傷は眠らじ
暴力描写が含まれていますので、苦手な方はご注意下さい。
夕陽に照らされた二人分の影が、畑の土に落とされている。
ヒュゥっと、夕方の涼しい風が舞い込み、とし子の長い黒髪をフワリとなびかせていった。そんな姉の姿を見て、短いおかっぱ頭の光代は(いいな)と何気なく思った。
とし子は「うぅん」と言って背中を伸ばし、光代に声をかけた。
「みっちゃん、今日はもう帰ってご飯にしようか」
「うん!」
光代は元気に返事をして立ち上がった。すると農作業に励んでいた背中がじぃんと痛んで、彼女はわずかに顔を歪めた。
「みっちゃん、大丈夫? ちょっと休んでから帰ろうか」
とし子がニッコリと笑ったので、光代もつられて笑った。二人は芋の入ったカゴを持って、畑のそばにある岩に並んで腰を下ろした。
九月の終わり。猛暑はとうに過ぎ去り、最近はずいぶん過ごしやすくなった。遠くの方から聞こえてくるセミの鳴き声は、夏を惜しむかのように儚げだ。その代わり、秋の訪れを歓迎するコオロギが、光代たちに楽しげな歌を聴かせてくれた。
暮れゆく太陽が二人を照らす。夕陽に赤く射されたとし子の横顔は驚くほどきれいで、光代は見惚れずにはいられなかった。
「お姉ちゃん、きれいだね」
「そうねぇ、きれいな夕陽だねぇ」
そんな短いやり取りが何だかおかしくて、光代は「フフッ」と笑みをこぼした。
姉妹が二人きりになって、もう五年が経つ。
彼女たちのありとあらゆる物を奪っていったのは、戦争だ。寝る場所も、着る服も、親も、家畜も、何もかもである。五年前、光代は六歳で、とし子は十四歳だった。
光代は昨日のことのように思い出すことが出来る。目の前で親が殺されたこと。恐怖のあまり動けない自分を姉が背負い、山の中を必死で逃げたこと。お腹が空いて倒れる自分に、銃弾の飛び交う山で集めた野草を姉が食べさせてくれたこと。目を閉じれば、震えが止まらない自分を優しく抱きしめてくれた時の温もりが、今でも蘇る。
戦争が終わり、米軍の捕虜収容所から出された後、二人は遠い親戚を頼った。もとはニワトリが住んでいた小屋と、小さな畑を借り、今日まで暮らしてきた。
畑で採れる芋は大した量ではなく、お腹を空かせる日もあった。しかし光代の心は常に満たされていた。姉がそばにいる、ただそれだけで、光代はどんなことがあっても平気だった。
「みっちゃん、寒くない?」
「うん、平気だよ」
「よし、そろそろ帰ろうか」
そうして立ち上がりかけた二人の耳に、異国の鼻歌が飛び込んで来た。
米兵が、こちらに歩いてくる。
光代にピンと緊張が走り、小さな身体が固まった。
「みっちゃん行こう、早く!」
「う、うん!」
姉の声で我に返った光代は、駆け足でその場を離れた。一歩走る度に胸がズキズキと痛み、足がもつれそうになる。それでも彼女は荒ぶる呼吸を強引に抑え、姉の背中だけを見つめて無我夢中で走った。
怖い、という感情が光代を支配する。自分たちの親を殺した米兵に対して抱く思いは、憎しみよりも恐怖の方がずっと強かった。
それからしばらく走り続け、二人はゆっくりと立ち止まった。光代もとし子も息が上がり、肩を上下させている。
すぐそこに自分たちの家が見える。二人の安堵のため息が、重なった。
「ふぅ。ビックリしたねぇ、みっちゃん」
と、姉が手にしていた芋のカゴを置いた時、光代は「あっ」と声を漏らした。
「お芋……」
自分がしでかした過ちの大きさに、光代の声は小さく震えた。二人が一週間食い繋げるだけの食料が入ったもう一つのカゴを、あの場に忘れて来てしまった。
「ごめんなさい、お姉ちゃん」
光代の頬を伝った涙を、とし子の細く白い指が拭った。
「大丈夫よ、みっちゃん。お姉ちゃんが取ってくるよ」
「ダメだよ! アメリカーがいるよ!」
