師・1
「ふうわ、あぁ……」
うう眠い。最近は特殊な事態が続き、そのせいか思いつくことが多いので、原稿用紙に向かう時間が多くなってしまい……。結果として、文字数と睡眠時間が反比例してしまいます。
欠伸を噛み殺しながら、取りあえず意識がしゃっきりしているうちに、これだけはしてしまおうと、リビングへ入ります。隠れてお昼寝をしようにも、まだ九時を少し回ったあたり。休憩するには早すぎます。
先生はこの部屋には滅多にお入りになりません。ですから先生のいない今、カーテンは開け放されています。あまりいい天気ではありませんが、人工ではない明かりが部屋を満たすのは、やはり世界のあるべきまま姿です。
この館は太陽の光が苦手な先生のために、暗さを維持できるよう工夫されています。……ただまあ、そのように設計されているわけでもなく、単にカーテンで窓のほとんどを覆っているだけなのですが。おかげで館は何所へ行こうが、夜です。それこそ天気の悪い日なら、昼間でも行灯は必要かもしれません。今のところ、私がお屋敷へ伺う日に雨が降ったことがありませんから、少し憶測を交えてみました。
私が使用人としてお屋敷に滞在するのは、唯一の休日である土曜日のみ。日曜日は校長先生の引率のもと、ミソジスト教会へお昼すぎまで牧師さんのお説教を訊くのが通例ですので、丸一日こちらにいられるのは、土曜日しかないのです。
では、土曜日に私がすることと言えば。
使用人としてお給金を貰っているからには、やはり使用人として働くのが筋というものです。従って、土曜日の太陽が上がっている時間は、使用人の他何者でもない仕事をして過ごします。それはもう、お屋敷に関することでしたら、全てが職務に含まれていると言い切れるのです。お掃除にお洗濯、はたまた先生のお食事の用意に至るまで。
リビング掃除を終えます。今度は、手入れされていない、野放しにされたままなお庭の掃き掃除をします。どうも私以外にも雇われている本物の使用人さんは、先生のお食事の用意と、目に見える範囲の掃除をするぐらいしかしないようで。おかげでお庭は荒れに荒れています。せっかくこんな立派なお屋敷ですのに、家の顔であるお庭がこんな様では隣家から不気味がられても仕方有りません。私とて最初にこのお屋敷へきた時は、引き返そうかと思ったのですし。
そうしないで大正解でしたが。
「のどかなりや 春の空 花はあるじ 鳥は友……」
ふと鼻歌を歌いたくなる気分というものがあります。普段なら天気のいい日に啓示が降りたように訪れるのですが、曇りな今日でも、口ずさみたい気分に襲われました。これといった理由はありますから、突然というわけでもないんですけれどね。今日は十五日。
ふと、私の視界に映ったものを見て、私はどうしようかと考えます。
なかなか大きな花壇があるのですが、雑草たちがそれぞれの領土を争っては、根っこを偵察に向かわせている始末。これでは種を撒いても、すぐ孤立無援になってしまうでしょう。まずは土から手入れをしないといけません。週に一度だけでは到底時間が足りませんので、暇であれば学校の帰りに寄りながらでも作業を進めましょうか。ああ、そうすれば、よりこのお屋敷へ来る口実となりますね。私はお花が好きで通していますし。……あ、これは本当のことですよ。というより、お花が嫌いな女性がどこにいましょう。
そう長期的な作戦を立てながら早々に庭掃除を終えた私は、次は先生の寝室へ入りました。
シーツをふぁさあと舞い上げます。そのままベッドに覆いかぶせて敷こう……としたところで、開け放しにしておいたドアがバタンと閉じました。怪奇現象とでも思いましたが、まあそんなことはありません。押し花のように潰して乾燥されたような声が聴こえてきました。
「暗くしろ」
もし泥棒さんがこの館に間違って侵入したとしても、この怪奇音を聞いたら、泣いて逃げ出すのではないでしょうか。か細い割にやけに迫力のある声です。普段声を出していないからこうなってしまうらしいです。
「はい先生」
私は、龍ヶ崎様のことを『先生』と呼ぶことにしました。何故私がそう呼ぶのかは説明したことがありませんが、「先生」と呼ばれて満更でもなさそうな表情をするので、なんの問題もなく多用をすることにしています。
先生。ああ、なんとうっとりとしてしまう響き。
私の好きな作家、我自権先様の小説では、学校を舞台としているわけでも、恩師と弟子という間柄でもないのに、「先生」という呼称を使うことが多々あります。その影響といいますか。私だってキヌほどではありませんが、影響は受けやすい性質なのです。
我自権先様に、敢えて先生という呼称を使う理由はなにか訊いたら、【大したことのないちっぽけな人間でも先生々々と崇められていれば知らず増長してしまうものです。小生はその夜郎自大を文字で『描』きたい】と返ってきました。我自権先様は男が自惚れ、女に溺れてしまい、結果として身を落としてしまう短編を多く発表しています。我自権先様は、その一点を突きつめたいのでしょう。そんな我自権先様を、陰ながら応援することしかできません。
私はカーテンを閉め、部屋を出来る限り暗闇にしました。これでこの部屋は、まるで草木も眠る丑三つ時。……とは言いましても、私は夜遅くに先生の寝室を訪ねたことはないですから、夜になるとこんな感じですかね、ぐらいの感想しかありません。
この部屋で、どんな夢を見ているのでしょう。
少しだけドアを開け、確かに暗いことを確認した先生は、ずかずかと部屋に入ってきます。
「……えっと」
よくよく考えますと、先生がどうしてここに来たのか、全く思い当たりません。普段は食事すら催促してこないのです。雇われの身としてはもう少し『云々をしろ』と命令してくれた方が、いつの間にか機嫌を損ねていた、なんてことが防げるでしょうからまだ気が楽です。
そう謎に思っていますと……、
先生はおもむろに、私の顎を左手の人差し指でくいっと持ち上げました。
それはさながら、これから口付けを交わす、前段階のように。
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