6 春間マリーと穏やかなとき
「きみね、どうしてクラスで、あんなことを言ったの?」
学校からの帰宅後、何故かいまだに僕に付き纏う転入生の春間マリーに尋ねた。
「んな? 何のはなし? あんなことってどんなこと?」
目の前の彼女は可愛らしく小首を傾げる。
「ッ、えっと、それはね……」
その仕草にドキリとして、思わず声を詰まらせた。
彼女はなにが楽しいのか、機嫌の良さそうな表情で、ドギマギする僕の顔を覗き込んできた。
思わず顔が赤くなってしまう。
そんな綺麗な顔をこんなに近付けられたら、……困る。
「ねえ、ねえ、テル。何のお話し? ちゃんと最後まで言ってくれないと、分からないよ」
照れ隠しに、こほんと小さく咳払いをしてから、気持ちを落ち着けた。
「なにって、昼間の話さ。きみ、クラスで言っただろ? 僕のことを、きみの、……か、飼い主だ、なんて……」
本当になんてことを言いだすのだろう。
彼女は「ああ」と肯いて、ポンと手を打つ。
「なんだ、そのこと? どうして何も、私は本当のことを言っただけなのよ。テル、私のことを飼ってくれてるじゃない。ご飯を食べさせてくれたり、寝床を与えてくれたり。私、いっつも幸せなんだから!」
そう言い切る前にもう、彼女は僕の腕に絡みつき、喉をゴロゴロと鳴らし始めていた。
何というか本当に幸せいっぱいという表情だ。
僕が黙っていると彼女はますます密着してきて、オデコを肩にグリグリと押し付け始める。
「……いやご飯とか寝床って。それはきみが、強引に家に押しかけて来るから用意してるんであって、好きでそうしてるわけじゃないんだけれど……」
腕に絡みついた彼女を引き離し、少しばかり呆れた顔を向けた。
春間マリー。
新雪のように白い肌と、人の目を惹きつけて止まない美しさをもった、転入生の少女。
彼女は昨晩に続けて結局今日も、僕の家に泊まることになった。
終業のチャイムが鳴り、彼女を中心に賑わい始める放課後の教室を、今日も僕はカバンを掴んで、ひとり足早に立ち去ろうとした。
けれどもやはりまた、校門付近に差し掛かった頃に、遠くからの声に呼び止められたのだ。
「待って、テル! 一緒にかえろうよ!」
振り返ると、彼女が満面の笑みを浮かべていた。
僕はエプロンをして晩ご飯を作っている。
夕飯のメニューは、海老とキノコのアヒージョだ。
キッチンに立ち、黙々と海老の背わたを抜いていく。
「ね、ね、テル。それは何をしてるの?」
彼女がすぐ後ろまでやって来て、背中越しに料理をする手元を覗いてきた。
興味津々な表情で爛々と瞳を輝かせている。
肩越しに漂ってくる彼女の香りに鼻腔をくすぐられる。
健康的なお日様の匂いだ。
でもなんだか、その香りは少しだけ甘い。
胸をドキリとさせながらも、料理する手元に視線を落とした。
「海老の背わた抜きだよ。今晩はアヒージョを作ろうと思うんだけど、海老はこうやって、ちゃんと処理してやらないと、食べたときにシャリシャリとして、食感が悪くなるんだよ」
「へぇー、テルは物知りだよねぇ」
彼女は料理をする僕の肩に、コテンと頭を乗せた。
「さ、どうぞ。召し上がれ」
「うわぁ、おいしそうなの! 頂きまぁす!」
お腹を空かせた彼女が、早速アヒージョに手を伸ばしてパクっと頬張った。
「あちッ」
「っと、大丈夫? 油は熱いから注意しないと」
「あひぃ……。わかったー」
ヒィヒィと舌を出しながら元気よく返事をして、彼女は再びアヒージョに手を伸ばす。
クルンと丸まって湯気を立てる、鮮やかな赤い海老を摘み上げた。
ふうふうして、パクッと口に放り込む。
もぐもぐと口を動かして「んにゃあ」と蕩けてしまいそうな表情で頰を押さえた。
おいしそうに晩ご飯を食べる彼女を一頻り眺めたあと、僕もホカホカと湯気を立てる熱々のアヒージョに手を付ける。
(……うん、おいしい)
海老もキノコも、プリッとした食感だ。
海老なんかは煮詰め過ぎると、身がボソボソになっておいしくなくなるのだけれど、今回は上手に作れたようだ。味付けもうまくいっている。
このアヒージョの味付けのベースは、店売りのアヒージョの素だ。
けれどもそこにひと手間加えて、剥きアサリを鍋の底に沈めて炊いた。
こうすると店売りの簡素な味付けにも貝の良い出汁が加わって、ちょっとお味に深みが出るのだ。
「あ、きみ。それはスライスしたニンニクだから、食べない方がいいよ」
「はーい」
香りづけのニンニクを、直接食べようとした彼女に注意を促す。
まあ匂いさえ気にしなければ、食べちゃってもおいしいんだけど、女の子だしね。
「あ、あとね。このバゲットを、アヒージョのスープに浸してから食べると、おいしいんだ」
「そうなの? やってみる!」
作ったばかりの晩ご飯を、幸せそうに頬張る様子を眺める。
彼女と食べる夕飯は、いつものひとりで食べる夕飯よりも、何だかとてもおいしく感じられた。
食後、僕はソファに並んで腰をかけて、テレビを観ていた。
画面に流れている番組は、日本の津々浦々を訪れる旅番組だ。
テレビのなかでは、芸能人の男女が、旅館の女将さんに給仕されながら、豪華な料理を満喫している。
