16 春間マリーと温泉旅行・後編
「うにぁぁ……。ポカポカして気持ちいいの……」
「うん。これは温かくていいねぇ……」
宿に荷物を置いた僕たちは、ふたり連れ立って温泉街へと繰り出した。
まずはざっくりと街を歩き回って、いまは温泉街の各所に設けられた足湯施設で、疲れた足を休めていた。
いまの季節は暖かな春だ。
けれど伊香保の温泉街は標高の少し高い位置にあるから、僕たちのような薄着だと少し肌寒さを感じてしまう。
冷たい風にぶるっと体を震わせる。
けれどもそんな僕たちを、足湯の温もりがじんわりと温めてくれた。
「ね、テル。旅館のほうの温泉も、私、すっごい楽しみなの!」
「僕もだよ。なんかね。ここの温泉は、黄金の湯って呼ばれてるんだって」
伊香保温泉の湯は茶褐色の濁り湯である。
疲労や冷え性、高血圧なんかに良いらしい。
黄金の湯、なんて呼ばれるその湯は、別名『子宝の湯』とも呼ばれていて、昔から女性の湯治客に人気を博しているとか。
うんちくを垂れ流していると、隣に並んで座ったマリーが「ふわぁ」と小さな欠伸を漏らした。
ちょっと退屈させてしまったかもしれない。
「うなぁ……。少しだけ眠くなってきたの」
「なら、ちょっと眠る? 少ししたら起こしてあげるよ」
彼女がしな垂れ掛かってきた。
肩に頭を預けて、眠たそうに瞼を落とす。
肩に感じる重さが愛おしい。
ずっとこうしていたいくらいだ。
けれどもマリーは眠そうな瞼を擦り、頭を一度振ってから元気に顔をあげた。
「ううん、やめておくの! だって私、いっぱい見て回りたい所があるんだもん!」
「うん、そうだね。たくさん街を見て回ろうよ!」
頷きあって立ち上がる。
名残りを惜しむ足先を、温かい足湯から引き抜いた。
「ね、ね、テル! あれはなぁに?」
マリーが肩を叩いてくる。
マリーの指差す先を眺めて目を細める。
何かの施設みたいだ。
「んー、なんだろうね? 神社とかの手水舎みたいにも見えるけど……。取り敢えず、行ってみようか!」
彼女の手を引いて、トテテと軽快な足取りでそこへと足を運ぶ。
施設の簡単な説明書きが目に入った。
「んっと。飲泉所、だって。なんか温泉のお湯が飲めるみたいだね」
「へー、そうなんだぁ。温泉のお湯って、おいしいのかなぁ?」
「どうだろうねぇ。ちょっと僕、飲んでみようかな」
何事も経験だ。
これからはそんな風に考えることにして、湧き出るお湯を手でひと掬いする。
少しの暖かさを手のひらに感じながら口に運んだ。
彼女は僕の感想に興味津々みたいだ。
「ね、ね、テル。どんなお味?」
「けほッ。こ、これは……。ちょっと、何と言えばいいか」
鉄?
口のなかがイガイガする。
この味をなんと表現すればいいのだろう。
ただひとつ言えることは、このお湯は決しておいしくはない、ということだ。
「うにゃあ、気になるよー。私も飲んでみるの!」
「え!? おいしくないよ? やめておいた方が――」
止めようとする。
けれどもそんな暇もなく、彼女はさっとお湯を手のひらで掬って、ひと息にごくりと飲み込んでしまった。
「……どう?」
恐る恐る尋ねた。
するとマリーは、こちらに顔を向けて、微笑んだまま固まった。
(……あれ?)
そんなに不味くもなかったかな?
