表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
猫の恩返し  作者: 猫正宗
18/19

18 春間マリーと春の終わり

 コンロにかけたお鍋が、ことことと音を立てている。


 くつくつと煮えた白がゆに、溶いた卵を回し入れてから味を整える。

 最後に刻みネギを振ろうとして、ふと思い付いた。


「マリーはきっと、青ネギより、鰹節の方が好みだよね」


 急遽レシピを変更して、刻みネギのかわりに削り節を料理に散らす。


「よし、朝ご飯のたまご粥、出来上がり、と」


 お粥に乗せた鰹節が熱で踊っている。

 匙でひと掬いして味を確かめる。

 うん、いい出来だ。


 ベッドで眠るマリーの元へと朝ご飯を運ぶ。

 冷めないうちに持って行ってあげたい。


「マリー、入るよー」


 声をかけて、自室のドアを開いた。


「……なんだ。起きてたんだ」


 彼女はベッドで上体を起こして、ヘッドボードに背をもたれ掛けていた。

 窓からぼんやりと外を眺めている。


 ゴールデンウィーク。

 連休明けの月曜の朝。

 マリーはもう、ひとりでは立ち上がることすら出来なくなっていた。


 あんなに動き回るのが大好きだった彼女が、いまやもう、見る影もない。

 彼女のすぐ側、ベッドの脇に座って、サイドテーブルにたまご粥を乗せたお盆を配膳する。


「さ、マリー。お粥を作ってきたよ」


 たまご粥をひと口ぶんほど匙に掬い、彼女へと差し出した。


 マリーは猫舌だし少し熱いかも知れない。

 火傷をしないようにふぅふぅして粗熱をとる。


「ごめんなさい、テル。私、何だか食欲がわかないんだ」

「……うん、いいよ。なら食べたくなったら言ってね。温め直すから」


 お粥に匙を戻す。


「ね、テル。学校は?」


 窓から景色を眺めていた彼女が、顔をこちらに向ける。

 僕は彼女に微笑みかけた。


「休もうかな、と思って」

「……いいの?」

「いいんだよ、今日くらい」

「……うん」


 それきり僕とマリーの会話は途絶えた。




 ちゅんちゅんとスズメのさえずりが聞こえてくる。


 窓の外。

 平日遅めの朝の住宅街には、騒然とした雰囲気はない。


 時々、通りがかったご近所さんの話し声が、わずかに聞こえてくる程度だ。


「もう、出歩けなくなっちゃったね」


 彼女がポツリと呟いた。

 殊更に陽気な口調で、彼女の小さな呟きに応える。


「うん。でも、家でも、楽しいことはあるよ!」


 家のなかで、動かなくても楽しめることというと……。

 少し考えてみる。


「そうだ、居間で一緒にテレビでも見ようか? ソファまで運ぶよ。まだ観ていない番組を、いくつか録画してるんだ」

「んーん。テレビはいいや」


 彼女はゆるゆると、首を横に振った。

 ならと、続けて提案をする。


「だったら、ボードゲームでもどう? ガイスターとか。良いオバケと悪いオバケの駒を、秘密にしながら取り合うやつ。マリー、あれ得意だったでしょ?」


 彼女が思案する様子をみせた。

 あごに指を当て、形の良い眉を寄せて「むむむ」と唸る。


「うん、それなら出来そうだね。テル、ゲームして遊ぼっか」

「うん! よしきた」


 ベッド脇から立ち上がり、クローゼットの隅にしまってあるボードゲームを取って戻ってきた。

 シーツにゲーム盤を広げ、オバケの駒をマリーに手渡す。

 彼女は受け取った駒をなんだか楽しそうな様子で並べていく。


「えへへ。私ね、このゲーム、テルより強いんだよねぇ」

「いまのところはね。まだ負け越しているけど、僕だって少しずつ上手くなってきたでしょ」

「ふふん。まだまだ、だけどね!」


 楽しそうに微笑みかけてくる。

 なんだかその笑顔が、僕には随分と久しぶりのように思えた。




 僕たちは、ゲームを楽しんでいる。


 今回の勝負もやっぱり、彼女のほうが僕よりも強かった。

 彼女が、オバケの駒を持ち上げた。


「えへへ。このオバケで、テルのオバケを取っちゃえば、また私の勝ちねー」


 いわゆる詰みの状態だ。

 どうやらまた僕の負けらしい。


 彼女は指で摘んだ駒を動かそうとする。

 そしてその駒をポロリと落っことした。


「……あれ?」


 彼女は小さく首を傾げながら、もう一度駒を摘み上げようとする。

 けれどもふたたび、その駒をポロリと取り落としてしまった。


 彼女は指の隙間から転げ落ちた駒を見つめて、そっと手を下ろす。

 僕はそんな彼女を静かに見つめる。


 マリーが力無く笑った。


「……あはは。もう、駒も持てなくなっちゃったね」


 無言で彼女の駒を拾い上げた。

 そしてその駒で、僕の駒をひとつ取る。


 彼女はそんな僕の行動を何も言わずに見守っている。

 僕は彼女に微笑みかけた。


