シナモンとご主人様
こんにちは、シナモンです。僕はご主人様に飼われています。二足歩行ですけど。
ご主人様は毎朝早くに出掛けて、毎晩遅くに帰宅します。なので僕の仕事は"目覚し"と"お出迎え"です。
夜9時を過ぎた頃、コツコツとパンプスの音が外から近づいて来ます。あの音はご主人様の足音です。玄関まで走り、ご主人様がドアに鍵を差し込む前に扉を開きます。
「わっと、開けてくれてありがとう」
「わふっ!」
失敗すると鍵の閉めあいになります。今日は成功しました。
ご主人様の腰に腕を回して、顔を舐めようとした所で頭を掴まれます。
「やめろ馬鹿犬、化粧を舐めるな」
そう仰らずに、舐めさせて下さい。ご褒美下さい。
グイグイ頭を近づけて、首元へ狙いを定めてひと舐めすると、ご主人様が僕の股間を握りました。
「ぎゃワン!?」
「やめろって、な? 汗かいてんだよ」
「きゅーん……」
今にも握り潰す準備をするご主人様から離れると、ご主人様はまずはパンプスを乱暴に脱いで、廊下を歩く度にカバンや上着、スカートを脱ぎ捨てながらリビングを目指します。
それを後ろから拾いながら追いかけて、下着姿になったご主人様がソファーにぐったり座りこむのを見届けて、ハンガーに上着やスカートを引っ掛けたり、パンストをネットに入れたり、鞄を定位置に戻したりします。
「しーちゃんビール」
「わふ」
ダメです。お風呂入ってからじゃないとあげません。
腕を交差させてバツ印を作ると、ご主人様はジーッと僕を見つめてきました。
「わ……わふ……」
腕がぷるぷるしました。疲れたわけじゃないです。違います。でもご主人様のあの目には弱いんです。
だ、ダメ……あぁ、勝手に体が冷蔵庫へ行ってしまう。
「ありがとー」
「きゅーん」
ワシャワシャ頭を撫でられて、とっても複雑な気分になりました。
ご主人様はプルタブを開けると、ゴクリゴクリと喉を鳴らしながら缶を傾けて、最後に「ぶはーっ」と声をあげてからゲップをしました。
僕がご主人様のペットになったのは、今みたいに暑い夏でした。
ご主人様のアパート周辺をウロウロして幾日、その夜ベロベロになったご主人様は、僕を抱きあげたのです。
可愛いワンコが居る~と言いながらアパートに連れ込まれ、イカの塩辛を餌に出されました。食べられないものを出されましたが、お水はとっても美味しかったです。
そして翌日、目を覚ましたご主人様の顔をベロベロ舐めると、ご主人様は驚愕しました。
「えっえっ、なんっ、男ッ! 嘘……襲ったの……」
困惑しつつ何故か土下座で謝られ、僕は真似をして頭を下げました。
お水が美味しかったのて、ごちそうさまと言うと、ご主人様は青ざめて布団へ頭をめり込ませていました。
可愛いご主人様は僕を追い出しましたが、その夜またベロベロに酔って僕を抱きあげ、可愛いワンコがいる~と言ってアパートへ入れてくれました。その日は餌にアンチョビを出されましたが、食べられないので水を飲みました。運命だと思いました。
翌朝同じように驚愕するご主人様に、お水がやっぱり美味しかったのでごちそうさまを言うと、ベッドから下りて床に土下座していました。
そんな事を繰り返して6日目、ついにご主人様は違和感を覚えたようで、恐る恐るといった風に僕に聞いてきました。
「何で毎朝居るんですか……?」
「アナタが毎晩僕を拾うからです」
「拾う……拾う……」
ご主人様はベロベロになると記憶がなくなるようです。でも僕は運命を感じています。
その夜は深夜ではなく9時頃に帰宅したご主人様。足元へ擦り寄ると、可愛いワンコがいる~とまた抱き上げてくれました。
でも抱き上げて目を合わせた所でピタリと止まり、小さく「デジャヴ?」と呟いてからまたお家へ入れてくれました。
酔ってないご主人様はゆで卵と素うどんを餌に与えてくれました。お水もご飯も美味しかったです。
そして翌朝、僕を前にしたご主人様はワナワナ震えて僕を指差していました。
「なんで、犬っ人間っえっ犬人間!?」
ご主人様が震えて可哀想になったので、僕も観念してネタばらししてあげることにしました。
それに、そろそろ僕自身もご主人様が欲しかったから。
「僕は獣の国の王子だよ! 人間の世界で修行中なんだ、アナタは僕のご主人様になってくれる?」
はっ倒された挙句に踏まれました。あるぇ~?
