振生道を往く
狩谷洵は、ファミリー・レストランと身長コンプレックスが嫌いである。
すなわち、上っ面の妄想譚が大嫌いだったのだ。
「じゃあもう一度、最初から」
その妄想譚がポロシャツとチノパンを着て、指揮台に立つ狩谷のそばでヴァイオリンの弓を運んでいた。コンサート・マスターの大池鐙里である。彼は他のヴァイオリン隊とともに、『巨人』の冒頭部・朝焼けの囁きの如きフラジオレットを弾いていた。その演奏は、振生市交響楽団の初合わせとしては許容できるレベルだったが、この振生市民館大ホールの円天井に的確に響きわたる大池の陶酔したAの音が許せず、狩谷は立ち込める靄を晴らせないままにタクトを振りなおした。
クラリネット隊が跳ねるように三連符を繰り出した。そもそも、狩谷は『巨人』が嫌いだった。だが、千葉県フィルハーモニーオーケストラで務める音楽監督補佐の仕事のために振生市を離れているうちに楽団員会議が開かれ、次の演奏会で『巨人』をトリにする事が決められた。すべて大池の画策だったが、楽団会則に則った決議であった以上、狩谷には覆す意志も活力もまた余裕もなかった。ただ、狩谷は代わりに宣伝担当に圧力を掛けて、フライヤーから『巨人』の文字を削除させ、今度の振生市交響楽団第六十七回定期演奏会の最後の演奏曲を「グスタフ・マーラー 交響曲第一番」と発表させた。
郭公のテーマをフルートがとちった。やっと出来上がりつつあった練習の緊張感を途切れさせたくはなかったが、譜面台に横たえてある腕時計が練習開始から二時間半を経過しているのを示している事に気付いて、狩谷は腕を下ろした。
「いったん休憩。三時半に再開、一番の続きから」
狩谷がタクトを置くのと同時に、多くの団員たちは楽器をその場に置いて立ち上がった。大池もさっそくヴァイオリンを放って、ズボンの左の尻ポケットを探りながら舞台を立ち去った。煙草を吸いに行ったのだろうと考えたところで、そのつまらない思い付きを切り捨てた。屈んで、足元に置いておいたペットボトルを口に付けたが、水はすっかり温くなっていた。
ふと、舞台端で談笑する楽団員たちの会話が聞こえてきた。管楽器隊のメンバーだった。
「そういえばお前、スガル買ったってホントか?」
「おいおい、誰から聞いたんだよ。誰だ誰だ、耳が早い奴は」
「どこのスガルだよ。勿体ぶらずに教えろよ!」
「ええ? 一応、国産だよ。フタバ。中古だけどな」
「フタバのスガルかよ! いやいや、中古でも十分だって」
「なになに倉太君、スガル買ったの?」
「そうなんだって。地方オケの楽団員如きがフタバなんて、罰が当たるぞ」
「お前だって車は持ってるじゃん。フタバのエイト」
「この年まで独身だと車よりもスガルの方が良いんだよ。あーあ、笙ちゃん、俺とデートしない?」
「車の助手席に乗せるためだけに誘うとかマジない」
「じゃあ俺は――」
「私はスガル持ってないからパス」
「スガルデートじゃなくても普通に――」
「私をナンパしようなんて百万年早いって」
「なあ倉太、これは『お前は百万年働き続けないとスガルを買えない』って皮肉か」
「いや、遠回しに『死ね』と言われているだけじゃないか、今沼」
堪えきれずに狩谷が噴き出すと、管楽器隊の一同が振り向いた。
「あれ、聞いてたんですか! 狩谷さん」
「すまない、倉太と今沼のやり取りにやられた。有藤はしたたかだなあ、演奏通りだ」
「お褒めの言葉を頂けるなら、副賞にコールアングレ協奏曲でもやらせてもらえませんか!」
「フェラーリか。まだ近代だなあ」
「同じフェラーリなら演奏するのも良いけど、やっぱり乗り回したいなあ」
今沼がハンドルを切り真似をしながらおどけてそう言うと、倉太が思わず笑い声を上げ、狩谷と有藤もつられて笑って、今度はホールいっぱいに哄笑が響きわたった。それから話がひとしきり済んだところで腕時計は三時三十分を指し、マーラーの交響曲第一番の練習が再開された。空気の凛と澄んだ森に響く郭公のテーマがフルートから繰り出されて、狩谷は微笑みながら先に進めた。
