11 春間マリーと仲違い
休日のお昼前。
僕は自宅で、昼食を作っていた。
オーブンからふんわりとした良い香りが漏れ出している。
小麦粉とバターと卵の焼ける、良い香りだ。
オーブンの蓋を少し開けて昼食用のそのキッシュを眺めた。
スモークサーモンとポテトを混ぜこんだそれの焼け具合を確認する。
こんがりと焼けたキッシュは、タルト生地から甘い香りを漂わせている。
焦げ目もいい感じについて、見た目としては合格点である。
「もう少しでできるよ」
オーブンの蓋を閉めた。
いまやすっかり同居人となった美少女、春間マリーが、焼き上がりをいまかいまかと待っている。
「うん! すっごい良い匂いなのね!」
テーブルにお皿を並べながら、うきうきした様子だ。
そんな彼女と打って変わって、僕のほうは不安げな顔を隠せない。
「あんまり、味は期待しないでね。実は僕ね、オーブンを使う料理は慣れてないんだよ」
ひとりだと煮るか焼くか炒めるか、どうしてもそんな簡単な料理ばかりになってしまう。
蒸したりオーブンで焼いたりなんかは随分と久しぶりなのだ。
「大丈夫、きっとおいしいよ! テルの作るお料理はいっつもおいしいんだもん。ほら、いまだってこんなに良い香りがしてるんだから!」
「うーん、だといいけど。でもやっぱり、自信ないかなぁ。……っと、そろそろいいかな」
こんがりと焼き色のついた、熱々の出来たてキッシュを取り出した。
「どう? おいしい? ちゃんと出来てるといいけど」
リビングのダイニングテーブルに彼女と対面になって座る。
彼女は口いっぱいにキッシュを頬張って、まるでリスみたいだ。
「ひょってにょ、ほょいひいひょ!」
「あはは。なにを言ってるのか、わからないよ」
頬袋を膨らませる彼女に微笑みながら、温めたミルクを差し出した。
彼女はミルクでキッシュを流し込んでいく。
「……んく、んく、ぷはぁ! とってもおいしいよ、このお料理!」
話しながらスモークサーモンのキッシュに手を伸ばしている。
とってもいい笑顔だ。
そんな彼女を微笑ましく眺めながら、僕も作りたてのキッシュを、彼女に倣ってひと切れ摘み上げだ。
指から熱が伝わってくる。
少し行儀が悪いかもしれないけれど、こうして手づかみで食べるのもいいものだ。
まだほかほかと湯気を立てるキッシュにひと口齧りついた。
「……うん、おいしい」
さくっとした食感。
タルト生地やクリームの甘さに、スモークサーモンの塩気が絶妙に混ざり合っている。
ポテトもなかまで火が通ってホクホクだ。
口のなかでほろりと崩れてとてもおいしい。
「これは、結構上手に出来たかも」
「だよねー! はい、私のもあげるの! テル、あーんして?」
口元にキッシュを差し出された。
ちょっと彼女のやりたいことが理解できなくて、目をキョトンとさせてしまう。
「えっと……。あげるって、僕が食べているのも、同じキッシュだよ?」
「いいから、いいから。きっと食べさせっこしたら、もっとおいしいと思うのよ? はい、テル、あーん」
テーブルに体を乗り出して、キッシュを差し出してくる。
(うーん、そんなことしても、味は変わらないと思うんだけどなぁ……)
焼きムラだってないはずだ。
それにやっぱりこういうのはちょっと恥ずかしい。
「ほら、ほら! 早く、早く! あーん」
急かしながら、更にずずいっと腕を伸ばしてくる。
「もう。きみは仕方がないひとだなぁ」
どきどきする気持ちを呟きで誤魔化しながら、差し出されたキッシュにひと口噛り付いた。
もぐもぐと噛んで、ごくんと飲み込む。
(……って、あれ?)
おいしい。
何だか、さっき自分で手に取って食べたキッシュより、こっちのほうがおいしい気がする。
どうしてだろう?
不思議さに首を捻る僕を幸せそうに眺めながら、彼女は幸せそうにと微笑んでいた。
昼過ぎ。
食事を終えた僕らは、少し休んだあと、家の掃除をしていた。
1階は既に掃除をし終わり、いまは2階にある僕の部屋を掃除している。
掃除の役割分担としては、僕が掃除機係、彼女がハタキ係である。
彼女はてきぱきとよく動き回る。
何だか楽しそうに、色んな場所をぱたぱたとハタキで叩いて回っては珍しいものを見つけて、「これなぁに?」と尋ねてくるのだ。
僕はそんな彼女の後ろについて回って、充電式のコードレス掃除機をかけていく。
少し前のほうで掃除をしている彼女が、振り返り、またまた尋ねてきた。
「ねえ、テル。これはなぁに?」
見せてきたのは1冊のアルバムだ。
表紙には、手書きの文字で『マリー』と書かれている。
懐かしく思いながらアルバムを眺め、眩しそうに目を細めた。
「それはね。以前飼っていた白猫のマリーのアルバムだよ。前に公園で話したでしょ?」
アルバムを受け取って、表紙を捲った。
そこには、僕の最愛の白猫マリーの、たくさんの愛らしい姿が写真として収められている。
そのなかの1枚の写真を指差して、彼女に見せた。
「ほら、マリーは可愛いでしょ。これなんか、カエルみたいにひっくり返りながら寝てるんだ」
彼女は肩越しに引っ付いて、一緒にアルバムを覗き込んでくる。
「えー、カエルじゃないよぉ。んもぅ、酷いの!」
「えっと、酷いって何が?」
「いま私のこと、カエルみたいって言ったじゃない」