仕方ないので足が退いた瞬間に獣になりました。するとご主人様はとっても狼狽えていました。可愛いです。
真実を知ったご主人様は、少しパニックにはなりましたが、僕が獣の姿で居るならとの条件で飼ってくれると言いました。ニヤリ。
お腹が減って死にそうだったとか、お水がとっても透明で美味しかったとか言って良かったです。
ご主人様になって頂いてからは、とても充実した日々でした。
ご主人様のお休みの日には、散歩にも連れて行ってもらえます。
近所のパン屋さんで「あら最近見ないと思ったら拾ってもらえたの?」と言われ、ご主人様はパンを貰っていました。
「お腹が減って死にそうだったんじゃないの……?」
「……わふ」
「毎日通ってたんだって?」
「……わふ」
「お水もたっぷり天然の湧き水まで」
「……きゅ~ん」
パン屋さんと出会う前は空腹だったし、雨の翌日は、水がちょっと濁るから……嘘とかじゃない……です。
その後暫くご主人様は冷たかったですが、ある日またベロベロに酔って帰宅しました。
玄関横で座り込んでるらしいご主人様。気配は感じますが一向に入って来ませんでした。
心配で何度も吠えましたが返事はありません。時折呻くだけで、痺れを切らした僕は人になって玄関先に出ました。
「ご主人様?」
「うぅ……」
ぐでんぐでんのベロンベロンでした。
グッタリしたご主人様を抱えて、お家に入って寝かせます。
そこいらの人になれない犬と違う僕は、いつもご主人様がするように靴を脱がせ、服を脱がせ、たまにお風呂をサボる時にご主人様がしていたように、化粧も落としてあげました。
その間のご主人様は酒とタバコと油と嘔吐物の臭いで大変臭かったです。
翌朝、獣になるのを忘れていた僕は、ご主人様の悲痛な掠れ声で目が覚めました。
人間でもあんな声が出るのかというような酷い声のご主人様に、冷蔵庫からお水を持ってきて飲ませ、たまにご主人様がフラフラになって作る、お湯を注ぐだけの味噌汁も作って差し出しました。
「……ご、極楽……」
ご主人様最期の言葉かと思いましたが、ただ眠っただけでした。
次に目が覚めた時のご主人様は、少し動けたようでしきりに謝ってくれました。
「あとさ、申し訳ついでに1ついい?」
「わんっ! じゃなかった……はい!」
「その人になって世話してくれるのは大変有難いし便利なんだけど、裸はやめて……」
僕は裸がデフォルトです!
でもご主人様は恥ずかしいらしいので、何故か毎回履かれること無く洗濯されては干されている、ご主人様には大きな服を身につけました。
「ぱんつ、なんか気持ち悪い」
「その姿の時は我慢して」
後に服やぱんつは男性物で、女の一人暮らしだから泥棒避けに一緒に洗濯するのだと教えてくれました。人間の女性は大変ですね。
徐々に回復していくご主人様とまったり過ごして気分が良かったです。
こうして僕は人の姿でご主人様の前に居ることも許可されました。ご主人様がベロベロの時は介抱するのもお仕事です。
「しーちゃん、シナモンちゃん」
「わふっ」
人型をとらない時は、抱っこで寝てくれる時もあります。ただしベロベロの時限定です。
そうでないと、コッソリ人の姿になった瞬間バレて蹴り飛ばされます。
「ご主人様、今日も酔っ払いだね」
「酔ったぁー、酔ってるよぉー」
臭いは気になるけど、ご主人様は酔うと甘えてくるので可愛いです。
ギューッと縋りつくように引っ付いてくるのもたまりません。これは発情期になると危ないです。
「しーちゃん、大好き」
「僕もご主人様が大好きだよ」
ご主人様がお休みの日、人型の僕を連れて少し遠くまで散歩に行ってくれました。
お寺と、お墓と、更に少し離れてペット霊園です。
「このお墓にはね、私のお父さんとおばあちゃんがいるんだよ」
「お墓?」
「死んだ人を入れておくの」
「どうして?」
「いつでも会えるようにね」
少し寂しそうなご主人様に、何故かドキドキしました。庇護欲というものを感じたのは初めてです。