帰りしな、狩谷はその倉太のスガルを目にする事となった。
普段は練習を終えても、楽譜を読み返したり翌日の練習を計画したりして楽団員の誰よりも遅く残っていたが、その日は妻の恵麻の誕生日のため、あらかじめホールの座席に荷物をまとめておき、練習が終わるやいなや荷物を抱えてホールを後にした。警備員に会釈して、関係者通用口の金属製の重い扉を開けた先では、夕焼けが空を席巻していて、市街地へ吹き込んでくる海風が深まりゆく秋を感じさせた。グレーのスーツにその心地好い秋風を受け流させながら狩谷は歩を進めたが、中途、不意に足が止まった。通用口を出たところに広がる市民館の駐車場に二台のスガルが止められており、狩谷は思わず見上げてしまった。一台はドイツ製と思しき漆黒のスガルで、テレビで「ビーナ」という名で紹介されているのを何度も見た事があった。それから一台の乗用車を挟んだ隣に、フタバ自動車の銀色のスガルがあった。十三年前に発表された初代の「スガル」から数えて四代目のもので、もう初代の面影はほとんどなかったが、狩谷は初代を初めて見た時と相変わらぬ気持ち悪さを覚えていた。
狩谷が視線をアスファルトに落として歩きだそうとしたその時、喧しい会話が聞こえてきて楽器ケースを銘々に背負った楽団員たちが通用口から流れ込んできた。
「おおーっ! スガル・フォーだ!」
今沼の大声が頓狂に耳に飛び込んできて間もなく、狩谷と銀のスガルの間にあっという間に人だかりが出来た。そこに大池は含まれていなかった。
「これに乗ってここまで来たの?」
「当たり前だろ。時間は自転車と大して変わらないけど、自分の足で歩くのと、スガルに乗って歩いてくるのじゃ違うな」
「うわあ、スガル持ってる人は言う事が違うなあ! えっと、シルバーがお前のだよな」
「そう。黒いのは大池さんのスガル」
「ああ、大池さんっぽい……っていうか、海外製のはスガルって呼べないんじゃないの? スガルって商標でしょ、フタバの」
「でも、東南アジアだとフタバとか日本製のばっかりだからSugaruって呼ばれてるらしいし、日本でももう一般名詞化してるじゃん。第一、スガルをわざわざ『身体拡張装置』なんて呼んでたら、キモいだろ?」
「確かにっ!」
どっと沸いた笑いは臙脂色の市民館の壁に反射して、辺りに所構わず響いていった。狩谷は無表情のままに後にした。誰も止める者はなく、敷地を出た狩谷は脇目もふらず県道二四号をまっすぐ歩いていった。ちょうど自宅マンションまでの道程に個人経営の洋菓子屋があった。
その県道が「振生道」という名だと知ったのは、洋菓子屋「酉井堂」に寄るようになってからだった。店がいつも盛況なため外で順番を待つ事が多く、そのうちに、道路沿いに「振生道」という名の由来について記した看板が立てられている事に気付いたのが最初だった。
その日も酉井堂は景気が良く、店内には先客が三人ほど居て、狩谷は店の前でガラス越しに接客に追われる酉井千愛に手を振って、順番を待つ事にした。既に歩道の街灯も、県道・振生道を走り去る車のヘッドライトも煌々と照り、空はその濃色を濃くしつつあった。例の看板の紹介文は――もう内容をすっかり覚えてしまったため読むべくもなかったが――夕闇に掻き消されて読めなかった。街道を吹き抜ける風もその棘を鋭くし、狩谷がダッフルコートに包んだ身を縮こまらせていると、酉井堂と隣家の間の自転車一台が通るほどの隙間しかない小路から一人の少女が駆けてきた。狩谷も以前姿を見た事がある、千愛の娘、酉井丹莉だった。
「あ、たくとさんだ!」
丹莉が目の前で立ち止まって律儀にお辞儀すると、狩谷はしゃがみ込んで同じ目線の高さで向かい合った。
「丹莉ちゃんか。ちょっと見ないうちに大きくなったねえ」
「たくとさんも、おおきくなりましたね!」
「ありがとうねえ。でも私は、『たくと』じゃなくて、かりや、じゅん、ってお名前なんだよ」
「わかった! たくとさん!」