「みっちゃん、背に腹は代えられんよ。大丈夫、アメリカーも私たちと同じ人間サァ。とって食べたりはしないよ」
「ほんとに大丈夫……?」
光代がおずおず尋ねると、とし子は「お姉ちゃんにまかちょーけ」と、おどけた様子で言った。
彼女はもと来た道を引き返し、畑の方へ歩いていった。光代は遠くから姉の後を追いかけた。
やがて、米兵の姿が見えてきた。年齢は二十代半ばほどで、軍服の上からでも分かるほど体格はガッチリとしている。
光代は岩に隠れた。コオロギの声がやけにうるさく感じる中、そっと岩陰から覗くと、もうすぐとし子と米兵がすれ違うというところだった。
「ソーリー.」
姉が拙い英語を言いながら、何気なく米兵の前を通り過ぎた。
――よかった。
胸をなで下ろした次の瞬間、コオロギの静かな歌声を甲高い悲鳴が切り裂いた。
光代は慌てて目を遣った。米兵が太い腕でとし子の身体を羽交い絞めにしていた。
『ビークワィエ』
米兵が声を荒げる。彼はとし子を捕えながらも、顔面を二発、三発と立て続けに殴り、その後腹部へ膝蹴りを見舞った。地面に倒れ伏したとし子に米兵が覆い被さった。大きな身体に、とし子はすっぽりと包まれた。
尚、悲鳴がほとばしる。
『ビークワィエ!!』
低く唸る、野獣のような声だった。抵抗するとし子をその後も米兵は殴り続けた。“ボグッ”という聞き覚えの無い鈍い音。人の骨が砕かれた音だ、と光代は本能的に悟った。
悲鳴が徐々に弱々しくなっていく。とし子は抵抗するのをやめ、米兵の下で動かなくなった。米兵は何かを放り投げた。地面にパサリと落ちたそれをよく見ると、とし子の着衣だった。
米兵がため息のような声を漏らしだす。
光代は岩に背中を張り付け、耳を塞いだ。目を閉じ、姉と過ごした楽しい時間を思い浮かべた。しかし身体の震えは止まらない。いつも優しく抱きしめてくれた温もりは、今、米兵によって蹂躙の限りを尽くされている。
声が出せない。身体も動かない。アメリカー、早くどこかへ行ってくれ――と、光代は目を閉じて先祖に願った。今の彼女に出来ることといったら、それくらいしかなかった。
長い時間が経った。あるいは光代がそう感じただけかもしれない。彼女が再び目を開けた時、傾いていた夕陽は沈み込み、深青の空には一番星と半月が浮かんでいた。
岩陰から身を乗り出すと、そこに米兵の姿は無かった。暗闇に目が慣れ始めてようやく、うつぶせで倒れている姉の存在に気付いた。
「お姉ちゃん!」
返事が返ってくることは無かった。光代は慌ててとし子の方へ駆け寄った。
着衣が放られ全裸になったとし子は、不気味なほど静かで、空気を取り込む胸の動きさえなかった。
「お姉ちゃん……?」
光代はとし子の背中をゆすった。しかし彼女はピクリとも動かず、一切の反応を光代に見せない。
とし子の身体を動かし、その顔を見て光代は言葉を失った。
グニャリと曲がった鼻を中心に広がった鮮血が、顔中を覆っていた。血まみれの顔は原型を留めないほどボコボコに腫れ上がっている。
腹には突き立てられたナイフ。その刃を伝った血が、周囲の地面に血だまりを作っていた。
「お姉ちゃん、お姉ちゃん……」
光代の声は震えた。
「お姉ちゃん、返事してよぉ!」
震えが涙へと変わり、やがて光代はとし子の身体にすがって泣いた。
襲うのは、後悔の念である。
自分がカゴを忘れなければ、姉は米兵のいるところへ行く必要など無かった。
大人の人を呼びにいければ姉は助かったかもしれないのに、自分は震えてばかりで動くことさえ出来なかった。
姉に対する愛、自責の思い、米兵への憎しみ。胸の中で渦を巻く色々な感情が、涙となって光代の目から流れ続けた。
「お姉ちゃぁん……」
姉が、死んだ。
米兵に殺された。
――お姉ちゃん、お姉ちゃん――
