鏡写しの猫かぶり
待ち望んでいたような、ちょっと恐ろしいような。
期待と不安をないまぜに想起させる着信が、薄暗い部屋に静かに響き渡る。
ベッドの上にうずくまっていた少女は、弾かれたように起き上がって電話を取った。
「……もしもし」
そう呟いた声は、緊張でかすかに震えている。
「おはよう、光里ちゃん」
スピーカーの向こうからは、やや低めのこもった声が聞こえてくる。物心ついた時から、少しずつ変化しながらも慣れ親しんだ声。二軒隣の家に住む速水優汰だった。
少女――影山光里はその声を聞くが早いか、勢い込んで心の内をほとばしらせる。
「っ、っと、ど、どうだった!?」
「ああ、良かったね。受かってたよ」
速水はその勢いをいなすようにくすりと笑って、飄々と光里を讃えた。
「本当?」
「嘘ついてどうすんだよ」
そうため息交じりでぼやく速水。それもそうだ、と光里は電話越しに非礼を詫びた。傾けた頭の上で、明るい茶色のラウンドショートの髪がさらりと音を立てる。
「まぁ、良かったじゃん。また三年間よろしくね、光里ちゃん」
「うん、よろしくね。速水君も受かったんだ」
「当然」
緊張の糸が切れて、光里の表情は自然と緩む。
それを見通したかのように、速水の声も一段階柔らかくなる。
「じゃあ、切るよ――」
速水は一呼吸おいて、その声に気づかいを滲ませた。
「――今度は学校で会おうね」
ぴしっ、と部屋の空気が凍り付いた。
「……うん。じゃあね」
光里はほとんど機械的にそう言って、通話を切断した。
そのオレンジ色の双眸は虚ろだった。
「受かったんだ……」
ふらふらとベッドに腰かけて、光里はその意味を反芻する。勝手口のガラス戸の向こうには、梅の木が満開の花を咲かせていた。
光里が速水に頼んだのは、高校受験の合否を確認することだった。
県下最高峰の高校、私立松原高等学校。その切符を手にするために、彼女は今日まで、並々ならぬ努力をしてきたのだった。
一つは、もちろん受験勉強。
そして、もう一つは――
――受験会場へ行くこと。
学校という空間対する恐怖。顔を覆った光里の手を震わせるのは、それに他ならない。松原高校の門をまたいだ時に感じた心労は、隙を見ては顔を出して彼女を苛んでいる。
光里は頭から布団をかぶった。クローゼットにしまい込んだ中学校の制服が、恨めし気にこちらを睨んでいる気がしたのだ。
光里は中学生活の二年と半年間を、殆ど自宅から出ずに過ごしていた。彼女にとっての学校という存在を決定づけた、同級生とばったり出くわさないように。そして彼らの口が吐き出す耳を覆うような侮蔑の言葉を聞かずに済むように、彼らの余りに冷徹な視線にうっかり触れずに済むように。
光里は身を震わせる。
そんな光里の部屋の扉が、高らかにノックされた。
「光里、エミリーは仕事に行きますよ? 行ってきますのキスが欲しいです!」
そう朗らかな良く通る声で光里を呼ぶのは、彼女の母親である影山エミリー。ライトブラウンの長髪を毎朝綺麗にカールし、建築物の内装デザイナーとして働くイギリス人だった。
時々無理やり慣用句を使う流暢な日本語は、彼女の努力と、日本好きのたまものだった。父親――影山智弘がその又父から若くして継いだこの巨大な邸宅のほぼ半分が、エミリーの蒐集した、日本人形やら扇子やらの和を思わせるグッズで埋まっている。
そんな母親だが、生活習慣は未だに所々洋式だ。朝食はご飯とみそ汁、湯船にも喜んで浸かるようになった彼女は、しかし毎朝の行ってきますのキスを欠かさない。かつて、不登校になったばかりのころにそれを拒否したその晩のエミリーの落ち込み様はと言えば、余裕のまるでなかった光里をして、申し訳なさを覚えさせるほどだった。