無邪気ににいっと笑う丹莉を前にして苦笑しているうちに、狩谷は薄暗がりの中で丹莉が何かを手に持っている事に気付いた。
「丹莉ちゃん、今、お家に帰ってきたの?」
「そう! えりちゃんと、ひーちゃんと、ちーちゃんとあそんできたの!」
「へえ、何をしてたんだい?」
「えっとねえ、これ!」
思ったよりも易く、狩谷はその手に握る物を見る事が出来たが、近くで見せられてもそれが何か、すぐには分からなかった。酉井堂からガラス越しに差してくる照明の光に照らされるそれを、狩谷が目を凝らして見ていると、丹莉は痺れを切らしたように声を上げた。
「とんぼのはね!」
狩谷の硬直した頬を風がなぶっていった。
「ああ、そうかあ。丹莉ちゃん、他には何をしていたの?」
「きょうはいっぱいいたから、たいかいやったの!」
「大会? 何の大会かな?」
「ありをつぶすたいかい!」
ついに太陽は街並みの向こうに消え去り、濃紺の夜空が頭上に広がっていった。点々と散らばった星々が煌めきだした頃、狩谷の背後から千愛の声がした。
「狩谷さん、お待たせしました!」
狩谷は丹莉の屈託のない表情を見つめたまま、左手で彼女の頭を優しく撫でた。
「楽しかった?」
「うん!」
「ちゃんと部屋に入ったら、手を洗うんだよ」
「うん! たくとさん!」
狩谷は立ち上がって振り返った。店の入り口から千愛が顔だけ出していた。
「あら、丹莉! どうもすみません、丹莉が何か……」
「いえいえ。丹莉ちゃんが偶然帰ってきたところだったので、私が話を聞いていたんです」
「それは、どうもすみません。さあ狩谷さん、早く中に入ってください。ほら、丹莉も」
丹莉が大きく返事して駆けだすと、狩谷はその幼い走りをエスコートして、彼女について中に入った。酉井堂の中は橙色の光に包まれていて、ショーケースに並ぶケーキはその艶を静かに保っていた。
左手に「酉井堂」と印刷された紙製の箱を持って右手に革製の鞄を提げて、オートロックを通過してエレベーターで七階まで上がり、七〇五号室の前まで帰ってきたその時、狩谷は違和感を覚えた。通路に面する窓は出掛けの時と同様に暗いままだったが、扉の上に備え付けられた電力量計が心なしか早く回っていた。涼しかった今朝方、空調を動かしていた記憶も、したがって電源を切り忘れた記憶というのもなく、狩谷は恐る恐る右手親指を認証スペースに押し当てて解錠して扉を開けた。すると、長い廊下の突き当たり、ダイニング・ルームの扉が僅かに開き、光が漏れ出していた。瞬間に狩谷は靴を脱ぎ捨て、仄暗い廊下を駆けていき、扉に体当たりした。
一人の女性が、座ったまま振り向いてきた。
「おじゃましています」
手からこぼれ落ちそうになった荷物を握り直して、フローリングに座る小川侑鳴と向かい合った。
「どうして、ここに」
「家族の誕生日を祝いに来てはいけませんか」
「ここで祝う道理もない。恵麻の誕生日なんだから――」
「姉の誕生日を祝ってくれる人なんて、今ではあなたと私くらいです。別々に祝う道理もありませんよ」
「しかし、だからって――」
「一人暮らしが長すぎて、変な感じがしますか?」
「というか、君は……あまりに、似すぎている」
「姉にですか」
「ああ。姉妹というよりは双子に近い」
狩谷は身体で扉を押し閉じると、その場に座り込んで荷物を直に床に置いた。同じ目線の高さになったところで侑鳴は言葉を返してきた。
「『おかえり』とでも言った方が良かったですか」
「え?」
「何でもないです。休んでいてください」
侑鳴は、狩谷の左の傍らから「酉井堂」の箱を取ると、キッチンへ向かった。食器棚や冷蔵庫のものを出し入れする音を聞き流しながら、狩谷は上着を脱いで折り畳んで鞄の隣に置くと、立ち上がって、隣室のリビングとを仕切る引き戸を開け、足を踏み入れた。ダイニングの光が侵してきているだけの暗い部屋で、狩谷は右足を出し、左足を出した瞬間、身動きがとれなくなった。どこに何があるかは普段の感覚で分かっていたが、その部屋で踏み出すもう一歩を、狩谷はその時持ち合わせていなかった。