四方を白に囲まれた病室に苦しげな呻き声が響き、パイプ椅子でウトウトしていた幸子はビクリと目を覚ました。壁掛けの時計を見ると、時刻は夕方五時を少し過ぎたところだった。
清潔なシーツが敷かれたベッドの上で、光代が苦しそうに寝顔を歪ませている。それを見て幸子はポツリと「まただ」と言った。
「お姉ちゃん……うぅ、お姉ちゃん」
うなされ続ける光代の肩をポンポンと叩く。
「光代さん、大丈夫ですか?」
何度か声をかけ続けると、光代の呻き声は徐々に収まった。やがて彼女の目がゆっくりと開けられ、幸子と視線が合わさった。
「ああ、幸子ちゃん……」
「お水、用意しますから。ちょっと待ってて下さいね」
幸子はバッグを漁り、ここに来る途中の売店で買ったお茶を光代に手渡した。
「光代さん、どうぞ」
「ごめんねぇ、幸子ちゃん」
受け取った麦茶を、光代はゆっくりと喉へ流した。それからもう一度ため息をつき、再び「ごめんねぇ」と呟いた。
「また、お姉さんの夢を見ていたんですか?」
「うん……。このところ、しょっちゅうサァ」
「大丈夫です? もう落ち着きました?」
「もう大丈夫よ。幸子ちゃん、本当にごめんねぇ」
「いいんですよ、気にしないで下さい」
幸子は光代の背中を優しくさすり続けた。もうすぐ夕飯の病院食が運ばれてくる時間だ。
長男へメールするため、幸子は病室を出てラウンジにいた。そこでも思い浮かぶのは、やはり光代のことである。
彼女が余命半年の宣告を受けて、もうすぐ一年が経とうとしていた。
大酒飲みだった夫は、医者の警告を無視し続けた結果、五十五歳で肝臓の病気で亡くなった。その葬儀が落ち着いて間もなく、今度は夫の母親である光代が心臓の病気で倒れた。
入院先の病院で、後半年持つかどうか、と言われた。七十六歳、沖縄の女性にしては早い方だが、いつ来てもおかしくないという覚悟を幸子はしていた。
自分が、義母を看取ろうという思いである。
結婚当初から同居を始め、夫と死別した後も一緒に暮らしてきた。一度家族になった人間を、幸子は放っておくことなど出来なかった。それに、年の差が十五しかなく、嫁というより年の離れた妹のように接してくれた彼女を、独りで死なせたくなかった。毎日仕事の帰りに病院に寄り、土日は付きっきりで話し相手になったり、落ち込む彼女を励ましたりしている。
二人の息子はとっくに成人し、長男は本島南部、次男は内地で家庭を持っている。次男とはもう長いこと音信不通だ。長男が年中行事の時には帰って来るが、普段の音沙汰はほとんど無い。たまには祖母の見舞いに来い、という幸子のメールは、忙しいの一言でいつも終わる。
『いつ容体が急変するか分からないのよ』
『仕事中にメールするなよ。今度休みが取れたら必ず行くよ』
今度っていつ? と打とうとして、やめた。幸子は長年使っているガラケーをパタンと閉じ、光代のいる病室へと戻った。
出された病院食に、光代は半分しか手をつけなかった。
「もうお腹いっぱいですか?」
幸子が尋ねると、光代は「年寄りにはこれ以上食べられんよ」と、短く言い捨てた。残った食事は幸子が食べた。
光代は飲みかけのペットボトルのフタを閉めると、窓の向こうをぼんやりと眺めた。九月中旬、日の沈む時間は日を追うごとに早くなっていた。夕焼けの色に染まった空に、セミの鳴き声が響いている。
「私はね、この時期になると思い出すワケよ、お姉さんが米兵にレイプされた日のことを」
以前、光代が切り抜いて保存した当時の新聞記事を見せてもらったことがある。
一九五〇年に起こった、米兵による婦女暴行事件。被害者の女性は無残な姿となっていた、とだけ報じられていたが、どのようにして殺されたのかは、光代からよく聞かされた。
