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猫の恩返し  作者: 猫正宗
17/19

17 春間マリーと終末の兆し

 朝。

 窓から明るい太陽の光が射し込んでくる。


 眩しげに目を細めて窓から顔を背けながら、ゆっくりと目を覚ます。

 なんだか今日はいつにも増して春めいた、ぽかぽかとした日差しで、起きるのがちょっと辛い。


「……ふぁあ」


 大きく欠伸をした。

 ベッドから名残を惜しむ体を起こす。


 背筋を伸ばして「んっ」と声を漏らしながら、伸びをもうひとつ。

 そうして、やっとしっかり目を覚ました僕は、隣でスヤスヤと眠っている美しい少女、僕のマリーに視線を落とした。


「マリー、おはよう」


 朝の挨拶を投げかけるも彼女は反応しない。

 すやすやと寝息を立てたままだ。

 小さく胸を上下させる彼女の寝顔を、穏やかな気持ちで眺める。


 春間マリー。

 僕の、掛け替えのないひと。


 こうしてマリーを眺めているだけで、僕の胸は幸せな気持ちでいっぱいになる。

 眠る彼女を一頻り眺めたあと、もう一度彼女を起こそうとする。


「マリー、朝だよ」


 声を掛けながら指先を伸ばして、ふっくらとした頰をツンツンと指で突っつく。


「……んにゃ」


 ようやく反応が返ってきた。

 けれどもまだ彼女は眠ったままだ。

 一向に起きる気配をみせない。


(……あれ? おかしいな?)


 首を傾げてしまう。

 いつもならこのくらいすれば、とっくに起きている頃なのだけど。

 今度は細い肩を軽く揺すりながら、少しだけ声を大きくして目覚めを促す。


「マリー。朝だよ。おはよう」

「……うに」


 うに?

 雲丹?