ペット霊園ではシナモンさん達に会いました。先代はポメラニアンで先々代はチワワらしいです。
「うちは代々シナモンがペットの名前なの」
「だから僕もシナモンなの?」
「そうよ、しーちゃんの名前分かんないんだもん」
「教えたよ?」
「覚えられないのよ」
「わぉーんわんわんわぁわんわふっだよ」
「やめろっこんな所で遠吠えすんな!」
「えぇー……」
僕の名前はどうも伝わりません。悲しい。
その後ドッグランへ連れて行ってもらった僕は、悲しいのも忘れるくらいグルグル駆け回って飛び跳ねた。
ご主人様と一緒に過ごす時間はとても楽しいです。美味しいご飯とお水のお陰で、僕はグングン成長しました。
体が大きくなると、お部屋は狭く感じるので、最近はずっと人型でいます。ご主人様はなんで犬にならないのかとたまに文句を言っていましたが、僕も今自分がどれ位の大きさになってしまうのか、長らく獣の姿にならなかったのでわかりません。不用意に踏み潰すのは嫌なので、ずっとご主人様の文句は聞き流していました。
「ふすっ」
「鼻息荒いよ」
「なんか、変な臭いがする」
「変な臭い?」
人型になって鼻が鈍ったのか、気づくのが遅れました。
「焼ける臭いだ」
「は? ……はぁっ!?」
ご主人様と僕は直ぐに家を飛び出しました。深夜の冬の事です。
外に出ると、4件隣の窓が淡くオレンジ色をしていました。
「あそこ!」
「えっ嘘火事!?」
その後は一瞬だったような気がします。
ご主人様は近所に火事を知らせて、僕は火元の家に行きました。そこは空き家で、直ぐにパリンと窓ガラスが割れて炎が顔を覗かせます。
水を掛けようとする間も無く延焼し、風に乗って隣へ隣へ燃え移り、あっと言う間に僕もご主人様も退避させられました。
「あ、アパート……部屋が……」
ガクリと膝をついたご主人様はポタポタと涙を流していました。
ご主人様が頑張って築いた城が、火に煽られて黒くなっていくのを眺めるしかありませんでした。
「これから、どうしようか……」
びちゃびちゃになったアパートでご主人様が呟きます。焦げた臭いとめちゃくちゃになった部屋はもう使えません。
家具も家電も衣服も、ご主人様は失いました。
「今月で派遣も切れるし……あぁもう」
今月ってあと3日ですよ、ご主人様。
ご主人様のギリギリさ加減を知って驚愕しました。
「じゃあご主人様、うち来る?」
「は?」
「住処をあげるよ、お仕事はしたいならしてもいいし、僕が養ってもいいし」
「……はっ、ははっ、犬に慰められた……」
ご主人様の頭を思わず握ったのは許してもらいたい。
「一緒に行こうよ、ね、ね」
「はいはい、どこの穴ぐらか知らないけど、まぁいいや、何処でも連れて行ってよ」
ヤケクソ気味に言われて、また頭を掴みそうになりました。危ない。
ご主人様の必要なもの、ご主人様本体と、お墓と二体のシナモン。お金も家具家電も、あっちでは使えないからね。
「じゃあ目を閉じてねご主人様」
「こう?」
ご主人様の顔に僕の顔を近づけて、少しかさついた唇に僕の唇をひっつける。
鼻を擦りつけるとあら不思議、獣の世界へご主人様をご招待。
「っにすんだ馬鹿犬!」
「ぎゃワン!」
殴られて倒れた地面は土の匂いがした。懐かしい我が世界の匂いだ。
空は快晴、明るい陽射しと雲一つ無い空。視界を下げれは草原の先に僕の城がある。
「は……? どこ、ここ……あれってシンデレラ城?」
戸惑うご主人様に呆れて、僕はきっと分かって無かっただろうし、今回も分からないんだろうなと思いながら、プロポーズの言葉を口にする。
「僕は獣の国の王子だよ! 人間の世界で修行中だったけど、こっちでもアナタは僕のご主人様になってくれる?」
これがプロポーズだとか、僕が犬じゃなく狼だとか、ご主人様が気づくのはいつだろう?
狩りをする神
アイヌ語で狼……らしいです。カッコイイなアイヌ語。