当時、沖縄は米国の完全な占領下。加害者の米兵は、日本の法律で裁くことが出来なかった。光代には『米兵は軍の規定に則った処罰を受けた』としか伝えられなかった。
「アメリカーのやることは汚いからね、ちゃんと罪が償われたのかも怪しいさ。人を一人レイプして殺したら刑務所に入らなきゃならないのに……。こんなの普通じゃないよ」
実の姉を殺した人間の処罰が、どうなったか分からない。もしかしたら、のらりくらりと罪を逃れて呑気に生きているのかもしれない。
無念さは、想像に難しくなかった。
光代の声に嗚咽が混じる。目尻に涙が湛えられていたので、幸子はハンカチを渡した。受け取ったハンカチで涙を拭うと、光代は肩を震わせた。
「幸子ちゃん、来週の日曜、お姉さんの墓に連れていってくれないね」
「えっ……」
幸子は言いよどんだ。
カレンダーを見ると、来週の日曜は九月二十七日。光代の姉の命日だ。
光代は毎年、その日になると墓に花を供えに行っていた。しかし今、彼女にその体力があるだろうか。
「大丈夫ですか? 光代さん」
「何とかならんかねぇ」
「分かりました。お医者さんに相談してみましょうね」
病院からの帰りがけ、医者に外出許可の件について話すと、思いの外簡単に了承を得ることが出来た。ちょっとした外出であれば問題ないとのことで、たまには病院の外でリフレッシュすることも大切だと、優しそうな丸眼鏡の医者は付け加えた。当日は車椅子も貸してくれるという。
病院食を半分食べたため、お腹は減っていなかった。台所で何か作るのも面倒だ。幸子は帰り道にあるコンビニで、カップの味噌汁とおにぎりを買った。
住宅街の外れにある平屋が幸子の家である。もともとは光代が住んでいたが、幸子たちと同居をする際に名義を譲り受けた。長いこと風雨にさらされた木造は、すっかりボロと呼ぶに相応しい外観となっている。
ヤカンを火にかけている間、今朝読み残した朝刊に目を通す。戦後七十年の今年、沖縄の新聞は戦争に関する記事で賑わっている。
その中に、幸子は気になる見出しを見つけた。
『PTSD 時を経て発現』
七十年前に負った心の傷。それに苦しむお年寄りが、最近増えているらしい。
青年期、壮年期は仕事や子育てで忙しく、戦争体験者の心の傷は胸の奥へ奥へと押し込められてきた。それが定年を迎え、生活に余裕が出てきた頃になって戦争中のトラウマがよみがえり、心身に影響を及ぼす事例が多数報告されているという。
(光代さんもきっと……)
ヤカンの湯が沸いた。幸子は新聞を畳み、カップの味噌汁に熱湯を注いだ。味気ない塩おにぎりを咀嚼しながら、光代の苦しげな寝顔を思い浮かべる。
身体の傷は治っても、心の傷が癒えることはないのだ。
日曜が訪れた。
病院から借りた車椅子は折り畳み可能なタイプだった。これならば幸子の軽自動車にも楽々収納可能だ。車椅子の基本的な使い方や、乗り降りする際の介助方法などを医者から教わった。だが光代の足腰は全く立たないわけではないので、そこまで重く考えることもないだろう。
幸子が車を停めてある病院の駐車場まで、車椅子を押していく。そこから光代を助手席に乗せ、車椅子は折り畳んで後部座席に置く。還暦を過ぎた女の力でも、持ち上げられないことは無かった。
「行きましょうか、光代さん」
助手席に座る光代に声をかけ、幸子は車を発進させた。
「幸子ちゃん、お願いね」
中部の病院から国道を北向けにしばらく走ったところに、光代の家の墓はある。
左手に臨む海はどこまでも凪いでいる。窓から入り込んでくる海風が心地良く、冷房は不要だった。真昼の太陽は陰った入道雲に覆われ、運転に不便するほどの眩しさでないのが好都合である。
「墓参りに行くのも久しぶりサァ」
「長いこと入院されてたんですから、仕方ないですよ」
「とし子姉さんに怒られないといいねぇ」