 雲丹はおいしいよね。


 変な呟きを漏らしはするものの、マリーはまったく目覚める様子がない。

 小さく丸まって眠るその姿は、まるで年老いた猫のようだ。


「ええと、仕方がないな」


 起こすのを諦めてひとりでベッドから這い出した。


 今日は陽射しが暖かい。

 きっと『春眠暁を覚えず』ってヤツだろう。


 細い寝息を立てながら、気持ち良さそうに眠る彼女をベッドに残して、僕は自室をあとにした。




「……おはよう、テル」


 朝というにはもう、少し遅い時間。

 彼女は挨拶をしながら、リビングへと降りてきた。

 両手を猫の足のように曲げて、まだ眠たそうに目を擦っている。


「おはよう、マリー。今日は随分と、ゆっくり寝ていたんだね」

「うん……。なんだかね、眠くって」

「そっか。この連休はいっぱい遊んだから、疲れが出たのかな?」


 本日はゴールデンウィーク最終日。

 僕たちは初日の温泉旅行を皮切りに、この連休を遊び回って過ごした。

 というよりも、僕が無理を言って彼女を引っ張り回したかたちだ。


 スポーツセンターやテニスコート。

 バッティングセンターにゴルフの打ちっ放し。


 彼女は体を動かすのが大好きだから、そんな場所を中心にたくさん遊んで回った。

 だからこうして、彼女が疲れてしまうのも、不思議はないのかもしれない。

 これは少し反省しないと。


「ごめんね、色々と連れ回しちゃって。じゃあ今日は1日、家でゆっくりする?」


 ブランチになってしまった朝のお味噌汁を温め直す。

 トースターから小麦の焼ける芳ばしい香りが漂ってきた。


 彼女は椅子を引いて座った。

 だけどその動きは緩慢で、どこか気怠そうだ。


「んっと、家でゆっくりするのもいいけど、少し近所を散策したいな……。私ね、テルの暮らしているこの街の風景を、見て廻りたいの」

「うん、そっか。じゃあご飯を食べて少ししたら、出掛けよう」


 焼きあがったトーストを彼女の前に置く。

 本日のブランチはトーストとサラダ。

 それに夕べの残りのお味噌汁だ。


 自分のぶんのご飯を準備してから、彼女と対面になって椅子に座る。


「さ、食べようか。いただきます」

「いただきます」


 こんがり小麦色に焼けたトーストに、アップル果汁の混ぜ込まれたクリームチーズを塗る。

 これは先日輸入雑貨屋さんで、僕とマリーがふたりで選んで買ったものだ。


 このクリームチーズは当たりだった。

 りんごの甘みと酸味が、円やかなチーズの風味に程よくマッチしていて、かなりおいしい。


 彼女も僕に倣って、トーストにクリームチーズを塗りはじめた。

 すっかり馴染みになった、いつもと変わりのない、僕たちの食卓の風景だ。


 けれどもその日は、いつもとは少しだけ違うことがあった。


「……ごちそうさま」


 彼女がテーブルのお皿に、かじり跡のついたトーストを置いた。


「あれ? マリー、もうお腹いっぱいなの?」

「うん……。なんだか、お腹が空いてないの」


 普段と変わらぬいつもの食卓。

 けれどもその日。

 マリーは初めて、食事を食べ切れずに少し残した。




「この公園、テルとバドミントンをした公園ね!」


 はしゃぎながら、公園の中へと駆けていく。

 そんな彼女を小走りで追いかけた。

 追い付くと彼女は、少し肩を揺らしながら息を上げていた。


「どうしたのさ。少し走っただけで、息を切らしたりして」

「うにゃ……。どうして、かな。少し、体が、重いの」

「……そっか」


 彼女が息を整えるのを待った。


「もしいまバドミントンをしたら、マリーに勝てるかもしれないねぇ」

「そんなことないの! テルは運動苦手だから、私の方が勝つの!」


 息を落ち着かせた彼女は、僕の挑発的な軽口に乗ってくる。

 やっと調子が出てきたのかもしれない。

 縋るような気持ちで願う。


「……バドミントンのセット、持って来れば良かったね」


 僕がそう言うと彼女は少し無言になった。

 なにかの想いに耽っているように見える。


「バドミントン……楽しかったな」

「えっと、マリー?」

「ううん、何でもないの! 今日はバドミントンはいいや。それより、散歩を続けよう?」


 彼女がくるりと背を向ける。

 ゆっくりとした足どりで歩きだす彼女の後ろ姿に、僕も続いた。




 街を歩き回った僕たちは、やがて河川敷へとたどり着いた。

 河に架かる橋を眺めながら、前を歩いている彼女へと声をかける。


「マリー。ほら、あの橋。僕らが喧嘩したときにマリーが柱に隠れて、丸くなっていた橋だよ」


 彼女は振り返って頰を膨らませる。

 見事な膨れっ面だ。