「お茶、入れましたよ。狩谷さん」
侑鳴の言葉で我に返ると、狩谷はふと振り返って、深く息を吸い込んで光をこぼしてくるダイニングに戻った。足の短いテーブルには三号のホールケーキが大皿に盛られ、それを挟んで、湯気を上げる紅茶の入ったティーカップがそれぞれソーサーの上に置かれていた。侑鳴は花柄の腰巻のエプロンを外すと、カップの一方の前に着座して小皿とフォークのセットをカップの隣に据えた。狩谷は半ば呆然としながらカップの前に正座し、侑鳴と向かい合った。
「歌いましょうか」
「何をだ」
「決まってるじゃないですか、ハッピー・バースデイですよ。お誕生日会なんですから」
「亡くなった人間の誕生日だぞ」
「祝わないんですか」
「悼む日だ」
「ケーキも買ってきたじゃないですか」
「悼む場にケーキがあってはいけないルールはない。通夜料理だって寿司にオードブルだ」
「じゃあ歌ってもいいじゃないですか。姉が歌うのが大好きだった事は狩谷さんが一番よくご存知でしょう」
正座した太腿の上で握った拳が自ずから力んだ。それから狩谷がまっすぐ向けていた目線を逸らすより早く、侑鳴は高らかに歌いだした。産み落とされた幸福を祝う三十秒弱の歌は無味に部屋いっぱいに広がった。歌が終わると、部屋中に取り残された残響はばつが悪そうに消滅していき、ダイニングには家具とケーキセットと、侑鳴と狩谷ばかりが残った。
狩谷は白く反射するフローリングを見ながら口を開いた。
「侑鳴ちゃん、私のもとに来たのはいくつの時だったかな。まだ十二歳の時だったっけ」
「ええ、そうです。ちょうど修学旅行の最中に六・二〇が起きて、それから十四年間、狩谷さんにはおんぶにだっこで、本当にお世話になりました」
「私は何もしていないよ。ただ、世間がもっと何もしていなかっただけだから」
「仕方ないですよ。世間はそれどころじゃなくて、この国の危機だったんですから」
侑鳴は大皿に載せておいたナイフと手元のフォークで器用に切り分けて、自分の皿に一切れのケーキを乗せた。
「自分の分は自分で取ってくださいね」
俯いた狩谷を横目に、侑鳴はケーキの腹にフォークを入れて掬って口に運び、フォークに残るクリームを舐め取った。それからまた一口食べたが、狩谷の曲がった背中はそのままだった。侑鳴はテーブルの上のテレビのリモコンを手に取った。
「テレビ、点けますよ」
狩谷が頷いたのを確認して、テレビの電源を入れた。夕方のニュースがやっていた。ふと画面に視線を遣った狩谷の目に飛び込んできたのは、他ならぬスガルだった。
「――国防省は今日、来年度より配備される新型軍事用BEE・身体拡張装置を発表しました。これは国防軍法に基づく情報公開で、実物が公開されるとともに、現役の隊員によるBEEの運転が披露されました。発表の中で井出眞国防大臣は『緊張状態が緩和されつつある極東のみならず、アジア・太平洋地域の平和のためにも、BEEを積極的に生かしていきたい』と述べました。来年の六月でミサイル着弾事件から十五年の節目を迎えるに当たり――」
画面に見入る狩谷に、侑鳴が不意に声を掛けた。
「テレビも言ってますね、来年で、六・二〇から十五年」
「……十五年か。恵麻が亡くなったのもすっかり過去の事になってしまったな」
狩谷が口籠ると、アナウンサーが流暢に原稿を読み上げる声ばかりが聞こえるようになった。部屋が寂しさを増していくと、侑鳴はおもむろに身を乗り出して、大皿から狩谷の小皿にケーキを取り分けた。それから再び元の位置に座り込むと、力なくフォークを持って口を開いた。
「本当に、本当に薄情だと思うんですけど、十五年も前の事になると、もう記憶があやふやで。焼け野原になった幕張がもう、もうほとんど思い出せなくて」
「仕方がないよ。君が帰ってきた時には、もうミサイルが落ちてから三日経っていた。その時には、国防軍、間違えた、あの時はまだ自衛隊だったか、自衛隊が街を封鎖していたし。それに、ショックが大きすぎた。修学旅行に行っているうちに家族も故郷も何もかも失うなんて、つらい体験だ」
