5 春間マリーと白猫マリー
私の最初の記憶。
それは、むずかる私を優しくあやす、大きな、とても大きな手のひら。
その手のひらは、ニャーニャーとむずかる私が鳴き止むまで、優しく、とても優しく、頭を何度も何度も撫ぜてくれた。
私はそんな慈愛に満ちた手のひらに、自分がどうしてむずかっていたのかなんて忘れてしまって、こくりこくりとその場で舟をこぎ始めた。
そうすると、その大きな手のひらは、うつらうつらと頭を揺らす私をそっと包み込んで、暖かな寝床まで、壊れ物を扱うみたいな柔らかさで運んでくれた。
次の記憶は、お腹がすいて目を覚ましたときのもの。
私はお母さんのお乳を、「ニャーニャー」と鳴いて探し回ったのだけれども、結局どこにも見つけることは出来なかった。
落胆した私は、ひもじい思いを隠そうともせずに、「みいみい」と鳴いていたのだけれど、そうすると、べそをかく私に、大きくて優しいあの手のひらが近づいて来て、おいしくて柔らかな食べ物を与えてくれた。
私は夢中になって、差し出された柔らかい食べ物を食べたのだけど、私がその食べ物を食べている間中、その手のひらはずっと、喉を詰まらせないようにとずっと、背中を撫ぜてくれていた。
優しく、優しく、撫ぜ続けてくれていた。
いくらかのときが過ぎ、私のお目々もパッチリと開いた頃、私はお部屋のなかの広い世界をあちらこちらと、自由自在に駆け回ることが出来るようになった。
そうして知ったのだ。
私を守り、慈しみ、包み込む、あの大きくて優しい手のひら。
その手のひらは『春間テル』という名前の手のひらだっていうことを――
「ほら。こっちにおいで、マリー」
テルは、私のことをマリーと呼んだ。
私は自分の名前がなんていうのかなんて知らなかったけれど、テルが私をマリーと呼ぶのだから、私の名前はマリーなんだって思った。
「ミャー」
テルに呼ばれる度に私はいつも嬉しくなってしまって、『ここにいるよ』と、鳴いてテルの呼ぶ声に応えた。
鳴いてと甘えながら体を擦り付けると、テルは笑って私の頭を撫でてから抱き上げて、春の陽だまりみたいに優しい笑顔を向けてくれた。
私は、そんなテルの笑顔が、大好きだった。
よちよち歩きの仔猫から幾らか成長した私の世界は、たくさんの不思議に満ちていて、とても大きく広がっていた。
私のいる場所には、幾つもの大きな世界があった。
その世界はひとつひとつを『部屋』というらしい。
部屋どうしを繋ぐ扉には、テルが完全にその部屋へと続く道が閉ざされないように、つっかえを用意してくれていた。
おかげで私は、毎日色んな世界を満足いくまで探検し、冒険心を満たすことが出来た。
……ただ、いまにして思えば、私はその冒険心を『家』という部屋よりももっと大きな世界の中だけで、満足させておくべきだったのだろう。
けれど、今更それをいっても仕方のないことではある。
私はどんな世界を冒険したとしても、最後に帰って眠る場所は、テルのベッドのなかと決めていた。
だって、テルと一緒に眠るのは暖かくて、テルが私を胸に抱いてくれると、何とも言えない幸せな気持ちになって、ゴロゴロと喉を鳴らしてしまうのだから。
大きくなった私は、テルの気を引きたくて、様々な悪戯を仕掛けた。
テルが本を読むのに集中しているときは、その肩を叩いて読書の邪魔をしてやったし、勉強をしているときは、手にパンチを飛ばしてやって、ペンを叩き落としたりしてやった。
うまく悪戯が成功したときなんかは、ふふんと誇らしい気持ちにすらなった。
いまにして思えば、大層テルに迷惑を掛けていたのだろうと思う。
でもテルは、そんな悪い私を叱りつけもせずに、「困った奴だなあ、マリーは」なんて優しい笑顔を浮かべて、昔より小さくなった手のひらで、私の頭を優しく、優しく撫ぜるのだ。
でもね。
テルだって、優しいばかりじゃないのよ?
ある日、部屋に入ってきたテルの胸にタンスの上から飛び込む悪戯を仕掛けたら、テルったら私のことを受け止めようともせず、すっと身体を逸らして、飛び込む私を避けたことがあるの!