二つ三つ交わされた呑気な会話は、車が風を切る音に次々かき消されていった。
やがて名護に差し掛かると、本部方面へとハンドルを切る。ここから少し行った空き地に、光代の先祖代々の亀甲墓が建っている。
「もうすぐ着きますよ、光代さん」
「そうだ幸子ちゃん、近くのスーパーがあるから、そこでお供え買っていこう」
「ああ、はい。じゃあ先にそっちに寄りましょうね」
幸子はハンドルを切った。
車内にエアコンをかけ、そこに光代を待たせた。スーパーでいくつかの惣菜と、それからヒラウコーとウチカビも買うように言われた。
「今年はお盆が出来なかったからよ。ウチカビも線香も、いつもより多めに燃やしとこうねー」
光代の顔はどこか陽気だった。これぞテーゲー、という感じが幸子は妙に可笑しかった。
スーパーの駐車場を出て五分ほど車を走らせると、目的地にたどり着いた。後部座席で折りたたまれていた車椅子を下ろして広げ、助手席から降りた光代をそこに座らせる。幸子は車椅子を押し、霊園の中へと入って行った。
狭い敷地の寂れた霊園には五、六の亀甲墓が点在している。その中の一つに、光代の姉は眠っている。墓のすぐ傍まで、幸子は車椅子を移動させた。
長年の風雨にさらされ、雨水を吸いに吸った墓はずいぶん色あせていた。光代は車椅子から手を伸ばし、墓の表面をそっと手で撫でた。
「お姉ちゃん……」
目を閉じ、かと思えば彼女は俯き、身体を小刻みに震わせた。小さく漏れる嗚咽を収めるため、彼女の丸まった背中を幸子はゆっくりと撫でた。
「光代さん、お線香立てましょうか。ウチカビも」
幸子はヒラウコーを二つに割り、ライターで火をつけた。
線香立てに二つ並んだヒラウコーが、細い煙を立ち昇らせる。二人は煙に向かって目を閉じ、手を合わせた。
やがて黙とうを解いた光代が、ぽつぽつと語り出す。
「幸子ちゃん。私はね、今でも後悔するのよ。なんであの時、お芋の入ったカゴを忘れたんだろうって。それでなくても、姉さんが米兵に羽交い絞めにされた時点で助けを呼びにいければ死なずに済んだかもしれない。でもね、怖くて動けんかったサァ。本当に私はバカだよ。半分は私が殺したようなもんだねぇ」
自分を責めないで下さい、と幸子は言おうとした。しかし光代はその間を与えなかった。
「姉さんは多分、沖縄で一番のちゅらかーぎーだったはず。妹の欲目じゃないよ。背がスラッと高くてね、黒くて長い髪は絹みたいになめらかで、風に吹かれるとフワッて良い香りがするわけサ。生きてたら、どんなに素敵な人になったかね。沖縄一の美人だから、沖縄一の金持ちの男を見初めさせたはずよ。本当に惜しいねぇ。ねえ幸子ちゃん、そう思わんね……」
それから光代の頬を伝った涙が、石床の上にポタリと落ちた。それを皮切りに、光代は幼子のようにワンワン泣き出した。
「お姉ちゃん、ごめんねぇ。本当にごめんねぇ」
病気の身体から放たれる叫びとは思えないほど、その声は悲痛でけたたましかった。
二人以外は誰もいない墓地に、光代の声が響き渡る。線香がその背丈を全て灰と化した後にも、彼女の嘆きは止まなかった。
帰りの車中、助手席に座る光代は憑き物が落ちたかのように寝息を立てていた。病院に着くと、看護師の手を借りて光代をベッドに寝かせ、その後借りていた車椅子を返却した。
丸眼鏡の医者が尋ねた。
「光代さんの様子はどうでしたか?」
一瞬言葉に詰まったが、幸子はすぐに平静を装った。
「ちょっと色々ありましたが、良い気分転換になったと思います」
「そうですか。では、また何かあればいつでも相談して下さい」
「はい、本当にありがとうございます」
幸子は病院を出て車で自宅への道を辿った。
やがて家が見えてきたところで、ふと、門の前に見慣れない人影が立っているのを見つける。
(誰だろう……?)
