8 春間マリーと同棲生活
お風呂場から、シャワーを浴びる音が聞こえてくる。
『…………じゃあ、僕の家に、くる?』
その言葉に満面の笑みを浮かべた美少女、春間マリー。
僕は彼女を家へと連れ帰った。
それにしても大胆なことを言ったものだ。
普段の僕からは少し考えられない。
彼女を家へと誘ったときの自分を思い出して、ひとり赤面する。
「……いけない、いけない」
何がいけないのか自分でもわからないまま、2度3度と頭を振って火照った頬を冷ました。
大きく息を吐いて気持ちを落ち着ける。
お風呂場では彼女が鼻歌を歌っている。
「ちょっと近くのコンビニまで買い物に出てくるよ。鍵を閉めて行くけど、直ぐに帰ってくるから、きみはゆっくりと湯船にでも浸かっていて」
シャワーの音が止んだ。
狭い浴室に明るい声が反響する。
「はーい。いってらっしゃーい」
「うん。いってきます」
玄関で靴を履き、扉を開けて外に出た。
さて、手早く買い物を済ませてしまおう。
コンビニに買い物に行く目的。
それは、彼女の下着や靴下なんかの調達だ。
デートのあと家へと帰ってきた僕たちは、少し遅めの夕食を共にした。
食後、ソファでゴロゴロと寛ぐ彼女に、お風呂を勧めた。
そのとき、ふとあることが気になったのだ。
転入してきてからこっち、なんやかんやでずっと、春間マリーはわが家にいる。
『ねぇきみ。……そういえば、下着なんかはどうしているの?』
『にゃ? 変えてないよ?』
僕はあっけらかんとした様子の彼女に、頭を抱えた。
「下着、買ってきたから、ここに置いておくよー」
お風呂場に声をかけて、コンビニで買ってきた使い捨てのショーツを脱衣所に置いた。
お風呂場から「はーい」という元気な声が返ってくる。
(けど、最近のコンビニって便利なんだなぁ)
これは今日初めて知ったのだけれど、いまどきのコンビニでは紙で出来た、使い捨てのショーツなんてものまで売られているのだ。
コンビニへと足を運んだ僕は、日用品の陳列棚に目を向けて女性用の下着や靴下を探した。
挙動不審になりながら、キョロキョロと辺りを見回す姿は、はたから見るとさぞかし変質者チックに映ったことだろう。
顔を赤くして小さくなりながら陳列棚に下着を探す。
そうして見つけた紙のショーツを手に取り、勇気を出してレジに並んだのだけれども、……運が悪いことにレジの店員さんは女性の方だった。
僅かな逡巡。
もう諦めて帰ってしまおうか。
いや、それでは折角ここまでやって来た甲斐がない。
覚悟を決めて、俯いたままその女性用下着を差し出したのだった。
「あぁ、恥ずかしかったなぁ……」
そのときのことを思い返して赤くなった顔を手で扇ぐ。
とにかく買うべきものは買えたのだから、コンビニでのことはもう忘れてしまおう。
長々と回想に耽りながら、下着を届け終えた僕が脱衣所から出て行こうとしたとき、浴室へと続く扉がガチャッと音を立てて開かれた。
「おかえりなさい。新しい下着ってどれー?」
「――ッ!? き、きき、きみッ!?」
思わす慌てふためいた。
目の前に一糸纏わぬ姿の春間マリーが、艶めく髪に水滴を滴らせながら現れたのだ。
彼女は先ほどの僕みたいに、火照った体を手で扇いでいる。
頰を上気させるお風呂上りの彼女の姿は、何とも艶めかしい。
見てはいけないと思いながら、その霰ない姿から目を背けることが出来ない。
彼女は固まったままの僕なんて気にも止めずに、普段と変わらない軽い調子だ。
「うに? どうしたの、テル? 固まっちゃって? それで、下着ってどれー?」
止まっていた僕の時間が動き出す。
反射的にバッと彼女から目をそらした。
「ととッ、と、とにかく! お風呂場に戻って!」