テルに避けられた私は、そのまま床にベチャッと落ちてしまったものだから、もう、びっくりしちゃって、テルに「ニャーッ」って鳴きながら抗議するのも忘れて、唖然とした顔をしてしまったの。
そしたらテルったら茫然とする私を見て、「あはは」なんて声を上げて笑いだしたんだから!
でもね。ちょっとムッとした私だったんだけど、楽しそうにお腹を抱えるテルの笑い声を聞いているうちに、ムッとしたことなんて忘れちゃって、テルと一緒に「ニャニャニャ!」って鳴いて笑っちゃった。
私は生まれてからずっと、テルと一緒に暮らした。
暖かな陽射しの春には、陽気に誘われてうたた寝をしているテルのお膝で、私も丸くなってお昼寝を楽しんだ。
茹だるように暑い夏は、開け放した窓から青い空を見上げて寝転がる私に、隣に座ったテルが団扇で扇いで冷たい風を送ってくれた。
秋の夜長には、テルが私のことを放ったらかしにして、夜更かしをしながら本を読むものだから、テルの邪魔をしてやるんだと、開かれた本の上に腰を下ろしてやった。
凍えるような寒い冬には、身を丸めて小さくなる私を、テルが胸に抱いて暖めてくれた。
テルの温もりに包まれた私は、身体だけじゃなくて、心までぽかぽかと暖かくなった。
私はいつも大好きなテルに寄り添って毎日を過ごした。
そんな幸せな日々が終わりを告げたのは、あの日。
テルの気を引きたくて、隙をついて外へ飛び出したあの日。
……私が車に撥ねられて、死んでしまったあの日。
あの日は、春のポカポカとした陽気が気持ちの良い日だった。
いつもそういう暖かな日には、留守番をする私は、テルの部屋の出窓で降り注ぐ陽射しを楽しんでいて、あの日もそうして、日向ぼっこをしながら窓の外を眺めていた。
そうやって何とはなしに、窓の外に意識を向けていると、テルの帰ってくる足音が遠くから聞こえてきた。
今日もテルが帰ってきたと喜び勇んで、私は玄関の内側まで急いで走っていって、お帰りなさいを伝える準備をしていたのだけれど、テルが玄関の鍵を開けようとするのと同時に、家の据付の電話がプルルと大きな音で鳴り響いたのだ。
テルは慌てて扉を開け放ち、私のお帰りなさいの「ニャー」も無視して、けたたましく鳴る電話の受話器を取り上げた。
テルにぞんざいに扱われた私は、ムッとなった。
そうして、少しテルを困らせてやれと、開かれたままの扉から、表に向かって勢いよく飛び出したのだ。
飛び出した私に向かって、私の何倍も、何十倍も大きな鉄の塊がぶつかってきた。
家の中からテルの「あっ」と言う声が聞こえたと思ったら、そこで私の意識は途絶えた。
次に意識を取り戻したとき、目の前には私の身体が横たわっていた。
直感的に理解した。
これは私の遺体だ。
私はすでに、死んでしまっているのだ、と。
遺体の周りに目をやると、暗闇のなかでテルが、いまにも消えてしまいそうな何の感情も読み取れない表情で佇んでいた。
テルは掠れた声を絞り出して、私の遺体に触れた。
「……マリー。僕はマリーが死んだのに、涙も出て来ないんだよ」
私は必死になってテルの言葉に応えた。
ううん、テル、泣いてるじゃない!
私にはわかるよ!
「もしかすると、僕は薄情なのかも知れないね」
何度も何度も、必死に言葉を届けようと叫んだ。
そんな訳ないじゃない!
テルが優しい人だって、世界中の誰より私が知ってるんだから!
「ねぇ、マリー。応えてよ、いつもみたいに、……ニャーッ……、て……」
テル!
テルッ!
私はここにいるよ!
あなたのマリーはここにいるんだよ!