幸子は人影の傍まで車を寄せた。近くで見ると、その人物はアメリカ人だった。年はよく分からないが、おそらく五十か六十の辺りだ。白いポロシャツを着た彼の背は、ウチナーンチュの幸子から見たらかなり高い。百八十センチは軽く超えているだろう。
車庫に入れた車を降りて玄関のところまで行くと、男は幸子の前に歩み寄って来た。彼は意外にも流暢な日本語でこう尋ねた。
「喜屋武とし子さんのご家族の方ですか?」
喜屋武とし子。光代の姉の名前だ。
幸子はアメリカ人を家に上げるのに少しばかり気が引けた。アメリカ人の全てが危険な人間ではない、というのは分かっているが、どうしても警戒してしまうのだ。彼女は家からほど近い喫茶店で話の場を持つことにした。
注文してすぐ運ばれてきたコーヒーを挟み、二人用の席に向かい合って腰掛ける。やがてアメリカ人の男が口を開いた。
「申し遅れましたが、私はデイビッドといいます。基地で通訳の仕事をしています」
深々と頭を下げるデイビッドに面食らいながら、「どうも、城間といいます」と、幸子も軽い会釈をした。
「先ほども話しはしましたが……。喜屋武とし子さんをレイプした兵隊は、私の父です」
改めてその事実を聞いても、幸子は動揺のあまり言葉が出てこなかった。
――父は、ずっと後悔していました。
事件があった当時は朝鮮戦争が起こったばかりで、兵隊たちは出征のための訓練に明け暮れていました。太平洋戦争を経験した父ですから、再び戦地へ赴かなければならないとなって、とても平静を保っていられなかったのでしょう。
事件の後、父は軍法会議にかけられました。しかし彼が服役することはありませんでした。代わりに父は朝鮮半島の前線に送られました。
結果、そこで父は銃弾に倒れました。同じ部隊だった人に聞くと、父は傷口から感染症に罹って苦しみながら死んでいったそうです。
父が死の淵で書いた遺書に、とし子さんのことが綴ってありました。自分は本当に悪いことをしたと。そして、自分の代わりにとし子さんの親族を探して謝って欲しいと、私に向けて書かれていました。
私は父の言葉に従い、当時の軍の資料や新聞記事を漁るなどして、長い時間をかけてとし子さんの親族を探しました。やがてその住所を突き止めることが出来ました。しかし、大切な人を殺した男の息子が、どんな顔をして会いにいけばいいでしょう。実は今から十年以上前には既に見つけていたんです。けれど、どうしても踏ん切りがつかなかった――
「じゃあ、どうして今になって……?」
するとデイビッドは重いため息を吐いた。そして自らの胸に手を当て、静かにこう言った。
「私の身体に、癌が見つかったんです」
光代のことをデイビッドに話した。
とし子がレイプされていた時、岩陰に隠れて震えていた光代という名の妹がいたこと。彼女は今病院におり、余命幾ばくも無いということも。
光代のことを聞いたデイビッドは食い気味に言った。
「その方に会わせていただけないでしょうか? 私にも時間はあまり残っていません。出来れば早い方がいい」
幸子は少なからず苛立ちを覚えた。
「光代さんの気持ちも考えてあげて下さい。すごくショックを受けると思うんです」
思わず声を荒げた幸子はハッとして「……すみません」と言った。
「いえ。こちらこそ、人の気も知りませんでした」
「それじゃあデイビッドさん、彼女に相談してみますから。了解が取れたら私から連絡をしますので」
互いの連絡先を交換した後、二人は別れることになった。去り際、デイビッドがコーヒー代の伝票をさっと持ち去り、速やかに会計を済ませた。
街の雑踏に消えていく広い背中を、幸子はじっと見つめた。
あの大きな身体の中にある癌細胞が、彼を殺そうとしているのだ。
デイビッドの父もまた、戦争の被害者だったということだろうか。
死の淵を彷徨った朝鮮で昔のことを思い出した時、その過ちの大きさに気が付いた彼を、責めてはならないのだろうか。
一体、光代には何から話すべきなのか。幸子は思い悩んだ。