その光景を思い浮かべながら、光里は重い体を何とか動かして、部屋の扉を開いた。
エミリーは彼女を優しく抱きしめて、頬に軽くキスをした。
「光里、何かいいことあった? 高校受験パスした。そうでしょ?」
「……何で分かったの?」
目を見開く光里に、エミリーは得意げに鼻を鳴らした。
「伊達にマムやってません! 光里のセンシティブな心、顔にくっきり書いてあります!」
そう言ってから、エミリーは包み込むようなトーンに声を落として、囁いた。
「だから、ナーバスになっているのもよく分かります……光里はこれだけ頑張りましたから、きっと万事うまく運びますよ。神様仏様も見ているはずです……」
母の慰めに、光里は黙々と頷いた。
「……遅れちゃいます。今は少しだけ離れ離れですが、心は常にともにあります。なんでも遠慮なく話してください」
「遠慮なんかしないよ。行ってらっしゃい、お母さん」
エミリーは気丈に笑う光里と、和時計風の意匠がこらされた腕時計を交互に忙しなく見た。そして光里にもう一度キスをして、玄関へと走って行った。
その背中を見送って、光里は自分の部屋へと戻った。窓から差し込む朝の陽ざしを、部屋のうす暗がりが取り囲んでいた。
光里はその明りの中心に立って、相反する感情がないまぜになったため息を吐く。
自分の努力が認められて、希望通りの高校に――それも、速水君と一緒の! ――通えるようになったこと。それは純粋に楽しみだった。光里にとって、それは希望の光だった。
しかし、それを以てしても、彼女の心の影は色濃い。それは静かに光里を取り囲んで、スポットライトの中心に立つ彼女を押し潰そうと待ち構えている。
光里はそれを振り払うように勢いよく勝手口を開き、向こうへ広がる庭へと歩き出す。
そこは、多少狭くはあったが、精いっぱいに意匠を凝らした日本庭園だった。主にエミリーの手になるものだ。
日本文化に傾倒する彼女が、荒れ放題だった庭に目を付けたのは無理からぬことだった。結婚して間もなく、「お庭を自由にさせていただいても構いませんね!」と奮起した彼女の手によって、庭はじわりじわりと変貌を遂げた。雑草の代わりに厳かな石畳が点々と道をなし、荒れ果てた花壇の代わりに静謐な池が配され、そして収入が安定してきた昨今、殺風景だった塀に沿って小ぶりな梅の木が植えられた。「うちの庭に鶯が来るのはいつでしょうね」と、のほほんというエミリーは、とても楽しげだった。
庭に降りた光里の目にも、天頂から降り注ぐ日の光を浴びて生き生きと輝く梅の花が入り込んでくる。それらが満開の花を咲かすこの季節は、光里を含めた家族全員のお気に入りだった。
そのうちの一本に歩み寄って、光里はそっと屈みこんだ。
「おはよう、重子さん」
その視線の先、梅の木の根元には、一匹の三毛猫が体を丸めていた。重子と呼ばれたその猫は、光里を認めるとすっと目を細め、ごろごろと喉を鳴らした。
重子は、光里が物心ついた頃からずっと庭に住み着いている老猫だった。元来猫好きであったエミリーにおされる形で、父もその存在を黙認していた。ずっしりと、悠然と梅の木の下に鎮座する彼女の周りには、入れ代わり立ち代わり総勢八匹の猫がたむろしていて、彼らは光里の良き遊び相手であった。
そして現在は、光里の抱える闇を――言語が通じるのであれば――最も正確に理解している生き物である。
――この人たちにまで邪険にされたらどうしよう。
近しい人間である両親や速水には、その胸中を全てぶちまけることなど出来やしなかった。
「あのね、高校受かったよ」
呟く光里の話に、重子は傾聴しているように見える。尻尾をゆったりと揺らしながらも、その視線を光里から離そうとはしなかった。
