こんなはずじゃ……
何となく弟が帰って来た気配がする。最近、ちょっと弟の様子が変だ。帰宅する時だって、以前はサイレンみたいな騒々しさだったのが、今はすっかりサイレントモードである。
「姉ちゃん、ただいま」
弟が何の面白みもない言葉とともに中へ入ってきた。つまらない。今年に入ってから、言葉を短く省略する例の癖がきれいになくなっている。「ただいま」を「たーいま」と言っていたのが「たま」になり「たー」になって、最終的にどうなるのか楽しみだったのに、逆戻りしやがって。
「ねえ、あんた、最近、まともに『ただいま』って言うわよね」
あたしがそう声を掛けると、弟は「まあな」と小さな声で言って恥ずかしそうに俯いた。
「ちょっと失敗しちまってね」
「失敗?」
「ああ。手短に話すよ。──クラスにヨガのインストラクターの娘がいるんだ。で、そいつもヨガをやってるんだけど、ある日そいつが腰痛で授業中ずっと腰を押さえてたわけ。俺はてっきり『ヨガのやり過ぎ』だと思って、休み時間に入ってから、そいつについ言っちまった。──『お前、ヨガり過ぎ』」
「な……」
「周りのみんながいっぺんにドン引きしちまってな」
「するわよ、そりゃ」
「悪気はなかったんだが、とにかく俺は懲りた。言葉の省略は封印する」
弟はきっぱりと言った。あたしとしては、もっと情けない顔で言うべきだと思う。
「なるほど。そういう事情ね。でも、封印は大げさじゃない? 次から気をつければいいんだし」
「反射的に言っちまうやつには、自己規制がかからないからなあ。『ころんでしまいました』をうっかり『ころしました』と略しちまった日にゃ、身の破滅もんだぜ」
「取り越し苦労だと思うけど。──ま、好きにしなさい」
「ああ。―― で、何か他の面白パターンないかな。 割とみんなにウケる感じの」
図々しいやつである。すぐあたしに頼るんだから。それにしても「図々しい」は、なぜ「ずずしい」ではなく「ずうずうしい」なんだろうか。「図」のフリガナを書きなさいという問題で「ずう」と書いたらペケになるのに。
「そう唐突に言われてパッと思いつけるもんじゃないわよ。――あー、あんたが昔やってた、あれどう? あれもう一回やったら? なんでもヒーロー番組っぽく叫ぶやつ」
「あれか? 今やってウケるかな」
弟は首を捻りつつ、うーんと唸った。
「ノリ次第よ。久しぶりに見たくなったわ。あんたの最高傑作、覚えてる?」
「最高傑作?」
「ほら、駅の電光掲示板の下で、やったやつ」
「あ、あれか」
すぐさま弟がヒーローっぽい立ちポーズをとる。
「やあ、みんな。元気かい。俺は、宇宙ギャングを追って地球にやって来た銀河刑事! その名も『電光刑事BAN』!」
あらら、全然面白くない。
「――つまらないわね」
「俺もそう思った」
お互い昔は笑いのレベルが低かったということか。
「でも懐かしかった。――そうそう、懐かしいといえば、あんた、小坊の頃、家庭科の裁縫箱の道具に一つ一つナンバーをつけて、針セットを『裁縫具ゼロゼロナイン』って呼んでたわね。あれどういう意味?」
弟は一瞬びっくりした表情を浮かべた。
「えー、そんなことあったかな」
なぜかとぼける。下手くそな演技だ。そんなに恥ずかしい黒歴史だったのかな、あれ。
「覚えてないの? ほらあんた、家庭科の宿題で危なっかしい手つきでチクチク縫ってて、面倒くさくなったら『家族装置っ!』とか言って、あたしのところに針と布を持ってきたじゃない。あの時の話よ。――そういや、『家族装置』って何?」
思うに何かのパロディなんだろう。まあ、今さら説明されたって困るんだけど。
「うーん、全く覚えてないなあ」
「顔、真っ赤よ」
「待て待て。話題がズレてるぞ。今は俺の新しい面白パターンを考えることに集中してくれ」
「ところであんた、筆箱の筆記用具にも『文房具A』やら『文房具9』やら変な名前付けてたわね」
「うわ、もう昔のことほじくり返すのやめてくれ。頼むから」
弟があっさり白旗を上げた。この根性なしめ。チクチクいじるの楽しかったのに。ネタはまだまだあったんだけどなあ。
「そんなことじゃあ、大した協力はできないわね。――手っとり早く、話の語尾に何かつけたらどう? 『やんす』とか『ごんす』とか『どす』とか『ダス・デス・デム・ダス』とか」
「最後のは何だよ?」
「ドイツ語の定冠詞」
「知らねえよ。――なあ、もうちょっとセンスのある感じにならないかな」
「注文が多いわね。だったら、『その手は桑名の焼き蛤』とか『おそれ入谷の鬼子母神』みたいなのはどう?」
「古典的過ぎねえか?」
「新しいのをその都度考え出すのよ」
「へえ、例えば?」
「『これでいいんだよ』って言いたい時には『こんで、ええねん私財法』って言う。『どんなもんですか?』は『どんなモンテスキュー? 法の精神』、『ありがとう』は『ありガトウ・ショコラ』。『そうはいかん』だったら『そうはいかんざき』って言うの」
「最後……パクリだろ。しかもメチャ古い」
「そうだったっけ。まあ、そんなことはどうでもいいから、あんたも試しに言ってみなさいよ」
「ああ、やってミルク」
「…………。――それもパクリでしょ。しかもメチャメチャ古い上にとてつもなくレベルが低いわ」
「レベルが低くて悪カッターナイフ」
「そうね。ありきたりだけどそんな感じよ」
「なるほどね。いっちょう頑張ってみる仮名手本忠臣蔵」
「…………」
どうなんだろう、これ。自分ではイケると思って勧めたんだけど、もしかしたらあんまり一般ウケしないんじゃ?
いまいち不安タジー。とっても心配ダワー・ブリッジ。余計なアドバイスしなけりゃよかったカモン・ベイベー。
その後、風の噂で弟の情報をチラリと耳にした。「いちいち言うことがウザイン・ボルト」なんだそうだ。――すまぬ、弟よ。
続く