米兵は刑に服さず、代わりに戦場で死んだ。そしてその息子が、謝りたいと訪ねに来ている。そう素直に告げた時、果たして光代は何を思うだろう。ショックの大きさに、彼女の病気の心臓は耐えられるだろうか。
家に帰った後も、結論は出なかった。すると、携帯の着信音が静かな部屋に響いた。
「光代さんの容体が急変しました。すぐ来て下さい」
病院からだった。
喫茶店から帰った時の格好のまま、幸子は病院へと車を飛ばした。光代の病室に行くと、丸眼鏡の医者がベッドの脇に立っており、その周りを数名の看護師が見守るように囲んでいた。
「あの、義母は……?」
息を切らして駆け込んだ幸子に、医者が振り返って応じた。
「先ほど落ち着きました。一時は大変危険な状態でしたが、発見が早かったのが幸いしました」
「そうですか……」
安堵した幸子は、看護師が広げてくれたパイプ椅子に腰を下ろした。
医者は声を落とし、幸子にこう言った。
「しかし城間さん、いつまたこのような状態になるか分かりません。覚悟はしていて下さい」
そんな言葉に、幸子は唇を結んだ。そして彼女は、もう迷っている猶予は無い、と決意した。
翌日、職場に有休を貰った幸子は病室を訪れた。ベッドで臥せる光代は、今までにないくらい弱々しく、視線もどこか虚空を泳がせていた。
「光代さん、話があります」
幸子はすべてを話した。
姉をレイプした米兵が刑務所に入らなかったこと。その後朝鮮で戦死したこと。米兵の息子が、光代に謝りたいと来ていたこと。その息子が癌に侵されているということ。
さっきまで虚ろだった光代の目が、幸子の話を聞いた途端、急に険しくなりだした。
「そのアメリカー、今から来れるね?」
落ち着き払った声音の中に、確かな怒気の色が潜んでいるのを幸子は察した。
「電話してみます」と言って、幸子は病室を出て病院内のラウンジに向かった。そこでデイビッドの番号にかけると、三コール目で繋がった。
今から向かうという。
病院の入り口で幸子はデイビッドのことを待った。電話をかけてから三十分ほど後、病院の通路に一台のタクシーが停まり、そこからデイビッドの大きな身体が姿を現した。
「城間さん、お待たせしました」
昨日会った時と同じように、デイビッドは深々と頭を下げた。
「すみません、急にお呼び出ししてしまって」
「いいんです。それより、光代さんのもとへ案内していただけますか」
二人は連れ立って病院の中へと入って行った。
病院のロビーにいるお年寄りたちが、デイビッドのことをジロジロと見ていた。単に彼の大きな身体が目立つという理由だけではない。二人は足早に病室までの廊下を歩いた。その間、二人に会話は無かった。
光代のいる病室の扉を幸子は二度ノックし、デイビッドと共に中へと入って行った。
病床の光代は既に、上半身を起こすことさえ難しいようだった。彼女は首だけを動かし、デイビッドを一瞥した。
デイビッドはベッドの傍に歩み寄った。彼が何かを言う前に、光代が先んじて言った。
「あんたが」
咳払いを一つ挟んで、彼女は続けた。
「あんたの父親が、私の姉さんを殺したのか」
デイビッドは背中を九十度に曲げ、そのままの姿勢で「すみませんでした」と言った。
「あんたの父親が殺したとし子姉さんは、私にとって一人しかいない肉親でからよ。戦争中は弾が飛び交う山を私を背負って逃げて、戦争が終わったら、貧しいなりに二人で何とかやってきたサ。よくお腹は空かせたけど、姉さんも私も、幸せだった。それをあんたの父親がめちゃくちゃにしたわけよ。それなのに、刑務所に入らなかったってね。こんな酷い話ってないよ」
念仏のように紡がれる言葉を、デイビッドは背筋を直角に曲げたまま聞いている。
「どんだけ痛かったか。どんだけ怖かったか。あんたに分かるね? 分からんでしょう。でーじ無念だったはずよ。結婚して旦那を貰って、幸せになれるはずだったのに。子どもは何人産んだのかね。姉さんだったら幸せな家庭も築けたはずよ。それをあんたの父親にあんなことされて、悔しいさ。死んでも死にきれんさ。あんた、父親も戦争の被害者だって言いたいわけ? 父親は朝鮮で死んだから許してくれって言いにきたわけ? ふざけるのもいい加減にしれよ!」