小首を傾げる。
するとマリーは、次の瞬間には、眉間に眉を寄せて舌をべーっと出した。
可愛い顔を歪めている。
「うええ、おいしくないのー」
「……ぷッ。だから言ったじゃないか。あはは」
手にしたハンカチで口元を拭ってやる。
彼女も僕につられて「えへへ」と笑い出した。
「これをどうぞ。お口直しだよ」
買ってきたお饅頭を手渡す。
これは温泉饅頭だ。
彼女は受け取ったそれを眺めて嬉しそうだ。
「ありがとう、テル!」
「どういたしまして。なんかね、それを買うときに聞いたんだけど、伊香保って温泉饅頭の発祥の地なんだって」
僕はまた、そんな割とどうでもいいうんちくを披露する。
やっぱり今度もマリーは興味がないようで、その目は温泉饅頭に釘付けだ。
つまらない話なんて、もう右から左である。
「じゃあ、んと。半分こね!」
彼女が温泉饅頭を半分に割った。
「うん、ありがと」
差し出されたお饅頭は小さく割れたほうだった。
相変わらずの食いしん坊ぶりに含み笑いをする。
肩を並べて寄り添いながら、石段の脇に腰を下ろして、お饅頭を食べる。
薄めの皮に、甘過ぎない餡子が丁度良い。
小腹が空いてきたところだったし、なかなかおいしい。
「ねぇマリー。今度はね、あのお店に行ってみない?」
石段の向こう側にみつけた遊技場に、彼女を誘った。
小さくなったお饅頭をひと口でパクッと飲み込み、彼女は誘いに応じて立ち上がる。
「うん。行ってみよ!」
遊技場にはたくさんの遊具があった。
射的、輪投げ、スマートボール。
どれも昭和の時代を彷彿とさせる遊戯だ。
これなんてどうやって遊ぶのだろう。
このふたつのレバーを使って、球を落とさないように弾くみたい。
ちょっとよく分からないものもあるけど、どれも面白そうである。
手を繋いで歩きながら、物珍しげにひと通りの遊具を見て回る。
射的でもやってみようか。
これなら遊び方も知っている。
「すみません。射的1回お願いします」
「あいよ。1回500円ね」
店番のおばさんにお金を渡して、おもちゃの銃を受け取った。
「ここにコルクを詰めて、あの棚の景品を狙って撃つんだよ」
「うん、分かった!」
銃を渡すと、彼女はそれを振り回して楽しそうにはしゃいだ。
おばさんがピクリと眉を寄せる。
「マ、マリー。振り回しちゃだめだよ。ほら、こうやって構え得て」
促すと彼女は、景品を狙って銃を構えた。
でも銃口から発射されたコルクは真っ直ぐには飛ばない。
彼女が頰を膨らませる。
「テルー、当たらないよぉ。これ不良品かも!」
射的屋のおばさんにジロリと睨まれた。
そうやって肝を冷やしたりもしたけれど、ふたりではしゃぐのはとても楽しかった。
遊び疲れた僕たちは、旅館に戻りひと休みをする。
「うなぁー、たくさん遊んだねぇ」
彼女はごろごろと畳を転がっている。
なんだか楽しそうで、どうやら畳が気に入ったみたいだ。
「ホントにねぇ。僕はもう、はしゃぎ過ぎて脚がぱんぱんになってるよ」
「でも、私、すっごく楽しかったの!」
笑顔のマリーは可愛いな。
そう思いながら僕も一緒になって畳に体を投げ出した。
冷やっとしてつるつるの感触と、い草の香りが心地よい。
一頻り温泉街を堪能した僕たちは、宿でのんびりゆったりとした時間を過ごしていた。
「あ、そうだ。ねぇ、マリー。夕飯前に大浴場に行ってみようよ」
「大浴場! いく、いくー」
そういえば宿の温泉がまだだったのだ。
誘うとマリーが喜んで手を挙げた。
猫だったときはお風呂嫌いだったのに、変われば変わるものだ。
そばで一緒に暮らしていると、彼女の振る舞いがどんどん人間らしくなってきていることがわかる。
今ではもう彼女は、お風呂上りに裸で出てきたりもしない。
年相応の羞恥心を身に着け始めているように思える。
ふたり並んでお風呂に向かう。
大浴場のお湯は体が芯からぽかぽかと温もって、とても気持ちが良かった。
「ねぇテル! 晩ご飯、おいしかったねぇ」
