1 プロローグ
「なあ、テル。カラオケ寄って帰ろうぜ」
本日の授業も全て終わり、ざわつく放課後の教室で、同級生の男子が声をかけてくる。
僕は申し訳無さそうな表情を顔に貼り付けて、声の主に応える。
「ごめん。今日も真っ直ぐ家に帰りたくて」
同級生の彼が、僅かに顔をしかめた。
「んだよ、テル。最近付き合い悪いんじゃねえの?」
たしかに彼の言う通りだ。
最近の僕は、かなり付き合いが悪い。
「そうだよね、ごめん。自覚はあるんだけど、ちょっとね」
曖昧な僕の様子に、同級生の彼は少し興味を惹かれたのか、短く問い掛けてくる。
「ん、最近どったの?」
僕も彼に短く応える。
「……うん。最近ね。猫を拾ったんだ」
僕の名前は春間テル。
都内の公立高校に通う高校1年生だ。
性格は温厚篤実。
見た目は普通。
面白みがないと言えば聞こえは悪いけど、一緒にいると何だか安心できる相手。
友達からはよくそんな風に言われている。
……当然女の子にもてた試しはない。
学校に通い勉強をしたり、放課後は友人連中とコンビニに立ち寄ったり、休日はみんなで集まって遊びに出掛けることもある。
そんなどこにでもいる、普通の毎日を送る高校生だ。
「ただいまー」
ドアを開けて、誰もいない室内に声をかける。
「……ニャー」
そうだった。
誰もいないわけではない。
それは少し前までのこと。
いまは「ただいま」と言えばお帰りの挨拶が返ってくるのだ。
家の奥から、小さな白い仔猫がトコトコと歩いてくる。
肩に掛けたカバンを床に降ろす僕を見上げて首を傾げ、その仔猫は鈴が鳴るように澄んだ声でもう一度鳴いた。
「ニャー」
靴を脱いで玄関にあがり、仔猫の頭をひと撫でする。
「……ただいま、マリー」
そう。
僕の味気ない日常は、あの日から変わったのだ。
目の前でクビを傾げる、この美しい仔猫。
白猫のマリーと出会った日から。
ある日の晩のこと。
「…………ァ、…………ニャー……」
2階の窓を閉め切った自室から外を眺めていたとき、眼下の庭から弱々しい声が聞こえてきた。
「……ん? いま、何か聞こえたよね」
なんの音だろう。
独り言を呟きながら窓を開け放った。
季節は10月も終わり頃。
日中は残暑を感じる日もあるけれど、夜になると体を震わせる秋風が吹き荒ぶ初秋の頃だ。
急に窓から吹き込んだ風が体を冷やそうとする。
「……うぅ、さぶさぶ」
ぶるっと体を震わせて、再び窓を閉めようと窓枠に手を掛けた。
すると――
「……ァ、……ニャー……」
風に乗って、その声が僕の元に届いたのだ。
僕は階下に降り、ドアを開けて表の庭を伺った。
猫でもいるのかな?
耳をそばだてて、静かに辺りの様子を伺う。
けれども辺りからは、変わった音は聞こえてこない。
「さっきの声は聞き違いだったのかなぁ」
部屋に戻ろうと庭に背を向けて、ドアを閉めようとしたとき――
「……ニャー」
か細い、けれどもはっきりとした鳴き声が、再び僕の耳に届いた。
庭には痩せ細った白い仔猫がいた。
庭にいたのはその白猫1匹だけではない。
他にも黒い仔猫と銀色の仔猫、それに、その3匹の母親と思わしき猫が横たわっていた。
母猫は既に事切れていた。
仔猫たちは死んだ母猫に縋り付いたままだ。
母猫の死んで濁ったその目を見たとき、強く訴えられる何かを感じた。
それは母猫の想いだったのかもしれない。仔猫たちを、どうか、と。
僕は3匹の仔猫を育てることにした。
幸いと言っていいのか、僕には猫を飼うにあたって許可を取るべき相手はいなかった。
おそらく普通の高校生なら両親に許しを求める必要が有るのだろうけれども、うちの場合はそのような許可は不要だったのだ。
なにせ、父も、母も、この家にはもう帰って来ないのだから。
僕の家は裕福な家庭だった。
なにをもって裕福かとするかは、ひとそれぞれ思うところが異なるのだろうけれど、少なくとも僕が育った家は、物質的には満たされた家庭だった。
父は事業を営んでいた。
祖父が起こした小さな学用品・衣服卸の会社を、若い頃の父が必死に働いて大きくしたのだそうだ。
日に日に規模を大きくしていく会社に父はのめり込んだ。
そして、家には帰って来なくなった。
母はそんな父に愛想を尽かして出て行った。
父と母の喧嘩を垣間見た際に、愛人だの何だのと言っていた気もするけれど、いまとなっては詮のないことだ。
とにかく家を出て行った母は、僕を連れては行かなかった。
そして、誰もいない家に、僕だけが残った。
庭で拾った3匹の仔猫は衰弱していて、とても小さく、儚く見えた。
僕は拾った3匹の仔猫の世話を献身的に行った。
幸い生活費だけは潤沢にあったから、獣医さんにも何度も診てもらえたし、流動食だって自分で作って食べさせた。
仔猫たちがウンチを漏らせば、お尻だって拭いてやったし、むずかったら落ち着くまで、そばで背中を撫でてやった。
けれど数日後、看護の甲斐なく2匹の仔猫があの世に旅立った。
衰弱を脱して生き残ったのは、白い仔猫1匹だけだったのだ。
僕はその生き残った白い仔猫にマリーという名を授けた。
マリーは可愛い雌の仔猫だった。
マリーは一時期の衰弱が嘘だったかのように、すくすくと育った。
ここで、元気になったマリーの日常の様子をひとつお伝えしよう。
ある日、僕が座って本を読んでいると、誰かに肩を叩かれた。
振り向くとそこに居たのは、サイドボードの上から前足を伸ばしたマリーだ。
マリーは振り返った僕と目が合うと、一目散に遠くに駆けて行った。
何だったのだろう?