「さ、これで今回のゲームはマリーの勝ちだよ。やっぱりマリーは強いよね」

「……うん」

「じゃあもう1回、ゲームをしようか」

「でも、私。もう、駒を持てないよ」

「大丈夫だよ。僕がマリーの代わりに、駒を動かすから」


 明るく話す僕に、彼女がおかしそうに笑いかけた。


「ふふふ。そうしたら、どの駒が良いオバケで、どの駒が悪いオバケか、全部、テル、わかっちゃうじゃない」


 儚く笑うマリーに、殊更に僕は、陽気な声を張り上げた。


「大丈夫さ! こうやって……、こうやって、目を瞑りながら駒を動かすから!」


 声が震える。

 奥歯を噛みしめて、ギュッと目を瞑り、上を向いた。


 だって、そうでもしないと、いまにも目から涙が溢れ落ちそうだったから。


 こんなときに泣き顔をみせて、マリーを不安にさせたくなどない。

 彼女は僕の様子を、穏やかな瞳で見守っていた。


「ね、ね、テル。あれやって。『恋人座り』」

「いいけど、膝枕じゃなくていいの?」

「うん、いいの」


 マリーのお願いを叶えるため、ベッドに上がる。

 ヘッドボードにもたれ懸かり、彼女をすっぽりと胸に抱いた。

 彼女は力の入らない身体を、僕に預けてくる。


「やっぱり、膝枕より、こっちのほうが暖かいね」

「うん、そうだね」


 ふたりして無言のまま、お互いの温もりを感じ合う。

 彼女の優しい温もりが、胸から体中に伝わってくる。


 マリーの手を取った。

 力の入らない彼女に代わって僕のほうから、繋いだその手をキュッと結ぶ。


 このまま時間が止まってしまえばいいのにと思う。

 けれど時間は誰にも公平で、そして無情だ。

 砂時計の最後の砂が落ちるように、時が過ぎゆく。


 しばらく言葉を交わさずにいた僕たちだったけれども、不意に胸のなかで、彼女がポツリと言葉を漏らした。


「私ね。幸せだったんだぁ」


 マリーは穏やかな声で、話し続ける。

 僕は黙って耳を傾ける。


「私ね。テルに拾って貰えて、死んだあともこうしてもう一度テルに会えて、私は、本当に幸せだった」


 自然と、彼女を抱いた腕に力が籠もった。


「うん……。僕もだよ。僕はね、マリー。きっと僕はきみにね。一生分の幸せを貰ったって思うんだ」


 マリーが穏やかに微笑みながら、問いかけてくる。

 きっともう、これが最後の問いかけだ。


「ね、テル。私がいなくなっても、もう大丈夫?」

「……うん、大丈夫」

「ホントに? もう笑えなくなったりしない?」

「うん、本当だよ。僕はね。マリーがいなくなっても、きっと笑っているから……。きっともう、笑うことをやめてしまったりなんか、しないから」

「そっかぁ……。なら、安心した」


 彼女は小さく息を吐いてから、僕の胸にしな垂れかかり、そっと瞳を閉じた。




 マリーと僕が身を起こすベッドに、陽の光が差し込む。


 今日の陽射しは暖かい。

 季節は春というには少し遅く、初夏というには少し早い、そんな頃合いだ。

 僕たちはベッドに座りながら、抱き合って、ただお互いの温もりを感じ合う。


 穏やかなときが流れる。

 けれどもそんな柔らかなときは、不意に終わりを告げた。


「ねぇ、テル。そろそろみたい」


 僕は彼女の言葉に「うん」とひと言だけ応えた。

 彼女は、振り返って僕の顔を覗き込みながら、最後のお願いをする。


「ね、テル。笑って?」


 マリーの顔をみた。

 そしてなんとか笑顔を作ろうとする。

 けれども僕は、表情を歪めてしまって、どうにもうまく笑うことが出来ない。

 彼女はそんな僕を、穏やかな微笑みで見つめている。


 途端に僕の瞳から、ボロボロと涙が溢れでた。


 なんとか涙を堪えようとするのだけれども、両目からは僕の意思に反して、堰を切ったかのように次から次へと涙がこぼれ落ちて、一向に収まる気配がない。


 マリーはそんな僕に、少し困った顔で微笑む。

 最後のときにまで、マリーを困らせるなんて、本当に僕はダメなヤツだ。


 涙で歪む視界のなか、瞳に焼き付けるように真っ直ぐにマリーを見つめた。

 マリーを笑顔で送り出すんだ。


 そうして僕は、涙で顔をくしゃくしゃにして、喉を詰まらせ、しゃくり上げながらも、無理やりに笑顔を作って、マリーへと向けた。


 マリーが薄れていく。


 少し困った様子だったマリーが、僕がみせた不器用な笑顔を見つめている。

 そして最後にはその顔に、いつもの花のような笑顔を咲かせてくれた。


 マリーが消えていく。


「ありがとう、テル」


 最後にその言葉を残して、マリーは、春霞が薄れて消えゆくように、僕の前からその姿を消した。


 僕の腕には、マリーを抱いたその温もりだけが、いつまでも消えずに残っていた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