幽霊ビル
大学を卒業後、とあるアパレルに入社した私は、ある年に小倉駅前の商業ビルに派遣されることになった。
九州という遠く離れた地に赴任し、新しい環境下で仕事の初日を迎えた。緊張はしていたが、以前の派遣先で作業に慣れていたため、淡々と仕事をこなすことができた。
八時に閉店すると、後片付けをし、ゴミをビニールにまとめた。確かゴミ集積場は地下三階にあると聞いていた。ゴミを片手で持つとひとりで階段で地下に向かった。
「新人さん」ととなりのテナントの中年の女性店員に呼び止められた。「ごみ捨てに行くの?」
「はい」と私は言った。「地下三階ですよね?」
「悪いこと言わないから、男性社員と一緒に行きなさいよ。女の子一人だと危ないから」と店員は言った。「私が呼んできてあげるわ」
中年店員は待っていなさい、と言うと男性社員を呼びに奥のフロアに走り去っていった。私は小倉勤務が初日とはいえ、ゴミ捨てぐらいひとりでできる。それに、ただの商業ビルの閉店後の店内に危険があるはずはない。余計なおせっかいをする人だ。そう思いながら彼女を無視してひとりで地下に向かった。
途中、こういう仕事では、普通の会社務めとは違って、自由にトイレに行くことが出来ない。ビルの閉店で売り場から開放されたこともあり、膀胱が疼いた。地下に向かう途中でトイレを探し、用を足そうと思った。
地下一階にトイレを見つけたので、ゴミ袋を入口に置き、トイレに入った。
トイレ内は掃除が行き届き、照明も明るいのだが、何か名状しがたい雰囲気に包まれていた。
便器に座り、用を足していると、誰かに監視されている気がして、悪寒を感じた。
ドアを開けて外を覗いたが、誰も居なかった。だが、リアルタイムに、私に対するなにかおぞましい視線を送る何かの存在を感じていた。
だんだんと気分が悪くなったので、手を洗ったらすぐに立ち去ろうと考えた。便器の排水レバーをひねるが水が流れない。故障か? 仕方なくそのまま出、洗面所で手を洗うべく蛇口をひねったが、ここでも水が出なかった。仕方なくそそくさと不気味なトイレを出て、ゴミ袋を持つと急いで地下三階まで降りた。
ゴミ集積場にゴミ袋を置くと、仕事から開放されてあとは帰るだけだと安堵した。この調子で明日以降も頑張ろうと思った。
刹那、ふたたび背中に悪寒を感じた。まるで胃が締め付けられたような吐き気を感じた。頭も締め付けられたように痛んだ。
がしゃり、と金属がふれあうような音が地下に響いた。明らかに、私の後ろに何かがいると感じた。
後ろを振り返った。
鎧兜と日本刀で武装した、血まみれの落ち武者が立っていた。
私は悲鳴をあげようとしたが、それは音にはならなかった。金縛りにあったかのように体が硬直し、声帯すら震わせることが出来なかったからだ。
落ち武者は右足を一歩前に出すと、がしゃりと鎧が音を鳴らし、私に一歩分だけ近づいてきた。
逃げようと私も右足を後ろに下げようとしたが、足はがたがたと震えるばかりでまったく動こうとしない。
落ち武者は左足も前に動かしてさらに一歩近づいた。
私は体を動かそうと脳から全身の筋肉に指令を出したが、筋肉は恐怖に震えること以外の反応を行ってくれなかった。
落ち武者は刀を天に振り上げ、攻撃態勢を取った。
私は足から完全に力が抜けて、尻餅をついて倒れた。
落ち武者は刀を振り上げたままさらに一歩近づいた。
私は泣きもせず、焦りもせず、怒りもせず、ただ笑っていた。私は人間とは本当に怖いときには笑うものなのだということを体感した。
落ち武者は私の足元まで近づき、刀を振り下ろそうとしたその時、
「新人さん」
と男の声がした。
刹那、落ち武者は瞬時に消え、私は恐怖に捕縛された体が自由になったのを感じ、体をひねって後ろを向いた。男性社員と中年女性店員が私の方に走り寄ってきていた。
「大丈夫かい?」と男性社員が訊いた。
私は首肯して言った。「落ち武者が……」
「だから危ないって言ったでしょう!」
中年女性社員は諭すように言った。
「ここの店、出るんだよ」と男性店員は言った。「幽霊がね」
ふたりが語るには、商業ビルの前身であるデパートが進出する際、お寺と主に武士が埋葬された墓場を潰してこのビルを建設した。ビルの基礎工事をする際、数百年前のものと思われる人骨が大量に出てきたとの事。ある程度の人骨は収集して、ほかのお寺に埋葬したが、工期の都合で残された人骨はそのままコンクリートで固められてしまったのだ。
それ以来、このビルの地下には頻繁に武士の幽霊が出没するようになった。あまりにも目撃談の多さに地下のトイレを封鎖したそうだ。
デパートをはじめとしたこのビルに進出した企業はいずれも経営不振で撤退していた。、それはこの商業ビルがお寺に眠っていた江戸時代の人の霊の呪いを受けたからだと噂する人も多いとか。
「地下のトイレが封鎖されたのですか?」
私はふたりの話を聞きながら中年女性店員の肩を借り震える足に力を加えて立ち上がりながら訊いた。
「トイレでの幽霊の目撃談があまりにも多かったし、お客様の間でも噂になっていたからな」と男性店員は言った。
「封鎖されたのはどのフロアのトイレですか?」と私は訊いた。
「そう、確か……」と中年女性店員は言った。「封鎖されたのは地下一階のトイレだったわ」