「嬉しい……嬉しいんだと思う。楽しみ。速水君とも一緒だし」
光里が胸躍らせるその事実は、同時に彼女をきつく縛り上げていた。
また学校で。電話を切りしな、そう約束した。
「……けど、やっぱり行けないよ。行きたいけど……行けないよ。怖くて、怖くて、しょうがなくて……今日だってね、発表速水君に見てもらったの。駄目だよね、こんなんじゃ……」
震える小さな声が、庭の空気を塗りつぶした。
「でも……私、ガイジンなんだもん……きっと高校でも嫌われちゃうよ……」
重子の黄色い目が、さらに細まる。
『――国へ帰れ、ガイジン!』
誰かの嘲笑が光里の耳にこだました。
ハーフであること。それが彼女を襲った陰湿な攻撃の根拠だった。
きっかけは、初めての英語の授業だった、ように思える。
母親仕込みのネイティブな発音は、クラス全員に――あろうことか英語の教師にまで――嗤われてしまった。まずかったのは、困惑した光里がそれが母親仕込みであることを口走ってしまったことだった。不幸にも、その場には偏執的な国粋主義者の息子がいて、彼はクラスの中心的存在で――それ以来、明るい髪色や瞳の色を理由に、光里はありとあらゆる嫌がらせを受けた。英語のスキルと、外国人の母親をひけらかして鼻にかけていると思われたのか、小学校からの友人も離れて行ってしまった。
そんな状態で何とか半年間耐えた光里は、ついに二学期の始業式に向かう朝、立っていられないほどの足の震えに苛まれ、泣く泣く両親にすべてを打ち明けたのだった。
「速水君とも約束したのに……学校でって。でも、行けないよ……」
嗚咽交じりの嘆きが、重子の耳を震わせる。
そして今でもなお、その半年間の記憶は速水との約束を押し潰すほどに重かった。
そうしてしばらくすすり泣いていた光里は、やがて顔を拭って立ち上がった。
「……ごめんね、愚痴ばっかり聞かせちゃって。じゃあね」
こうして重子と話した後は、部屋に戻り、鬱々としながら本を読んで過ごす。それが彼女の日常だった。時間に任せて高校までの範囲を全て修了した彼女は、逃げるように英文学の原典を貪り読んでいた。
肩を落として、重い足取りで勝手口に手をかける光里。
しかし。
「――待ちな、お嬢ちゃん」
唐突に聞こえてきたしわがれた声に、光里は足を止めた。
「……?」
振り返ってあたりを見回す光里。しかしそこはいつもと変わらぬ庭園だった。声を――老婆を思わせるしわがれ声を上げそうな者など、いやしない。
「……誰?」
疑念と、かすかな恐怖を胸に呼ばわる光里。
それに応えて、再び老婆が答えた。
「まぁ、無理もないねぇ。ここだよ、ここ」
その声の源をたどった光里は、
「え?」
自らの聴覚を疑っていた。
視線の先にある物。それは重子だったからだ。
思わず一歩、老猫に足を踏み出す光里。
「……重子……さん?」
再び重子の前で屈みこんだ光里の目の前で、老婆の声は力強く言った。
「そうさ、重子さね。いい名前をありがとうねぇ」
老猫はすっ、とその目を細めて、確かに笑った。
「……ひゃっ……!」
思わず尻餅をつく光里。
――猫が、喋ってる!?
光里は再びあたりを見渡す――誰もいない。
視覚と聴覚の不一致が彼女の心を歪ませて、現実に発生している超常の現象を確かに認識させた。
「まぁ、驚くだろうねぇ。でも、お前さんもあたしらが好きなら一度は耳にしたことがあるんじゃないのかい。猫はその一生に一度だけ、人間の言葉をしゃべるってねぇ」
光里はがくがくと頷いた。
それは猫好きの間でまことしやかに囁かれる伝承であり、憧憬だった。いつだったか、夕食の席で両親からその話を聞かされて、幼い光里は期待に心躍らせたものだった。猫たちと遊ぶ機会も、自然と増えた。
