気付いた。
自分だけの食卓ではないのだ。慌てて口を開いた。
「ごめん。何も言わないで勝手に変えて」
「ん? 別にいいわよ。お母さんも朝から重いニュースを見るのはそんなに好きじゃないから。ね?」
妻に話を振られた男は納豆を混ぜるのに必死になっていたようで、そもそもテレビに意識を向けてすらいなかったらしい。不思議そうに顔を上げて「どうした?」と聞いてきた。
「ほら、この人はこの人でご飯の時はテレビ見る人じゃないし。だから全然気にしなくていいわよ」
「そういえば頼政。今日お前大学休みだからバイトに行くのか」
「うん。夕飯はいつも通りお店で食べてくるから」
「じゃあ、うちにいっぱいあるじゃがいも持たせればいいんじゃないか?」
「そうねぇ。いつ食べ切れるか分からないし、あんまり日にちが経ちすぎると芽が出てきちゃうし」
両親の会話を聞きながら頼政は数日前に実家から送られてきた段ボールを思い出す。
母方の実家は農業をしており、月に一度野菜が大量に送られてくる。今回はじゃがいもの量が多く、食べても食べてもキリがない状況だった。夏に送られてくるトマトや茄子など傷むスピードが早く、短期決戦型よりはマシで食費が浮くのはありがたいが、消費に困るのも事実だった。
「それじゃ、林檎も持って行ってもいい? デザートあったほうがあの人喜ぶんだよ」
「いいけど……うーん」
「ダメだった?」
どこか複雑そうな表情の母に頼政がそう尋ねるも、「そうじゃなくて」と返される。
「あなたのそういうマメなところ、もっと皆に見てもらえればいいんだけど。それで友達できると思うわよ」
「できるって……増えるとかじゃなくてそっち!?」
「だって! あなた、大学に入ってから全然お友達の話しないじゃない。高校の時はご飯の時に色んな人の名前出してたけど、今は彼だけよ」
「ウッ」
痛いところを突かれて頼政は何も言い返せなかった。
そう、頼政は無事に大学に進学できたものの、青春を謳歌するために最も必要とされる人間関係をほとんど作り上げていなかった。授業の時も食事の時も常に一人だ。それがすでに一年半続いている。
一人が大好き、孤独を愛しているとかではない。
高校の頃は友人と呼べる存在が何人もいた。ただ、大学ではその彼らとも疎遠になってしまっただけであって。
朝食を終え、部屋に戻ってから頼政はそのことをずっと考え続けていた。そして、ある可能性が浮かんだと同時に机の上に置いていたスマホが一瞬震えた。
画面を見ると、Twitterの通知だった。
何だ、と気になって開いて頼政は心臓が跳ね上がるような思いをした。
「え、うおっ!?」
今度、皆でオフ会しませんか。そんな内容のDMに頼政はつい声を出してしまっていた。オフ会というものに憧れを持っていた頼政にとってはまさに願ったり叶ったりのお誘いだ。
これを期にネット上だけでなく、実際に会って遊ぶような仲に。そんなささやかな希望を持って頼政は返事を返すことにした。
「………………」
――ごめん、その日はちょっと都合悪いからまた誘って。本当にごめん。
「ちくしょおぉぉぉぉ!!」
その文面の返事を送り、頼政は机に突っ伏した。夕飯後の出来事である。
ああ、やってしまった。もうこれで後戻りはできない。できるかもしれないが、あとで発言を撤回したら、それはそれで迷惑だろう。
オフ会に行きたい気持ちはあった。
しかし、同時に怖いという気持ちも存在した。
会ったらカツアゲされるとか暴力を振るわれるとか犯罪に繋がるような恐怖ではなく、ちゃんと馴染めるだろうかという不安が不参加を決めてしまっていた。
友達を作りたい気持ちは強いのに、自分からは行動が起こせない。数分前に自覚した自らの短所に泣きたくなりそうになる。
高校の時もそうだった。頼政から歩み寄ったのではなく、ほとんどが向こうから話しかけてくれて友人関係を築くことができた。
これでは友人を作るのではなく、友人になってくれた、のほうが合っている。
そして、大学ではまだ菩薩のような人物に巡り会えていない。だから、友人がまだ一人もいない。
「……母さんは僕の本質をしっかり見抜いてたんだなぁ」
別に人見知りなわけではない。始めの踏み込みが悪いだけだ、なんて言い訳にもならない。
凄まじい自己嫌悪に襲われながらも、頼政は支度を始める。どんなに最悪な気分であっても、それがバイトを遅刻していい理由にはならない。
用意を済ませたら台所に行ってじゃがいもと林檎をビニール袋に詰め込む。
スープジャーには朝の味噌汁の残りを入れて、あらかじめ握っておいたおにぎりを巾着袋に収めたら準備万端だ。
「行ってきます!」
この家にやってきてから必ず欠かしたことがない習慣がいくつかある。その一つが挨拶だ。
行ってきます、行ってらっしゃい。ただいま、おかえりなさい。
あまりにもありきたりな言葉たちは頼政にこの家の一員であると実感させてくれた。
◇◇◇
深山家から徒歩とバスで約二十分。多くのビルが聳え立つ都会の隅で、二階建ての店は静かに佇んでいた。
淡い灰色の外壁には植物の蔓のようなイラストが黒いペンキで描かれており、「close」と書かれた黒い立て看板はちょこんと座った猫の形をしている。