ぷくっと頬を膨らませている。
彼女が口にした言葉に少し眉根を寄せた。
けれども彼女は、そんな僕の様子には気付いていない。
「テルは信じてくれないけど、私はこの猫のマリーなんだから」
「……また、その話?」
雑な態度で邪険に応じる僕に、彼女が鼻白む。
「テルが信じてくれないからじゃない! 本当のことなんだから! 私は、テルの白猫マリーなのよ!」
「……もういいよ、その話は。それよりも、アルバムを元の場所に戻しておいて」
アルバムをパタンと閉じて、彼女に手渡した。
彼女はますます頬を膨らませる。
不満気な顔を隠しもせずに「もうッ!」言ってから、アルバム元の場所へと戻しにいった。
アルバムを戻した彼女は、あるものに目を付けた。
部屋の隅に飾られた、小さな動物用の仏壇だ。
彼女はこちらを振り返り、それを指差した。
「ねえ、テル。これはなぁに?」
「……それはね。『マリー』だよ」
「私?」
「ううん。白猫のマリーの、……遺骨なんだ」
僕はマリーを荼毘に付したあと、遺灰から骨上げをし、骨壷に遺骨を納めた。
そしてそのまま遺骨を霊園には納めずに持って帰り、自分の部屋に設えた小さな仏壇に納めたのだ。
「えー!? 私のお骨ー!?」
素っ頓狂な声が上がる。
彼女は骨壷をヒョイと両手で持ち上げた。
ぞんざいな手つきだ。
僕はマリーを雑に扱いながら、大きな声をあげる彼女に、若干の不愉快さを感じる。
これまであんまり彼女に感じたことのない、嫌な気持ちだ。
不機嫌さを隠そうともせずに、彼女を強めの言葉で窘めようとする。
「ちょっと、きみね! そんな風に、マリーのことを手荒に扱うなんて――」
彼女が骨壺の袋を開けた。
なかを覗いて「どれどれ」なんて軽い口調で呟きながら、骨壷の蓋を開こうとする。
そんな彼女の軽はずみな行いに、かっとなった。
「なにをするんだッ!」
声を荒げる。
足早に駆け寄って、乱暴にマリーを奪い取った。
彼女は鼻息を荒くする僕の様子に驚いて、口に手を当て、目を見開く。
「にゃッ!? びっくりしたー! どうしたの、テル?!」
「どうしたも、こうしたもないよ!」
怒りが収まらない。
どうしてこんな、乱暴にマリーを扱うんだ。
「……ねえ、テル。怒ってるの? ごめんなさい。私、何か、テルを怒らせるようなことをしちゃったのね?」
彼女は叱られた仔猫のようにしゅんとなった。
小さくなって肩を怒らせる僕に萎縮している。
おずおずとした様子で話しかけてくる。
だけど、僕の口から零れた声は冷たかった。
「……僕の部屋から、出ていって」
「テル、ごめんなさい。私、良い子にするから、許して」
小さく縮こまりながら、赦しを乞う。
けれども、怒りに気が高ぶってしまった僕は、寄り添うように近づき、謝る彼女を拒絶する。
彼女は怯えた様子で、震える指を伸ばしてきた。
けれども僕はその手を取ることをせず、乱暴に払いのけた。
「……ぁ」
彼女が固まった。
僕はまた声を荒げる。
「いいから出ていってくれ! いまは、きみの顔は見たくない!」
そうして僕は、肩を落とす彼女の背中を押して、部屋から追い出した。
久しく感じることのなかった静寂。
ベッドの枕元においた時計。
そこから秒針の動く音だけが、かちかちと、やけに大きく響いてくる。
春間マリーを部屋から追い出してから、もう何時間か経った。
時刻は既に夕方だ。
さすがにこれほど時間をおくと、頭に上っていた血もとっくに下がっていた。
冷静になって、先ほどのことを思い出す。
彼女は僕に謝っていた。
興奮する僕におっかなびっくりしながらも、おずおずと手を伸ばして、僕に触れようとしていた。
けれども僕は謝罪を受け入れず、狼狽える背中を押して、無理やり部屋から追い出したのだ。
彼女の狼狽した顔を思い出した。ひどい罪悪感に苛まされる。
(彼女は……。許してくれるだろうか……)
反省しながら考える。
彼女の謝罪を受け入れよう。
そして僕も、彼女に謝ろう。
僕の態度にだって、非は多くあった。
いくら彼女がマリーを乱暴に扱うような真似をしたのだとしても、あんなに急に、大きな声で怒鳴りつける必要なんてなかったのだ。
立ち上がり、自室から廊下にでる。
階下に降りて、リビングを見回しながら彼女の姿を探す。
「……ねえ、きみ」
返事はない。
何度か彼女を呼んでみたけれど、なんの言葉も返ってこない。
「……いないの?」
家中、彼女を探して歩き回る。
母親の使っていた部屋、空き部屋、お風呂場、書斎、物置き。
けれどもどこを探しても、彼女は見つからない。
(……まさか)
家から出て行ったのだろうか。
その可能性に思い至ったとき、自分が仕出かした失態に身震いした。
そんなにも、彼女を傷つけてしまったのか。深く後悔をする。
いま、広いリビングに、僕はひとりで立ち尽くしていた。
寒々しい部屋を見回す。
がらんとして冷たい、ただ広いだけの部屋だ。
彼女が家に来てから感じなくなっていた孤独を思い出す。
僕以外に誰もいないこの広いリビングは、酷く虚ろに見えた。
その空虚さに、彼女が与えてくれていた暖かさを再認識する。
「……探しにいこう。そして彼女に謝るんだ」
そう呟いた僕は、靴紐を結ぶのももどかしく、玄関ドアを開いて街へと飛び出した。