「ショック、ですか。でも、他のみんなほどではないんですよ」
「ショックが、かい?」
「ええ。家族や故郷を失ったのは同級生も同じでした。多くの子は施設や遠くの親戚に引き取られましたが、私は振生に移り住むだけで済みましたし」
「しかし、私が言うのもなんだが、いくら姉の夫とはいえ、他人同然の人に転がり込めば、ストレスもたまっただろう」
「いいえ。だって狩谷さん、事件の事とか全く話さなかったんですもん」
「そうだったかな」
「そうですよ。朝から晩まで、私とは哲学と音楽の話しかしていませんでした」
「……確かに、君が一人暮らしを始めるまで、哲学と音楽の話以外をした記憶がない。いや、なんて事を――」
「そんな! だから私は助かったんです。自然と、事件と距離を置く事が出来たんです」
「しかし、忘れては立ち直る事はできない」
「え?」
「えっ、どうした。何かおかしな事でも言ったか」
きょとんと見つめてくる侑鳴に、狩谷がおろおろしながら問い掛けると、一瞬表情の消えたその顔が一気に綻んだ。
「ああ、いえ! 最近聞いていなかったと思って。その台詞。『忘れては立ち直る事はできない』って」
「ああ。そんなに言っていたかなあ」
「ええ。事あるごとに」
「それなのに、結局実践させてやれなかったなあ」
「いえいえ。今では立派に独り立ちできているんですから」
「立派に、かな?」
「そこは触れないでください! その『忘れては――』の台詞って、誰か、ご家族の言葉でしたっけ」
「ああ、祖父だよ。帝大で哲学者をやっていてね、よく私に第二次大戦の時の話をしてくれたんだが、そのたびに口にしていたんだ」
「『忘れては、立ち直る事ができない』」
「おっと、意味は聞かないでくれよ。私の専門はあくまで音楽だ。それに金言は各々が各々のために解釈するためにあるんだ」
「分かってますよ。それも十二の時から聞かされてきました」
「そうだったかな」
「そうです」
二人は見つめ合うと、互いに思わず破顔した。それから狩谷はスポンジとクリームとスライスされたイチゴをフォークの腹に乗せて口に運んだ。能天気な声でおいしいと言うと、侑鳴も一口食べて、おいしいと言い、微笑んだ。それから、テレビのニュースが一段落してコマーシャルに移ると、狩谷は口につけていたティーカップを置いてふと侑鳴の方を向いた。
「侑鳴ちゃん、昔に立ち返ってやってみようか」
流れるコマーシャルをぼんやり見ていた侑鳴は、目を輝かせて向いてきた。
「哲学っぽい話ですか!」
「ああ」
「でもちょっと早くないですか」
「徹夜はもう体力が持たない」
侑鳴は手元のリモコンでテレビを消して改めて向き直した。狩谷も姿勢を正すと、一つ咳払いをして真正面から切りだした。
「『世界で一番強い動物』」
「それって哲学ですかあ? あと、全盛期に比べたらタイトルのキレがいまいちですね」
「悪かったな。でも考え方次第だよ。まずは『強い』の定義から」
「おっ、っぽくなってきましたね」
テーブルに剥き出しに置かれたケーキも、躊躇なく冷めていく二つの紅茶も意識から排して、二人は一心不乱に言葉に言葉を返して議論を重ねていった。そして狩谷の希望通り、日付が変わる前に現状出せるだけの意見を出しきり、一つの結論を導いて床に就いた。侑鳴はリビングの、いつも狩谷が寝ている布団に入り、狩谷はダイニングのソファに身を横たえたる事にした。その就寝の直前、侑鳴がトイレに行っている間に狩谷はリビングに入っていつものように仏壇に一声掛け、特にその日はもう一言だけ添え、午前零時を回った頃に眠った。
いつもより遅く寝たのにいつも通りに目を覚まし、狩谷は午前四時半にベッドから降りた。習慣に従ってものの十五分でダイニングのテーブルに朝食を準備したが、肝心の侑鳴は掛布団を頭まで被って一向に起きる気配がなく、仕方なく、リビングとダイニングの仕切り戸をきっちり閉じると、テレビを点けた。面白い番組など期待していなかったが、ザッピングしているうちにふと指が止まった。