どんなに叫んでも私の声は、テルに届くことはなかった。
私は死んでしまったあの日から、ずっと、テルのそばにいた。
あんなに優しかったテルは、見る影もなくなり、日に日に生気を失っていった。
ガランとして虚ろな大きな家に、再びテルはひとりポツンと取り残されていた。
私は、繰り返し、繰り返し、テルに話しかけた。
けれどどんなに叫んでも声は届かず、……暫くして、テルは笑わなくなった。
私は祈った。
何に祈ればよいのかなんて分からなかったけれど、とにかく必死に祈った。
(テルを、テルをどうか。どうか――)
毎日、毎日、真摯に祈り続けた。
あるとき、ふと自分が何か不思議な空間にいることに気付いた。
私の眼前、遥か遠くから、「ニャー」と呼ぶ声が聞こえてくる。
声のするほうに耳を傾け、目を凝らすと、遠くに黒い仔猫と銀色の仔猫、それと2匹の母親と思わしき猫の姿が見えた。
私にはわかる。
あの猫たちは、お母さんと兄弟たちだと。
お母さんたちが、私を呼んだ。
けれども私は、その呼びかけにゆっくりと首を左右に振った。
お母さんたちは名残惜しそうに、暫くの間、私を見つめていた。
少しの時間が過ぎ、お母さんたちは「ニャー」と鳴いてから私に背を向けた。
そうしてお母さんは、空にいる何か大きなものと話をして、私のことを最後に少し眺めてから、歩き去っていった。
みんなが立ち去っていくのを見送ったあと、お母さんが話をしていたものを見上げた。
そこに在ったものは巨大な渦を巻く何かだ。
正直私なんかにはよく分からないのだけど、あの空の大きなものが、もしかすると神様だったりするのかな?
私はその渦に祈った。
どうか、お願いします。
テルを、テルをお救いください。
次に気が付いたとき、私は学校の職員室にいた。
この場所は知っている。
死んだあとも、テルにくっついて毎日学校にやってきていたのだ。
何となしに自分の手足を眺めた。
そこにはこれまで慣れ親しんだ猫の手足はなく、代わりにテルのような人間の手足があった。
「……え、えっと、これは一体……?」
呟く唇からこぼれた声は猫の鳴き声ではなかった。
自分自身が発した言葉に、テルと同じ人の言葉に驚く。
それを皮切りに、濁流のようにあらゆる知識が頭のなかに流れ込んできた。
猫だった頃には持ち得ていなかった知性。
人としての常識。
知らなかった感情。
押し寄せる情報の奔流に流されまいと、気を張って意識を繋ぎ止めているさなか、目の前の男性が、私の名前を呼んだ。
「――キミ、春間さん。春間マリーさん」
男性に生返事を返しながら、まるで思い出すように唐突に理解した。
私の名前は、春間マリー。
私はひとになった。白猫だった私が、テルと同じ、ひとに、だ。
私は理解し、喜び勇んだ。
これなら!
これなら私の言葉を、想いを、テルに届けることが出来る。
悲しみに沈んだテルの心を救うことが出来る。
もう1度あのひとに会える。
いまから私は、いまからテルに、私の大好きなあのひとに会いに行くことが出来るのだ!
……けれど、私はまた、同じように理解していた。
いまの私は、神様の気まぐれが起こした、ほんの一時の奇跡。
いま。
こうしているこの瞬間ですら、不可逆な砂時計の砂のように、私のなかから残った時間がサラサラとこぼれ落ちているのだ、ということを。
私は、強く、強く、胸に誓う。
残る時間の全てを使って、テルに笑顔を取り戻すことを。
いまこそテルに。
猫だった私からの。
テルが愛してくれた私からの。
心からの恩返しを――
「こら、お前ら静かにしなさい。さ、君。こっちで自己紹介をしなさい」
教壇から私を呼び寄せる担任の声に、「はい!」と元気よく返事をする。
そうしてピンと背筋を伸ばして、朝のホームルームに賑わう教室への扉をくぐる。
教室に入った私の目に、飛び込んでくるひとの姿。
たくさんの生徒たちに紛れても、私の目を惹きつけて離さないあのひとの姿。
窓際の一番後ろの席。
そこで表情をなくし、虚ろな瞳で外を眺めるひとりの少年の姿が網膜に飛び込んでくる。
……テル。
…………テルッ!
湧き上がる感情を胸に抑えこみ、脇目も振らず、テルの元へと歩き出す。
――カツ、カツ、カツ
踵を鳴らしながら歩く。
私の歩みは、教壇を過ぎても止まらない。
担任の先生が、生徒のみんなが、戸惑いはじめる。
――カツ、カツ、カツ
一直線にテルの元へ。
教室の隅の、私の大好きな、何よりも、誰よりも愛おしいテルの元へと向かう。
――カツ、カツ、カツ
テルが、近づく私に気付いて、こちらに顔を向けた。
少し呆けた顔をした、私の最愛のひと。
テルの前に立ち止まり、真っ直ぐにその瞳を見つめながら、初めての言葉を投げかける。
「私はマリー。春間マリー」
テルの虚ろだった瞳が、大きく見開かれる。
そんなテルの姿を真っ直ぐに見据え、精いっぱいの笑顔で、高らかに声を響かせた。
「ねえ、テル! 私とね、私と、恋をしようよ!」