一頻り首を傾げて本に顔を戻すと、しばらくしてまた肩を叩かれた。
振り返るとまたもマリーだ。
マリーはその後、この繰り返しを10回近くも行った。
僕はそんなマリーに、困ったヤツだなと苦笑しながらも、何だか少し愉快な気持ちになった。
他にもマリーの悪戯にはこんな物もある。
ある日、自室の扉を開けると、頭上から僕の胸を目掛けて何かが飛び掛かってきた。
僕はビクッとなってその何かを受け止めた。
なんだろうかこれは?
受け止めたそれを眺めると、またもやマリーだ。
マリーは驚いた僕に、してやったりという顔をみせて、遠くへ駆けて行った。
次の日、自室の扉を開けると、またも頭上からなにかが飛び掛かってくる気配がした。
だけど今度は、落ち着いてスッと体を引いてやったものだから、マリーはそのまま床までベチャッと落ちてしまった。
床に落ちたマリーは四肢を踏ん張ってピクリとも動かない。
そんな様子を心配して顔を覗き込むと、マリーは「バカな!?」といった表情で唖然としていた。
僕は何だか可笑しくなって来て、声を出して笑ってしまった。
思えばこの家で笑ったのなんていつ以来だろう。
僕はマリーと日々を暮らした。
寒い冬は同じベッドで、枕を取り合いながら眠った。
夕食の後は、ソファに座って一緒にテレビを観たりした。
勉強をするときは、ペンに猫パンチをされたり、参考書に陣取られたりしたけれど、どんなマリーもとても可愛いくて、愛していた。
「なぁテル。最近お前、明るくなったよな」
マリーと暮らし始めて少しした頃、同級生の男子が僕に向かってそう言った。
「え、そうかな? 自分ではあんまり変わってないと思うんだけど」
「そんなことねーよ。なあ、お前らも最近、テルが明るくなったと思うよなぁ?」
彼は教室を見まわして、目についた近くの生徒に話題を振った。
「そうそう。あたしも思ってたよ、それ。春間くん、最近よく笑うなーって」
「ねー、私もそう思う。テル君って笑うと可愛いんだぁって、ちょっとびっくりしちゃった」
応じたのは同級生の女子だ。
笑うと可愛いって、そんなことは生まれて始めて言われたよ。
そんなことを言われたら、むしろ僕のほうがびっくりだ。
同級生の男子は、その女子に向かって「おまえ、テルに気があんだろー」なんて囃し立てていた。
そのすぐ隣で僕は、少し胸をどきどきさせて押し黙った。
学校では友人たちと語らい、家ではマリーに癒される。
そんな毎日に、僕は満ち足りていた。
以前の僕からは考えられないことだ。
願わくばこの幸せがずっと続きますようにと、心から願った。
けれど、そんな些細な願いは、叶うことがなかった。
――マリーが死んだのだ。
あの日のことは、良く覚えている。
その頃僕は、高校2年生に進級していた。
マリーと出会ってから1年と少しになろうかという頃だ。
その日は春先で、降り注ぐ陽の光が暖かな日だった。
そんな穏やかな春の日に、マリーは車に轢かれたのだ。
僕はマリーを完全室内飼いで飼っていた。
仔猫の頃、マリーを診てもらっていた獣医さんに、そう勧められたからだ。
僕の家は裕福で広さも結構あったのだけど、野良生まれのマリーは家のなかだけでは飽き足らず表に出たがった。
冒険心が強かったのかもしれない。
そんなマリーは僕の隙をついて、ちょくちょく家を脱走するようになっていたのだ。
それでも脱走したマリーは、家の周辺を一頻り歩き回ったあとは、必ずうちに帰って来た。
僕はそんなマリーに、脱走と言うものを甘く考えてしまっていたのだ。
あの日、学校から帰ると、家のなかで電話が鳴っているのが玄関前まで聞こえてきた。
僕は慌てて電話を取りに家に入ったのだけれど、そのときに玄関の扉を開け放してしまったのだ。
結局、その電話は何のことはないセールスの電話だったのだけれど、マリーは僕が電話をしている隙をみて、表に飛び出していった。
マリーが飛び出たことに気付いて、「あっ」と声をあげるその目の前で、マリーは車に跳ねられた。
僕は受話器を放り投げて、マリーの元に駆け付けた。
そうして慌ててマリーを抱き起こしたのだけど、もう既にマリーは事切れたあとだった。
……即死だったのだ。
マリーを轢いたドライバーの男性が、僕に向かって何かを言っていたけど、その言葉は何も頭には入って来なかった。