部屋食プランではない僕たちは、大広間で他の宿泊客と一緒に、ちょっと豪勢な食事をとった。
ここでも相変わらずマリーの食欲は旺盛で、何杯もご飯をお代わりするものだから、最初は驚いていた仲居さんも、最後には空になったお茶碗を差し出すたびに、微笑ましい顔になっていた。
食後、僕たちは横に並んで部屋へと戻る廊下を歩いていた。
マリーは浴衣を着ている。
お風呂上がりの彼女の浴衣姿は、なんだか可愛らしくも、衣紋から覗くうなじがとても艶めかしい。
「もうお腹いっぱいだよ、僕は」
「私もー。んーなななー」
彼女は鼻歌交じりに廊下を歩く。
お風呂でさっぱり。
お腹も満たされて上機嫌のようだ。
「お部屋に到着―。ただいまー」
彼女が部屋の戸を引いた。
その客室に入るともう、ふかふかの寝具一式が敷かれていた。
「マリー、見て。ふかふかだよ」
ふわふわとして暖かい布団に身を沈める。
そうして布団に寝転んでいると、照明のスイッチがぱちりと押される音がして、不意に部屋が暗闇に包まれた。
どうやらマリーが部屋の電気を消したらしい。
「どうしたの、マリー?」
問いかけるけれども、マリーはなにも応えない。
一体どうしたんだろう。
「マリー?」
「クラスの女の子たちが言ってたんだぁ。こういうときは、電気を消すんだって」
「……なんの話?」
「んっとね。テル。……ベランダにも、温泉があるのよ?」
彼女の声は、いつもより僅かばかりトーンが落ちている。
もしかして少し声が震えているのだろうか。
「それは知ってるけど……。いまから入るわけじゃないよね?」
「ううん。いまから入るの」
彼女が浴衣の掛け襟に手をかけた。
胸元が露わになる。
慌てて顔を背けた。
「じゃ、じゃあ、僕は! 先に寝てるよ! マリーはゆっくり浸かってて」
彼女は黙ったままだ。
「……ん、と」
暗くて静かな部屋に、彼女のこぼした囁きが聞こえる。
しゅるりと帯を解く音。
ざらついた衣擦れの音。
ふぁさと柔らかな音をたてて、浴衣が畳に落ちた。
「マ……リー……?」
彼女に背を向けたまま寝そべった僕は、固まって動けない。
「……テル」
彼女の足が畳に擦れる音がする。
音が近づいてくる。
優しい吐息が、赤くなった僕の耳に掛かった。
彼女も体を横たえて、背中から僕に密着する。
暖かな素足が僕の脚に絡みつく。
「ね、テル。一緒に入ろう?」
耳元で甘えた声を出す彼女に、押し黙ることで応えてしまう。
本当にマリーはどうしてしまったんだろう。
ついさっき、最近では裸でお風呂から上がることもなくなった、なんて考えていたばかりなのに。
第一、一緒にお風呂だなんて、そんなことが倫理的に許されるのだろうか。
(……いや、そうじゃない)
倫理なんて今更だ。
要は僕がマリーとどうしたいか。
いまとなっては大切なことは、もうそれだけだ。
そして僕は、それがどんなことであっても、彼女との大切な思い出を重ねたい。
「……ね?」
甘く誘う彼女に耳を真っ赤にしながら、あごを引いて、首を縦に振った。
静かなベランダに浴槽のお湯が波打つ音と、マリーの澄んだ声が響く。
「わぁ、お月さまが綺麗だねぇ」
僕たちは、ベランダに据え付けられた小さな檜の浴槽に浸かり、空を眺めている。
澄んだ空気のなかで見上げる夜空には、綺麗な月が浮かんでいた。
この浴槽は、ふたりで入ると丁度いっぱいになる位の大きさだから、一緒に入ると必然的に、お互いの肌と肌が密接に触れ合うことになる。
「どうしたの、テル?」
黙ってしまった僕を訝しんで、彼女が僕のことを振り返る。
その拍子に触れあった肌が擦れあって、僕はますますなにも喋れなくなった。
「んと……」
マリーが戸惑っている。
何か話さないといけない。
でも先ほどから口を開こうとしてはいるのだけど、まったく言葉が出てこない。
もう僕はまるで石像みたいだ。
けれどそれも、無理からぬことだと思う。
なにせいま僕は、広げた膝の間にマリーを抱え込み、彼女を胸板にもたれ掛けさせて座る姿勢――俗にいう『恋人座り』の姿で、体を寄せ合っているのだから。