しかし、楽しみにしていたその光景を目の当たりにして、光里は腰を抜かしていた。
「……あっ……えっと……」
「そんなに怖がられると、ちょいと悲しいねぇ。別に取って食おうって訳じゃあない。あたしは……あたしたちはね、お前さんの助けになりたいんだよ」
そう気遣わしげに言う重子。
「まぁ、そういう訳だ。ずっと遊んでやってたし、情が移っちまったってワケ」
新たな声。朗らかな、ともすれば軽薄な印象を受ける若い男の声は、塀を乗り越えて軽やかに重子のそばに着地する。くるりと振り向いた山吹色の虎猫は、座り込んで毛づくろいを始めた。
「そういう事ね。ふー。可愛い女の子がこんなに困ってるんですもの。一肌脱ぎましょ」
妙齢の女性を思わせる声が、光里の背後からやってきた。振り向けば、そこには夜闇を纏ったように艶やかな黒色に身を包んだ雌猫が、左の前足を引きずりながらこちらへ向かってくる。それはゆったりと重子の脇に侍り、一つ小さなあくびをした。
そして黒猫を追って正面に戻った視界には、光里の良き遊び相手だった九匹の猫が集っていた。
「え……虎丸……朔夜……?」
「はいよー、光里チャン」
「ふー。どうかした?」
二匹の猫は光里の方を注視している。
「彦星……織姫……?」
「ああ」
「ええ」
灰地に黒の縞模様が特徴的な雄。そのすぐそばに、粉雪のような純白の雌が侍っている。
ぴたりと寄り添いあう一対の猫たちは短くそう答えて、すぐにお互いを見つめあった。
「千寿、瑠衣、梅太郎……」
それに応えたのは、千寿の甘ったるい猫なで声だった。
「そうにゃあ、うちらに任せて……」
「くくく、矮小たる人間よ……」
しかし、それを平然と遮る芝居がかった若い声。瑠衣は高らかに両の前足を上げて叫んだ。
「我らが力を以て、貴様の苦悩なぞ即座に吹き飛ばしてくれよう!」
その脇腹に、千寿の前足が飛ぶ。
「ちょっと! 邪魔しないでくれるかにゃー!」
「何をする! 大体、齢十を数える古強者がなんたる言葉遣いか! わきまえよ!」
あっという間に乱闘を始める千寿と瑠衣。白黒と薄い黄土色が入り乱れる脇で、灰色の毛並みを震わせて、梅太郎が陰鬱な笑みを漏らしていた。
「ふぃひひ、こいつら……あ、よろしく頼むよ、影山光里さん」
「う、うん……」
ひとまず頷いた光里は、最後の一匹に目を向ける。
それはこの場のどの猫よりも、鋭い眼光を放っていた。陽光に曝された豹を思わせる毛並みには、所々に傷痕が刻まれている。
光里はその目力に気圧されながら、恐る恐る彼の名を呼んだ。
「……力也……?」
呼ばれた力也は一瞬目を細めて、ふいと顔を背けた。それを見て、朔夜がけだるそうにくすりと笑う。
光里が猫たち全員を見渡してぽかんとしているのを見て、重子はゆっくりと立ち上がった。
「……という訳さね。あたし達九匹、お前さんの力になるよ」
そう優しい声で言う重子。
放心してぼんやりとそれを聞いていた光里は、その意味をゆっくりと噛みしめる。
どうやら、古い友人たちは光里の置かれた状況を知っていて、助けてくれようとしているらしい。
「……あ、ありがとう……」
震える声で、光里は最初に浮かんだ感想を口にした。
猫が喋るという衝撃に拡散した思考が、次第に収束していく。
ひとまず、光里はそれを受け入れた。たとえそれが幻覚でも構わない。助けてくれるというのなら、それこそ猫の手でも借りたい状態だった。
次第に落ち着きを取り戻してきた光里は、
――でも、どうやって?
その疑問を検討する。
ここに集まっているのは、人語をしゃべるだけの――ひとまずそれは置いておいて――猫。そして伝承の通りならば、その権利もこの場限りだ。
――そして、何に対して?