光代は一際大きな咳払いをした。その後も激しい咳が続いたので、慌てた幸子が駆け寄り、胸をさすろうとした。しかし、枯れ枝のように細く弱った光代の手が、介抱しようとする幸子の腕をパシンと払いのけた。
「あの日のことを忘れたことは一度も無いよ。私はね、死んでもこの恨みは絶対に忘れないよ。あんた、もうすぐ癌で死ぬってね。良い気味さ。あんたは悪魔の子だからね、死んだら父親のいる地獄に行くサ。そしたら私も地獄に行くよ。そこであんたの父親を必ず見つけ出して、八つ裂きにしてやるからね。八つ裂きでも足りないサ。どうするね? どうやったら、とし子姉さんの恨みを晴らせるかね?」
そして光代は大きく叫んだ。
「どうするね、ヤナアメリカー!」
デイビッドは尚も背中を曲げていた。その大きな背中は、まるで壊れた携帯電話のようにガタガタと震えていた。
幸子はデイビッドの背中にポンと触れ、顔を上げるよう促した。そして「もう帰って下さい。下まで送ります」と告げた。幸子は彼と伴い、逃げるように病室の外へ出た。
「エー、どこ行くアメリカー! とし子姉さんを返せよ! おいアメリカー、何とか言え!」
光代の叫びは病院中に響き渡った。それを背中に受けながら、廊下を歩くデイビッドは絶えず涙を流し続けた。
幸子とデイビッドは病院の外へ出た。耳をつんざくような光代の叫びが、幸子の耳にはまだ残響していた。
デイビッドは涙を拭いた。
「……父の犯した過ちがどれほど大きな物だったのか、改めて突きつけられた気分です」
「デイビッドさん、あなたの犯した罪ではないんですから。あなたがそこまで背負い込む必要は無いんじゃないですか」
そう。
目の前にいるアメリカ人は、身体ばかりが大きいだけで、罪を犯すような人間ではない。デイビッドと知り合って日の浅い幸子でも、その腰の低い態度から、彼がどんな人柄なのかは察している。
とし子をレイプして殺したのは、彼の父親であり、彼ではないのだ。
「そう言って貰えると、少しは気持ちが楽になります」
「でも、自分の父親が犯した罪は……忘れないで下さい」
デイビッドは空を見上げ、その後幸子の目線の高さに視線を下し「そのつもりです」と言った。
「死ぬ前に、光代さんに会えて良かった」
そんな気弱な彼にかける慰めの言葉を、幸子は持ち合わせていなかった。
「私はもう戻ります。城間さん、それじゃあ」
彼は幸子に背中を向け、病院に詰めてあるタクシーに乗り込んだ。
その日の夕方、光代は病院食で出されたお粥を一口だけ食べ、それきり何も口にしなかった。
「姉さんを殺したのはあのアメリカーの父親で、あのアメリカーは悪くない。そんなの分かってるよ。あのアメリカーを罵ったところで姉さんが帰ってくるわけでもない。あれもまだ若いのに癌だなんて可哀想サ。でもね幸子ちゃん、私はどうすればいいか分からんよ。私の怒りは。姉さんの悔しさはどうすればいいのかねぇ」
ベッドの上、光代は唸るような声を絞りつつ、涙を流した。やがて泣き疲れたのか、彼女はそのまま眠りについた。
光代のシワだらけの頬に、幸子は手で触れた。
「お姉ちゃん……お姉ちゃん……」
光代のうわ言はとどまることなく繰り返された。
もう、彼女は長くないだろう。医者でも看護師でもない幸子だが、彼女の死がいよいよそこまで迫っていることは、素人目にも明らかだった。
あの世で姉に会った時、光代は何と声をかけるのだろうか。
姉を殺した米兵に、どんな悪態の言葉を吐くのだろうか。
その肉体が永遠の眠りについた後も、彼女の心に刻まれた傷が癒えないのだとしたら、それほど残酷なことはない。
「お姉ちゃん、ごめんねぇ……」
夏を恋しむセミが、どこか遠くで鳴いている。残された命の短さを嘆く弱々しい叫びは、いつまでも止むことがなかった。
お読みいただきありがとうございました。