僕はマリーを、荼毘に付すことにした。
荼毘に付す日の前の晩、僕はマリーの遺体を眺めてぼんやりとしていた。
マリーが死んでから不思議と涙は出て来なかった。
ただ薄ぼんやりと、自分の中の何かが終わったのだと感じていた。
動かなくなったマリーをじっと眺めていると、自然と言葉が零れだした。
「……マリー。僕はマリーが死んだのに涙も出て来ないんだよ」
マリーはなにも応えてくれない。
「もしかすると、僕は薄情なのかも知れないね」
マリーはなにも応えてくれない。
「ねぇ、マリー。応えてよ、いつもみたいに、……ニャー……って……」
声が震えた。
もうどんなに呼びかけても、マリーは応えてくれないのだ。
それを理解したとき、喉の奥から熱い物がせり上がってきた。
眼の奥がジンジンするように痺れはじめる。
「……あ、れ?」
涙がひと粒溢れた。
それを皮切りにして、両方の瞳から次から次へと涙が溢れ出てくる。
「……マリーッ」
嗚咽を漏らし、僕は一生分の涙を流し切ってしまうかのように泣き続けた。
「なあ、今日の放課後、遊びにいかねえ?」
「おぉ、いいな。行こう行こう」
朝の教室。朝礼前の時間。生徒たちが楽しげに雑談をかわしている。
「じゃあ他にも、誰か誘うか? えっと、あそこに座ってる、春間とかどうよ?」
「……やめとけよ。どうせ来ねえよ」
耳に届いた声に、「ああ、そうだな。やめてくれ」と心の中で同意する。
マリーの死から幾らかのときが経ち、僕は高校3年生に進級していた。
この頃になると一時期は良かった周囲からの僕の評判は、すこぶる悪くなっていた。
なにせ、遊びに誘われても毎回断るし、話し掛けられても生返事しか返さないのだ。
そりゃあ印象も悪いだろう。
それに、これが僕が避けられている一番大きな理由らしいのだけど、僕は『笑わない』のだそうだ。
意識してのことではない。
けれども思えばたしかに、マリーが死んだあの日から、笑っていないような気もする。
けどまあ、それもこれもどうでもいいことだ。
どうせマリーのいなくなったこの世の中なんて、味気ないモノクロームの世界なのだから。
頬杖をついて窓から外の景色を眺めていると、担任がホームルームに顔を出した。
ざわついた教室が静まっていく。
担任の教師が教室の一同を見回した。
「あー、今日は転入生を紹介する」
そんな担任の言葉に、一度は静まった教室が再びガヤガヤとした喧騒に包まれはじめた。
「こら、お前ら静かにしなさい。……さ、君。こっちで自己紹介をするように」
教壇から担任が転入生を手招いた。
ドアの向こうから「はいっ!」と元気な声が聞こえ、転入生が教室に入ってくる。
生徒たちの、特に男子生徒の騒めきが大きくなる。
なかには感嘆の声を漏らす生徒までいる。
興味のないように窓の外を眺め続けていた僕だけれど、やはりその様子が少し気になって、教壇に向き直り、転入生を見遣った。
……なるほど、これは美人だ。
艶めく長い髪に、白磁ように真っ白な透き通った肌。
すっと通った鼻筋と、わずかに微笑みをたたえる唇。
少し気の強そうなまなじりが、むしろ一層彼女の愛らしさを際立たせている。
これは凄い。
お目にかかったことがないような美人だ。
呆けたように眺めていると、転入生と僕の視線が交差した。
すると彼女は僕を見つめ返して、泣き笑いのような表情を浮かべた。
彼女は真っ直ぐに僕を見据えたまま、踵を鳴らして歩き出す。
――カツ、カツ、カツ
彼女の歩みは、教壇を過ぎても止まらない。
担任が、生徒が、戸惑いはじめる。
――カツ、カツ、カツ
着席した生徒たちの机の合間を縫って、彼女が近づいてくる。
――カツ、カツ、カツ
教室の窓際、最後尾のその席。
つまり僕の席の前まで来て、彼女の歩みはやっと止まった。
周囲の騒めきが、ひと際大きくなる。
「……久しぶりね。会いたかったのよ、とても」
彼女の綺麗な声が頭上から降り注いだ。
思わず首を傾げてしまう。
はて、こんな女性と面識があったろうか。
困った顔をしていると、目の前の彼女は鈴を鳴らすような美しい声を、高らかに教室中に響かせた。
「私の名前はマリー。春間マリー」
僕は驚きに目を見開いた。
「ねえ、テル! 私とね。私と、恋をしようよ!」