骨董喫茶店『彼方』。それがこの店の名前であり、頼政のバイト先でもある。
見慣れた建物が見え始め、頼政は歩く速度を少しだけ速めた。
開店時間まではまだまだ余裕はある。何を急いでいるのかと言えば、店ではなく店長のことだった。
寝汚いわけではないはずなのだが、彼は基本的に一度寝てしまうと中々起きないタイプらしい。なので、頼政がこうして早朝にやって来て起こす係を担っていた。強要されたのではないし、宣言もしていないが暗黙の了解となりつつある。
本人曰く、平日は目覚まし時計を三個使用することで何とか起床するのだが、たまには彼らを休ませたいというわけの分からない理由で土日はその目覚まし時計を使っていないのだ。
変な形で時計たちを労わるくらいなら、毎日三個使用せず一個ずつ交代制にしてやれと頼政はこの話を聞くたびに思う。
が、今日はいつもと違うようだ。薄暗い店内を動く人影があった。先ほどとは別の理由で歩くスピードが速くなる。
窓硝子を数回軽くノックするように叩くと、こちらに背を向けてテーブルを拭いていた人物が振り向いた。
まるで人形のように美しい顔立ちをした美青年。
彼を一言で言い現すならばそれが相応しいだろう。実際、客たちが小声でそう言っているのを頼政は何度も聞いている。
ちなみに頼政は容姿に関してあまり褒められたことはない。
一度だけ「中の中くらいかな」なる評価を聞いてしまったことがある。その日の夜は十分くらい鏡で自分の顔を見詰めていた。
黒服を纏った長身。どこか儚げな美貌と日の光を一切浴びていないかのような白い肌。それでいて妖艶な雰囲気を漂わせる切れ長の瞳。癖のない黒い髪。
なるほど、頼政には持っていないものを彼はすべて持っている。そのことに妬みめいた感情は湧かないが、羨ましいとは感じてしまう。
頼政だけではなく、世間の男性から羨望の眼差しを向けられるであろう彼は窓際まで寄ると、窓を開けて柔らかな笑顔を見せた。
「おはよう、頼政」
「おはようございます、夜鳥さん」
この喫茶店の店長である青年の名前は夜鳥夏彦という。あまり夏らしい見た目でもないので、頼政は彼を姓で呼んでいる。
「夜鳥さんがこの時間に起きてるなんて珍しいですね。てっきり強盗に入られたのかと……」
「朝から電話がかかってきてね。私は二度寝はそんなに好きなわけではないし、仕方ないから起きたんだよ」
「二度寝が好きじゃないって……目覚まし時計三個使ってる夜鳥さんには言う資格ないんじゃ」
「好きじゃないけど、二度寝しないとは言ってないよ。ほら、入っておいで」
玄関のドアが開かれたので、そこから店内に入る。
普段は裏口から入って、店に入る前に夜鳥を起こしに行く。一階は店になっているが、二階は夜鳥の居住エリアだ。そこに向かい、ベットで爆睡している男を叩き起こす。起こしたら持参してきた朝食を食べさせる。
と、寝坊助の息子の世話をする母親のような作業が頼政の最初の仕事なのだが、この様子だと朝食も自分で済ませてしまっているかもしれない。
鞄の中に入れているスープジャーとおにぎりがずしりと重みを増した気がした。いや、まあ自分で食べてくれているならそれに越したことはないのだが。
「……ちなみに朝ごはんは何食べたんですか? ちゃんと米は食べましたよね? ゼリーだけとか、白米だけとかは食事って言わないですよ」
「え?」
頼政の質問に夜鳥は幼い子供のように純粋無垢な目をした。
「……? 夜鳥さん? 僕、今日夜鳥さんが朝ごはん何食べたか聞いてるんだけ、ど」
「そんなもの食べてないよ」
「えー!? 食ってないのかよ!?」
心底呆れた様子で頼政が叫ぶ。
「何で食べないで普通に店の準備してんの!? お腹空いてないの!?」
「うん。いつも言っているだろう。私は一日一食とおやつがあれば稼働できるって」
「稼働って言うな、ロボットみたいで何か怖い! あと不摂生にもほどがあるよ! 死ぬから! 若い時からそんな生活送ってたら……」
頼政は深くため息をついてから鞄の中からスープジャーとおにぎりが入った巾着袋を取り出すと、それを夜鳥に押し付けるように渡した。
夜鳥が食べないなら、あとで昼にこっそり食べようと思っていたが、それはあくまで彼が何らかの食べ物を口にしていることが前提となる。
何も食べなくても大丈夫という理論を鵜呑みにする気はない。
頼政には世話焼きの癖はないものの、放っておけば本当に一日一食とおやつだけで乗り切ろうとする夜鳥に危機感を覚え、バイトの日はこうして簡単な朝食を用意するようになった。
なので、土日の深山家の朝食は頼政が作り、その残りをこうして夜鳥に提供していた。
案の定、夜鳥は微妙そうな顔をする。小学生か、と彼よりも年下である頼政は思った。
「味噌汁とおにぎり……朝から渋いなぁ」
「味噌汁の具はさつまいもと葱と豆腐。おにぎりの具は蜂蜜梅で甘酸っぱいからアンタでもいけると思いますよ」
「本当かい? さすが、私の頼政は私のことをよぉく理解している。ありがとう」
夜鳥は甘いもの好きだった。
「夜鳥さん早く食べてきちゃってください。店の掃除は僕がするから」
「はいはい」
店の奥に消えていく夜鳥を見送ったあと、頼政は店内を見回した。