「ね、テル。何とか言って?」
彼女が黙りこんだ僕の手を取って、胸へと導いた。
柔らかな肌と少し硬い突起に指が触れる。
「ねぇテル。テルは私のこと、好きなのよね?」
振りむいた彼女が、切なげな表情で見つめてくる。
押し黙ってしまった僕だけれど、この問いかけには無言で返すわけにいかない。
乾いて張り付いた舌をなんとか動かした。
「……もち、ろん。……好き、だよ」
彼女は嬉しそうに、でもどこか儚げに微笑んだ。
「……うん。なら」
マリーはひと言だけ呟いて浴槽から立ち上がった。
月明かりを背にした彼女の裸体は美しい。
無邪気なようでいて、それと相反するように艶めかしい体を眺める。
淡雪のように白い肌から目が離せない。
その光景は、僕の脳裏から簡単に、現実感なんてものを根こそぎ奪い去ってしまう。
彼女が浴槽から上がろうと脚を上げた。
その拍子に形のよい胸の膨らみが、ふるりと揺れた。
「きて。テル」
彼女は浴槽の外から手を差し伸べて、僕を湯舟から引き上げた。
濡れた体もそのままに、室内へと僕を導く。
薄暗闇にぼんやりと彼女の背中が浮かびあがった。
その白磁のような細い体が、少し熱を帯びたように朱く染まって見えるのは、湯上りの火照りのせいだけなのだろうか。
「テル、こっち」
「……うん」
月明かりだけが照らす、どこか幻想的な部屋のなかで、僕は導かれるまま体を沈めた。
彼女に覆い被さっていく。
「あッ、テル、そこは」
「ご、ごめん!」
その夜、ふたつの影が初めてひとつに重なり合い、溶け合っていった。
翌朝。
僕は窓から差し込む朝陽を浴びて目を覚ました。
寝転んで肘をつきながら僕を見つめるマリーと目があう。
彼女は優しげな眼差しから一転して、ちょっと意地悪そうに微笑みだす。
「……テルったらもう。ケダモノなのね!」
「ご、ごめん……」
もうそれ以上何も言えずに、顔を真っ赤にして伏せながら、口を噤んだ。
「にゃー。ただいまぁー」
旅行を終えて、家へと帰って来た。もうくたくただ。
「あー、疲れたねぇ」
荷物を置き、肩を叩きながら息を吐く。
「うん。でも、楽しかったぁ! 私ね、こんなに幸せだったのは、生まれて初めてなのよ?」
マリーは「えへへ」と笑いながらソファへと横になる。
帰宅早々、ゴロゴロと寛ぎ始めた。
そんな彼女に苦笑する。
なんというか本当に天真爛漫だ。
「ねぇ、マリー。次はどこに行こうか?」
緑茶の茶葉を急須に入れてお湯を注ぐ。
「んー、まだ帰ってきたばかりじゃない。少しゆっくりしよ?」
淹れたてのお茶を差し出した。
彼女はソファから体を起こして湯呑に口をつける。
「そんなこと言わずにさ。また、明日にでもどこかに出掛けようよ」
まだゴールデンウィークの休日は残っている。
僕たちの思い出作りはまだこれからなのだ。
もっとふたりで色んなところに出掛けたい。
そう思って尚も彼女を誘い続ける。
「明日は一日中、ゴロゴロしてたいのよ?」
「そんなこと言わずにさ。マリーは体を動かすの好きでしょ。運動のできる遊び場とかどう?」
渋る彼女をしつこく誘い続けてしまう。
その様子を不審に感じたのか、彼女はソファに居住まいを正して座り直した。
「どうしたの? テル、なにか焦ってるみたい」
「そんなことは……」
どうにも言葉に詰まってしまう。
曖昧な癖に頑なな僕の態度に、マリーのほうが折れた。
「もう仕方ないのね、テルは。わかったの! 明日も遊びに出掛けよ!」
いつもの朗らかな笑顔で抱き着いてくる。
これでまた明日も彼女と過ごす思い出が増やせる。ホッと胸を撫で下ろした。
「テルったら、もう。私のことが、そんなに好きだなんて」
抱き着いたままマリーがからかってきた。
「うん、好きだよ。だからね、僕は、マリーとのたくさんの思い出を……。少しでも多くの思い出を作っておきたいんだ。だって……」
――だって、僕とマリーの時間は、もうそんなには、残されていないんだから。