やっていたのはアニメだった。見覚えのある絵と聞き覚えのある声に集中していくうちに、それが、狩谷が十代の時に流行ったアニメの劇場版である事を思い出した。ピアノにのめり込む日々で実際にそのアニメを見た事はなかったが、内容の多くは推察できた。現に見ているその劇場版は、人間の乗り込んだ巨大ロボットが謎の生命体に立ち向かう物語にしか見えなかった。そのように言うと、ファンの友人から「ロボットじゃない!」と激昂され理不尽と感じたのを思い出し、苦笑した。アニメの劇中に登場する心理学用語を聞きかじって日常生活に多用する友人の姿を軽蔑し、嘲笑したのも記憶している。けれどもそのような熱狂ぶりを間近で見て、狩谷は結局それらを、くだらない、気持ち悪いと一蹴する事はできなかった。
しばらく見ているうちに、コマーシャルに移った。銀行のクレジットカード、建設会社、政府広報と続いた後、フタバ自動車のスガルのCMが流れ、狩谷は髪を掻きあげた。五重塔が見える京都の小路を、女性の乗ったかなり小型のピンク色のスガルが走っている映像が流れた後、今度は海沿いの湾曲する道を快走する、男性の乗った標準型の真っ白なスガルが映った。その形はほとんど、ついさっきまで見ていた、狩谷曰く「ロボット」と変わらなかった。初代スガルはもっと大きく、マンガやアニメに出てくる巨大ロボットを彷彿とさせるフォルムだったが、身体拡張装置の名には現在の、より人の実寸に近付いていっていた。そちらの方が相応しく感じられたが、どちらにせよ、スガルを好意的に見る事はできなかった。
アニメが終わると、狩谷は一足早く一人で朝食を済ませた。マーラーの交響曲第一番をはじめとする演奏曲の楽譜を読み直し、コーヒーを一杯入れ、読み直し、またコーヒーを一杯入れたところで、侑鳴は出てきた。ぼんやりしている侑鳴に、狩谷は入れたばかりのコーヒーをまっすぐ差し出した。
家を出たのは午前十時過ぎだった。身支度を済ませ、侑鳴が車で足立区の自宅アパートへ帰っていくのを見届けて、狩谷は振生市民館へ向かった。街道をまっすぐ歩いていくと、通り掛かった酉井堂はちょうど開店準備をしているところで、千愛はおすすめメニューを書いた黒板を設置していた。狩谷が朝の挨拶をしようとした矢先に昼の挨拶をされて、慌てて昼の挨拶を返すと、千愛の背後――店の出入り口から丹莉が飛び出してきた。狩谷が昼の挨拶をしたら、丹莉は朝の挨拶を返してきて、千愛は噴き出して、口を両手で覆いながら店内に帰っていった。
「たくとさん!」
「なんだい?」
「きょうもすーつおにあいですね!」
「ありがとう。丹莉ちゃんは、これから遊びに行くの?」
「そうだよ! ふうちゃんとちーちゃんとえりちゃんとひーちゃんとあそぶの!」
「増えている。今日は何して遊ぶの?」
「きょうはね、たたかうの!」
「戦う? 戦隊ごっこか何かかな」
「ちがうよ! たたかうのは、かぶとむし!」
「ああ、かぶとむし同士を戦わせるのか」
「ちがうよ! みんなはかぶとむしじゃないよ!」
「丹莉ちゃんだけがカブトムシ?」
丹莉は笑顔で大きく頷いた。
「ちーちゃんはくわがただよ! えりちゃんはばったで、ひーちゃんはすずむし!」
「異種格闘技だな。クマムシがいれば実証実験ができるんだが」
「なあに?」
「いや、私の話。あれ、ふうちゃんは戦わないの?」
「ふうちゃんはむしぎらいだから、えっと、れ、れ、れふりーやるの!」
「今日日虫同士の戦いにレフェリーが付くのか」
「ちがうよ! れふりー!」
「なるほど、れふりーか。それにしても、みんなどうして同じ虫にしないの? 不公平じゃない?」
「しかたないの! ほかのみんなかぶとむしもってないから!」
「へえ、丹莉ちゃんは虫を捕るのが得意なんだ」
「ちがうよ! みんなもかぶとむしとったんだけど、たたかわせてるうちにしんじゃったの!」
「激しい戦いなんだなあ」
「もうにじゅっかいくらいやった!」
「丹莉ちゃんのカブトムシに敬礼したい」