「もう、テルったら! 喧嘩なんてしてないのよ」

「あはは。ごめん、ごめん。そうだったね」

「ほんとにもう! でもわかればいいの」

「うん。あのときはごめんね、マリー」


 彼女は膨れっ面をもとの綺麗な顔に戻して、柔らかく微笑みを浮かべた。

 穏やかな表情で空を見上げる。


「……いいの。どんなことでもね、テルと私の、大切な思い出だと思うから」

「……うん。そうだよね」


 静かに頷きあいながら、微笑んでくる彼女に僕も微笑み返した。


「それよりね、テル。私、なんだか少し疲れたから、休憩してもいいかな?」


 彼女の言葉にまた少し違和感を覚えた。

 今日の彼女は朝から少し様子がおかしい。

 ……隠そうとしているみたいだけど、何だかずっと、気怠そうなのだ。


「じゃあ、少し座ろうか。ベンチなんかはないから、直接、草の上に座っちゃおう」


 彼女は「うん」と頷いてから、河川敷の草に、直接お尻をつけて座った。

 隣に並んで、僕も草原へと腰を下ろす。


 僕たちは隣り合い、そのまま自然と肩を寄せ合う。

 特に何も語らわない。

 でも彼女とこうしていられるだけで、胸が暖かくなってくる。


 彼女も、僕と同じ気持ちでいてくれたら嬉しいな。

 向こう岸を眺めながら、僕はそんなことを思った。




「じゃあ、そろそろ、散策を再開しようか」


 先に立ち上がって、お尻についた草をぱんぱんとはたき落とす。


「うん! テル、次はどこにいく?」


 彼女も頷いてから立ち上がった。


「とっとっと……。あれ?」


 けれども一度立ち上がった彼女は、腰が砕けたみたいに、その場にぺたんと尻餅をついた。


「えへへ。脚が、痺れちゃったの」


 頰を掻きながら、彼女はもう一度、立ち上がろうとする。

 けれどもまたよろよろとよろめいて、パタッとその場に腰を落としてしまった。


「……あれ? 脚に、力が入らないや」


 マリーが困ったように笑う。

 そうして何度も立ち上がろうとしては尻餅をつく。

 僕はそんな彼女を見つめる。

 僕の目の前で、また彼女がよろめいて倒れた。


 ――来るべきときが、来たのだろう。


 無言でマリーの元へと歩み寄り、片膝をついて背中を向けた。


「はい、マリー。どうぞ」

「……うにゃ?」

「僕が、マリーをおぶって歩くよ」


 背を向けてしゃがみ込み、そのままじっとしてマリーに負ぶさるように促した。

 彼女は少しだけ考える素振りを見せたあと、小さく頷いてから、僕の背中に体を預けた。


 両脚に力を込めて、彼女を背負い、立ち上がる。

 背中に、脚に感じる、マリーの重さが愛おしい。


 僕はその重みに、不意に涙が込み上げて来そうになったのだけれど、ぎゅっと目を閉じて、涙が溢れてしまうのを堪えた。




 マリーを背におぶりながら、街の散策を続ける。

 途中すれ違うひとたちが、僕たちふたりを奇異の目で見てきたけれども、僕もマリーもそんな視線は気にならない。


 彼女を背負って街を歩き回りながら、「ここは、僕がよく買い物をする雑貨屋さんなんだよ」だとか、「ここのスーパーは、何度もマリーと一緒に来たことあるよね」だとか言って、背中のマリーに話しかける。

 彼女も「へー、そうなんだぁ」だとか、「このスーパーは、色々と商品があっていいのよねー」だとか、その都度楽しそうにして、僕の話に相槌をうった。


「……ね。……ね、テル」

「うん? どうしたの?」

「私ね……。もうすぐ、いなくなっちゃうんだぁ」


 会話が途切れたとき、背中のマリーがそう言った。

 僕は前を向いたまま、振り返らずに応える。


「……うん。知ってるよ」


 そう告げると、彼女は少し驚いた様子をみせた。


「知って……、たんだ?」

「……うん」

「いつから?」

「なんかね。あの不思議な場所で、マリーの記憶をみたときにね……。わかっちゃったよ」


 ゆっくりと応えた。

 すると彼女は「そっかぁ」と短く呟いて、僕の背中から空を仰ぎ見た。




 街の散策を終え、家へと帰り着いた。

 玄関で、背中におぶった彼女を床に降ろす。


「うなー。お散歩、楽しかったぁ」


 彼女が大きく伸びをした。

 そんな姿を微笑ましく見守る。


「疲れたでしょ? ベッドまで背負おうよ」

「ううん……。自分の脚で、歩きたいの」


 マリーははっきりと応えた。


 脚に力を入れて立ち上がる。

 ゆっくりと、けれども、しっかりと地に足をつけて、彼女はベッドへと歩いていく。


 そうしてそれが、マリーがひとりで歩いた、最後の歩みになった。

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