彼女らが光里の話を聞いていて、理解したのであれば、光里のどうしようもない絶望も伝わったはずだった。今更生まれが変わるわけもなく、おいそれと人を信じる気にはなれない。
「ふー。まぁ、それはそうよね」
ため息交じりに呟く朔夜。
「うん……」
そう頷いてから、光里はふと顔を上げた。
「――あれ、声に出てた?」
会話の機会が減って独り言が増えてきた、と自認していた矢先だった。
首を傾げる光里に、虎丸はひひひ、と悪戯っぽく笑って、
「それが出てないんだな。まぁ、見せてやりなよ、婆さん」
重子に水を向けた。
それに応えて、老猫はゆっくりとその尻尾を持ち上げる。
「……え?」
光里は目を疑った。
ふさふさのその尻尾は、その根元から二股に分かれていた。
「ありがたいことに、昨日でちょうど二十歳になってねぇ。これも聞いた事くらいあるだろう?」
二十年の時を経た猫は、猫又と呼ばれる二股の尾を持った妖怪へと変化する。これも猫を養う者たちの間で、かつては恐怖と共に、現代ではかすかな羨望を込めて語られる伝説だった。猫は通常、発展した現代の医療や食事を以てしても、おおよそ十五、六年でその生涯を終える。その寿命を遥かに超えて生き続ける者が存在したとして、それは果たしてどれほどの異様な力を持っているだろうか。猫又という存在は、そうした先人たちの畏怖が生み出した一つの答えだと、光里は思っていた。
たった、さっきまで。
「猫……又……?」
遠のきかける意識を、光里は必死につなぎとめる。
二つ目の超現実の光景は、彼女の常識と意識を一度に押し潰そうとしていた。
よろめいた光里は、首を振って堪えた。
「そういう訳さね。猫又の持つ術の、ほんの一部さ」
一対の尻尾を悠然と振る重子。
「まぁ、これはどうだっていいんだ。もう一つ肝心な術があってね……おい、誰が最初にやるのかい!」
そう大声で呼ばわる重子に、いつの間にか争いを終えていた瑠衣が即座に応じた。
「私が! 王たる者、皆に規範を示さねば!」
「そうかい、何だっていいよ。じゃあもっと広い場所に行きな」
促されるままに光里の背後へと向かう瑠衣。光里はそれを何とか目で追った。
「用意はいいね?」
「応!」
勢いよく答える瑠衣。
それに応じて、重子は目を閉じて、深い唸り声を発し始めた。
と、同時に、瑠衣の体はどろりと溶け始めて、その足元に水たまりのように広がっていく。
「る、瑠衣……!?」
這い寄ろうとする光里を、彦星と織姫が宥める。
「大丈夫」
「見ていなさい」
「でも……でも!」
今やちゃぶ台ほどの灰色の水たまりとなり果てた瑠衣を指さして、叫ぶ光里。
「まぁ見てなよ。ふぃひひ、そろそろじゃないか?」
梅太郎がそう言うのとほぼ同時に、瑠衣だった何かが中心から波打った。
池に小石を投じたようなその波紋は、繰り返し繰り返し、水面に同心円を次々に描きながら、次第に強まっていく。耳をすませば、水音すら聞こえてきそうな厳かな光景だった。
「……! 何……!?」
しかし、光里にそんな情感を味わっている余裕などない。
ただただ戦慄する光里。
その視界の中心で、灰色の影が勢いよく伸びあがった。水面に生じた被膜を引っ張るように、力強く。
そしてその中ほどで、それを押さえつけていた膜ははじけるような音を立てて千切れ、上下に消え去った。
勢い余って反りかえるその存在を見て、
「え?」
光里は言葉を失った。
水たまりの引いたそこには、全裸の人間が膝立ちで反っていた。
振り乱したラウンドショートの髪は、明るいブラウン。
薄く開かれた瞳は、濃いオレンジ色。
小さ目にまとまった顔。
平坦な胸。
――鏡の中に見慣れた、自分自身だった。
そして目の前に出現した光里は、四つん這いになりながら光里の方を向いて、その控えめな声からは想像できないほどの高笑いをきめた。
「どうだ。完璧であろう? 我らが老師の手にかかれば、この程度の事……」
「黙りな、瑠衣」
疲弊しきった声で、重子は瑠衣を諌めた。
「まぁ、あたしはこういう事が出来るんだ。それで、お前さんの代わりに……」
話しながらゆっくりと目を開いた重子は、
「ありゃ、まぁ」
ため息を吐いた。
そこでは光里が倒れていた。三度目の超現実体験は、ついに光里の意識をすりつぶしたのだった。
「惰弱な……」
次第に猫の姿に縮んでいく瑠衣が呟く。
「そう言わないの。結構衝撃的な出来事ばかりだったじゃない」
「そーそー。まぁ、目覚める前に作戦でも考えよう、光里チャンのためにね」
次第に猫の鳴き声に戻っていく九匹。
そんな中で、力也だけは黙って、倒れている光里の方を注視していた。