目を閉じながら彼女の背を押してお風呂場に戻した。
彼女は何が何だかわからないと不思議な表情をして、背を押されるままにお風呂場へと戻っていく。
浴室の扉を閉めて背中を向けた。
「……えっと、もう私、お風呂から上がろうかなぁって思うの。結構長く入っていたのよ? でもまだ入ってないとダメかな?」
少し戸惑った声色だ。
そこで彼女はふとあることに気が付いた。
「あっ!? そっか! もしかして、テルも今から一緒にお風呂に入るの?」
なにかとんでもないことを言っている。
「えへへ。早くテルもおいでー。じゃないと私、のぼせちゃうよー」
「……な、なな、な!ッ?」
陽気な声でお風呂場へと誘ってくる。
心臓がバクバクと鳴りだした。
「い、いい、一緒になんて、入るわけがないじゃないか! と、とにかく下着はここに置いておくから!」
もう耳まで真っ赤だ。
トマトみたいに赤くなった僕は、お風呂場に彼女を残して脱衣所を飛び出した。
そのままリビングへと戻った僕の手のひらには、彼女を浴室に押し戻したときの、直接その背に触れた暖かさが、まだじんわりと残っていた。
翌日、僕たちは連れだって、近所のファッションセンターへと買い物に赴いた。
彼女の洋服やその他の諸々を購入するためだ。
彼女は、パジャマで眠るとき以外は、ずっと学校の制服を着ていた。
チェック地のベストとスカートに身を包んだ彼女の制服姿は、とても可愛らしい。
けれども、さすがにこれからもずっと、その制服1着という訳にもいくまい。
僕からウチに来るかと彼女を誘った手前もあるし、そういう訳で、何着か、しばらく過ごせるだけの洋服なんかを見繕いにやって来たのだ。
「ねぇきみ。僕は女子の洋服のことはよく分からないから、好きなのを選んでよ」
僕に服を選ぶセンスはない。
だから最初から洋服選びへの参加を放棄して、彼女に一任する。
ところでこのファッションセンターは、正直そこまで小洒落たお店という訳ではない。
例えば、昨日デートをしたショッピングモールに店を構える、お値段のお高いブランドショップなんかとは比ぶべくもない。
けれどもそこはもう我慢して貰おう。
僕にもご予算の都合というものがあるのだ。
「ね、ね、テル。これなんて、どうかな?」
試着室のカーテンがしゃっと開いた。
中から真新しい洋服に身を包んだ彼女が、ピョンと小さく跳んで出てきた。
制服ではない、初めてみる私服姿の春間マリーが僕に微笑みかける。
彼女が選んだのは膝丈の白のワンピース。
端にレースが施された綺麗なAラインのワンピースだ。
その春らしい1着に着替えた彼女が、目の前でクルリと体を一回転させた。
彼女の動きに合わせて、ワンピースの裾がフワリと宙に舞う。
(……う、うわぁ)
あまりもの愛らしい姿に、返事をするのも忘れて、魅入ってしまう。
彼女は少し前かがみになって、後ろ手に手を組みながら、ヒマワリのような眩しい笑顔で僕の顔を下から覗き込んだ。
「ね? 私、おかしくない?」
上目遣いの彼女と目が合った。
僕は言葉を失ったままだ。
「お、おい。見てみろよ、あの子」
「凄く可愛いわねぇ……。モデルの子か何かかしら?」
周囲から足を止めた買い物客の話声が聞こえる。
みんな一様に彼女の姿に見惚れているみたいだ。
そりゃあそうだろう。
だってこんなに可愛らしいひとは、僕もこれまで見たことがない。
「――はッ! い、いいと思うよ! うん」
やっと我に返って、慌てて返事をした。
「えへへー。ほんと? 似合ってる? 私、可愛いかな?」
「ほ、ほんと。似合ってる。……うん、か、可愛い」
たじたじになってしまった僕は、彼女の言葉にオウム返しをするのがやっとだった。
「お茶碗と、お箸はこれでオーケー。……後は、歯ブラシっと」