「たくとさん!」
「なんだい?」
「もういかなきゃ!」
「お、頑張って!」
「ばいばい!」
その場で二、三回手を振って、丹莉は前触れなく全速力で歩道を駆け出し、隣家との間の細道に消えていった。彼女が虫籠を持っていなかったのを不思議に思ったが、自分が丹莉の顔しか見ていなかった事を思い出し、狩谷は気を取り直して市民館へ歩いていった。
駐車場に止められている黒のスガルを横目に狩谷は関係者通用口を通って警備員に会釈してホールに入った。楽団員はまだ数人しかおらず、昨日のままの椅子と譜面台の中で銘々に練習していた。その中に無論、大池もいた。やはり練習しているのは『巨人』で、第二楽章の冒頭、舞曲風のバッソ・オスティナートだった。その執拗さがむしろ耳障りで、特に昨日と相変わらぬ十六分休符を半ば無視した演奏に渋い顔をしながら、狩谷は指揮台に立った。指摘も挨拶もなしに午前十一時の練習開始までを乗り切ろうとしていた。
「狩谷さん」
不意に話し掛けられ、どこから誰がしてきたのかすぐには判らなかった。一、二秒して左方、大池の声だと気付き、慌てて振り向いた。大池が左手にヴァイオリンを、右手に弓を持って立って見上げてきていた。指揮台に立つと、普段より余計に大池を見下ろす事となった。
「こんにちは」
改めて言い直されて、狩谷は譜面台に掛けていた手を外して一礼した。
「こんにちは。どうしたんですか、大池さん」
「ああ、いや。昨日は早く帰ってしまわれて、ちゃんとお話しできなかったものですから」
「お話し。曲についてでしょうか。選曲の件はもう――」
「いいやいいや、曲じゃなくてね、この、楽団についてね、ちゃんと話さないと、と思って」
「何か、心配事でも」
「一応、あんたは我が振生市交響楽団の常任指揮者であり、団長でもある訳だからさ、例えば楽団員会議に出られないとかあったら、困る訳よ」
下ろしていた右手の拳に力が入るのが分かった。
「狩谷さんは振生の常任であると同時に、県フィルでも音楽監督みたいなの、やってるだろう」
「仰りたい事はぜひ、はっきりとどうぞ。十一時まで時間もありませんし」
「おお、そうかい。いや、ぶっちゃけると、振生と県フィルの分別とか、はっきりしてほしい訳よ。しっかりしてもらわないと練習進まないから、副団長であるコンマスが代理させられる訳だろう。だからさ、ねえ」
浅黒い肌に刻まれた薄い皴が口元で醜悪な笑みを形作った。本音丸出しの建前だった。三ヶ月前に県フィルの音楽監督補佐が忙しくなって大池が責めてきた事はあったが、その時はもう少しオブラートに包んでいた。それが今、楽団員がほとんどいない、すなわち僅かにはいるのを狙ってあからさまに攻撃してきている。狩谷は憤怒と諦念を覚えた。しかし、それだけだった。力のこもっていた拳を解いて指を柔らかく動かして残る力を掃って、小さく、それとばれないように溜め息を吐いて譜面台に向かった。
「そういった話は、また機会を設けてからにしましょう。そうだ、今度の演奏会が終わったら楽団員会議をやりましょう。最近全然やっていなかった新メンバーの募集とか、それこそ私がいない時はどうするかとか、みんなで考えた方が良いでしょう。あとで練習前に一度、伝えておきます」
狩谷はむやみに楽譜を並び替えて、譜面台から手を下ろした。言いきっても返事がないので振り向いてみると、今度は皴を眉に集めて、加えて鼻をひくつかせて口を必死に開こうとしていた。
狩谷は大池の方を向いて一礼した。
「ありがとうございます」
再び譜面台に向きなおし、狩谷は楽譜を開いた。”SYMPHONIE NO.1 Gustav Mahler”の文字と、十七段にわたる各パートの五線譜が待ち受けていた。そこにいない”Titan”ないし『巨人』の文字を思い返して、どこかへ追い遣った。
狩谷は、次に侑鳴とする「哲学っぽい話」の事を考えていた。テーマに「リビドー余ってデストルドー」というのを思いついて苦笑したところで、管楽器団が挨拶を携えてぞろぞろと現れた。