「ね、ね、テル。なに観てるの?」
春間マリーが、僕の膝に寝そべってきた。
「ちょ、ちょっと。そんな、くっ付かないでよ」
彼女を膝からおろして、ソファの端に寄る。
ふたりの間に隙間が生まれた。彼女はそんな僕の態度に、膨れっ面をする。
「もう、テルったら冷たいのね。ちょっとくらい、お膝に乗せてくれてもいいじゃない」
「ちょっとくらいって、きみねぇ……」
まったくもう、警戒心がないんだから……。
小さく嘆息する。
「あんまりそうやって、男子にベタベタ引っ付くもんじゃないよ。僕はそういうの勘違いしないほうだけど、クラスの男子なんかは、ホント直ぐに勘違いするんだからね」
「……うにゃ? 私、クラスの男の子に、引っ付いたりなんてしないよ?」
「いや、でも実際、こうやって引っ付いて来ているじゃないか、僕に」
キョトンとする彼女に、呆れた顔を向ける。
「それは、テルだからだよ。テルに引っ付いてるとね。何だか私、ぽわぽわってなって、幸せな気持ちになるんだぁ。えへへ」
臆面もなく話しながら、彼女は相好を崩す。
本当に幸せそうな笑顔だ。
彼女の態度に赤面して、誤魔化すように顔をテレビに向けた。
画面は芸能人の旅案内人が、旅館の温泉に浸かるシーンに切り替わっていた。
「あ、広いお風呂なのね。そういえば、昨日のお湯は熱かったねぇ」
ソファに寝そべった彼女がにじり寄ってきた。
ちょこんと頭を乗せて僕の膝を枕にする。
でも彼女が急に変なことを言い出したものだから、昨日お風呂から飛び出して来た霰ない姿を思い出してしまって、今度は彼女を膝から降ろすのを忘れてしまった。
「……いつか、私もテルと一緒に、こういう所に行けたらいいのにな」
彼女が小さく呟く。
顔を赤くしてそっぽを向いた僕は、そんな寂しげな呟きを聞き落とした。
「今日はちゃんと、こっちのベッドで眠るんだよ」
春間マリーの手を引いて、母が使っていたベッドまで連れてきた。
「うにゃ? うー、私はテルと一緒がいいなぁ」
「……ダ、ダメだよ。だって、は、恥ずかしいじゃないか」
「恥ずかしいことなんて、何もないじゃない! ふたりで引っ付いて寝るとね、あったかくて、幸せなんだから」
彼女が柔らかく微笑んだ。
この少女は本当によく笑顔が似合う。
真っ直ぐに僕を見つめて微笑む彼女の綺麗な瞳に、僕は吸い込まれてしまいそうになる。
純真無垢なその瞳を覗き込んでいると、こちらが間違っているような気持ちが湧いてくる。
何だかひとりで意固地になっていることが、馬鹿らしくなってしまった。
「ね? テル、いつもみたいに一緒に寝よ?」
「……きみの、好きにすると、いいよ」
顔を背けながら、途切れ途切れに応えるのが精いっぱいだった。
背後でもぞもぞと、彼女が動く気配がする。
結局ふたり一緒に僕のベッドで眠ることになった。
また彼女に押し切られた形だ。
(僕ってこんなに、押しに弱いタイプだったかなぁ)
でも不思議と悪い気はしない。
むしろこんな風に僕を巻き込んで、強引に物事を進めてしまう彼女に、なんだか懐かしさというか、胸が暖かくなるような気持ちを覚える。
彼女に背を向けて横になった。
そんな僕の背後から、シーツを擦るさらさらとした音が耳を掠めてくる。
「……ね、テル」
彼女がこちらを向いて甘えた声だす。
それでも僕は背中を向けたままだ。
「……どうしたの?」
「ん、と、……ね? 引っ付いていい?」
頭が真っ白になってしまう。
こういうとき、何て応えればいいのだろう。
頭の中がぐるぐるしてしまって、考えが纏まらない。
「……好きなように、……すると、いいよ」
掠れた声でそう応えた。
背後で、彼女が喜ぶ気配がする。
彼女はいそいそと体を動かして、背中にピッタリと張り付いてきた。
背中越しに温かな体温が伝わってくる。
少し高めの体温だ。
「んにゃあ、幸せだぁ」
彼女はゴロゴロと喉を鳴らす猫みたいで、本当に幸せそうだ。
そんな様子に何て返せばいいかわからないものだから、遂には僕は言葉を失って押し黙ってしまった。
肩越しに彼女の息遣いが聞こえてくる。
心臓の鼓動がやけに大きく耳を打つ。
(う、ううぅ……)
正直、いっぱいいっぱいだ。
唸る僕の背中にぴとっと密着する。
彼女はまだ眠ろうとはしない。
「ねえ、テル。明日学校は、お休みなのよね? テルはなにをして過ごすの?」
「え、えっと明日? うん、明日ってなんだっけ!? えっと、うん、と。特に予定は……」
もう完全に支離滅裂だ。
「えっと、ど、読書でもしながら、ゆっくりと過ご――」
「あっ! そうだ!」
言葉を遮られる。
彼女が急に大きな声をあげた。
僕の背中から離れて、体を起こす。
どうしたのだろう?
彼女の顔を見上げた。
そうすると、ウキウキと楽しげな笑顔が飛び込んできた。
「だったら、ねえ、テル! 明日は私と、街でデートをしようよ!」
朗らかに微笑む彼女。
その笑顔に、たとえ断ったとしてもきっと明日はデートをすることになるのだろうと、僕はひっそり少しの期待に胸を弾ませた。