ぶつぶつと口に出しながら、日用品を次々と買い物カゴに放り込んでいく。
洋服を買い終えた僕らは、次は近くのスーパーまでやって来ていた。
隣には、買ったばかりのワンピースを着た春間マリーが、何かの歌を口ずさみながら軽い足取りで並んでいる。
「ららららー。ふふふふーん」
「これで日用品は大体揃ったかな。じゃあ次は、晩御飯の材料を見に行こうか」
「ごはん! おいしいの食べたいの!」
カートを引いて、食材コーナーへと移動した。
「ね、ね、テル。これ、なぁに?」
手に取った商品を突き出してくる。
それはオイルサーディンだ。
なかでもこのオイルサーディンは、イワシをオイルに漬け込む前にしっかりと燻製してあるから、燻製していない普通のものと比べて香りも味わいも良い。
実はひそかに僕もお気に入りの商品なのだ。
「それはね、燻製オイルサーディンだよ。結構いけるやつ」
「燻製オイルサーディン?」
「うん。イワシのオイル漬けなんだけど……あ、そうだ。家にまだ、パスタが結構残ってるね。
今日の晩御飯はそのオイルサーディンでパスタをつくろうか。炒めたキャベツもたっぷり入れたおいしいやつ」
「お魚の料理ね! うん、たのしみなの!」
オイルサーディンの瓶をかごに放り込んでから、腕に抱きついてくる。
彼女とくっついたまま買い物を続ける僕は、とびきりおいしいパスタを作ってやるんだと、心の中で息巻いた。
「テルー。お皿、水に浸けておくね」
「ん、お願い」
食後。
ソファに座って、テレビを見ながらまったりと寛いでいる。
いま観ている番組は、ツリーハウス職人たちが、四苦八苦しながら、樹上に家を作り上げ、顧客に届けるまでを取材したバラエティ番組だ。
アメリカで製作されているこの番組は、出演者の驚きや喜びの表現が、一々大袈裟で面白い。
ゆったりとソファに腰を沈め、のんびりとテレビ画面を眺める。
そうして食休みをしていると、食器を流し台の水に浸けた彼女が、僕の元までやってきた。
「ね、ね、なにを観ているの?」
尋ねるなり彼女は、ソファに寝そべって、その頭を膝に預けてきた。
「アメリカのバラエティ番組だよ。……って、本当にきみは、膝枕が好きだねぇ」
「うん。大好き。だって、テルのお膝ってあったかいんだぁ」
彼女は膝に頭を預けたまま、視線を上げた。
僕は少し苦笑をしてから、「えへへ」と笑う彼女の顔に視線を落とす。
「晩御飯は、おいしかった?」
「うん! とっても! また食べたいなぁ」
「そっか、良かったよ。オイルサーディンはまだ残っているから、また今度作ろうね」
彼女は「やったぁ」と嬉しそうに声を上げてから、僕の膝に顔をうずめた。
会話が途絶えた。
膝にはゴロゴロと喉を鳴らす、猫みたいな少女。
テレビ画面のなかでは、職人らしいアメリカ人の大男が、熱心にツリーハウスの魅力を語っている。
吹き替えのその音声に紛れて、リビングの壁掛け時計から、秒針がチクタクと動く小さな音が耳を掠めていく。
時間の流れがやけに穏やかだ。
いつもは黙っていると、実際以上に広く冷たく感じるこの部屋に、いま僕は、まったく寂しさを感じない。
ソファに深く腰を掛け、テレビを観ながら、なんとなしに膝に頭を預ける彼女の髪を撫で付けた。
白猫のマリーを撫でつけていたような、柔らかな手付きで。
「うにゃ」
「あ、ごめん」
慌てて手を引っ込める。
彼女が膝に埋めていた顔を上げた。
「いいのよ? もっと撫でて」
彼女は僕に頭を向け、淡い栗色の髪を差し出してくる。
「……えっと」
おずおずと手を差し出した。
そして僕は、白猫のマリーを撫でるような優しい手つきで、そっと彼女の髪を撫でた。
彼女は心から幸せそうな微笑みを僕に向けた。