雇・6
「……悪くない相談だとは思うけどねい? リーベ、借金があるだろう? 震災の折り、店の再建でかなり大損を喰ったという話だ。女学生向けに柔らかく言えば、『借金取り』な怖い男たちは、貴方が学校に行っている時間に来ているようでね。知っていたかい?」
そんな話は聞いたことがありません。確かに先の大震災で、リーベは一度潰れました。しかしお父様はどこかからか資金を工面し、て、再建、を――ああ、つまりはそういうこと。
「僕は金字の財布の紐を握っていてね。無駄遣いはさせないでいるのさ。このお金でやりくりさせているわけだ。最近の金字はまた更に人気が上がってきていてね。少しだけ余裕が出てきたのさ。そうだね……具体的には、貴女の家の借金を、現金で払っても十分に余るくらい?」
――――。
「正直、貴女のご家族はとてもいい人たちだから、どんなことがあろうとも貴女を売る様な真似をしないだろうけどねい。自分の身体に代えても貴女を守りきる覚悟はあるだろう。……しかし、死地に向かわせなくてもいい方法があるなら、やらない理由もないとは思わないかい?」
田舎の方では、私と同い年ぐらいの女子が身売りされているとも聞いております。私だって、知らない・分からないでいられる立場にはいないのかもしれません。
「僕は嫌だなあ。穢れなき乙女が色町に飛ばされるのを黙って見てるだけなんて。……世の中には、そんな姿を見て大喜びをするゲス野郎もいるとはいえ、ね」
「…………」
宗司様の言葉に龍ヶ崎様は、そして発言した本人の宗司様ですら、苦々しい表情を隠すことができないでいました。
「それで、私ができることは?」
善意で肩代わりしてくれる……という話ではないでしょう。たった今宗司様が開かしたように世間とは裏があるのです。宗司様の言わんとしていることは私も薄々と気づいています。
「偏屈者でねこいつは。家に閉じこもってなきゃ執筆できないくせに、使用人に難癖をつけやがる。報酬をはずんでいても、暇を出されるのが後を絶たない。今は三食の用意だけを、知り合いに頼んでいるような状況さ。だったら、一人の女性に、ずっと金字を管理してもらった方が、引き継ぎなども煩わしくないし、金字にとってもいい影響を与えるかなって。編集者として、なにより親友として、さ」
金を出してやるから、買われろ。
言い方を悪くしてしまえば、そういうことですか。
「……あれ? そんなにお給金を払えるぐらい人気がある作家なのですか、龍ヶ崎様は」
そもそもの根本的な疑問が、私に湧いてきました。
だって私が文通している知り合いは、【物書きというものは人気者であろうとも日々を暮らすのでさえも冷や飯を食わなければ立ち行けないのです。物書きの冷や飯喰らいとはなるほど巧く言い表したものです】とおっしゃっていましたのに。事実そのお方の場合、全く知名度が在りませんから、印税などほとんどないに等しいでしょうし。
「ん? 『先書粒子』と名乗ってるね。もしかしたら知っているかな? 『せんしょつぶこ』などと読まれることも多いんだけれど、『さきがきりゅうし』と読むのが正しいんだ」
「し、知っています! 私のお友達が誤解をなくすため、草の根活動をしてますから!」
ま、まさか、龍ヶ崎様が!
先書粒子とは、今をときめくエス小説の書き手。私の女学校の中でも、先書粒子の連載を楽しみにしている人はかなりいます。その中でも、キヌは先書粒子の大ファンを公言しているぐらいです。むしろあの口調は、他のどのエス小説でもなく、先書粒子様の小説に出てくる主人公そのものの真似なほど。キヌほどではありませんが、私やハヤもよく読んでいるので、これはもう、驚かないはずがありません。
「わあ、すごぉい……あれは龍ヶ崎様のものだったんですね!」
「知っていたかい。流石、副業の方では知らぬ者はいないねい。……ふっ。女学生限定で」
「……笑うな宗司」
借金があることを吹き飛ばすほどの思わぬ衝撃に、私は憧憬します。意識せず、目に熱を点けてしまいました。
先書粒子として執筆されたお話は、それこそ私たちと同年代の女子が書いているのではないか……というぐらい、リアリズムに溢れているのです。それがまさか、まだお若いとはいえ、大人の男性が書いていたなんて。
「女学生の夢を壊すようで悪いけど、大半の少女小説家は男だったりはする。それにしたって、僕は金字のことを、無垢なる女学生を騙す男、と表現しておくよう。こいつの繊細な描写はあまりに女々しく、そこらの男じゃできるはずがないんだ。詐欺だねありゃ。その証拠に、女学生たちにとても評判がよく、大人には批判される。売れ筋も肯定しているね。そういうわけだから、先書粒子は小説家の割には荒稼ぎしてるわけさ。使用人一人に少々金額をはずむくらいこいつは痛くも痒くもなかったりする。それにどうせ、女を手籠にするような甲斐性はないさ」
「てご……」
そのような言葉に、私は顔が火照るのを感じました。
「うんうん、恥じいって赤くなる女学生はやはりいいねい。どっかにいる、男のくせに肌が白くて赤が目立つ誰かとは天地の差だよ」
「貴様喧嘩を売っているのか」
私の顔よりも更に赤い瞳で、龍ヶ崎様は宗司様の胸倉を掴みました。それでも「まあまあ」と落ち着いている宗司様を見る限り、これは日常茶飯事、二人の付き合いなのでしょう。
「貴方も、先書粒子は好きなのかい?」
「いいえ。あまり」
「お、おやあ?」
……まあ、読んでいるから必ずしも好きとは限りません。周囲と話を合わせるために読んでいる面もあります。私も、他にも好きなエス小説はありますし。
「本の向こうに生身の人間がいる実感ができたから、驚いているんですよ」
私がそう言うと、龍ヶ崎様は少しだけ嬉しそうな顔をしました。……好きではないと言われて、嬉しがる。いやいやで副業をしているということでしょうか。
「こほん。……まあ」
咳払いをした宗司様は、思慮気に顔を歪ませます。瞬きをしてしまっていたら気づけないほど一瞬だけ陰惨な笑みを浮かべた後、また先ほどまでの表情に戻りました。
好ましくない、顔でした。
「とある筋から聴いたけれど、貴方は小説家を目指しているのだろう?」
とある筋。……実お兄さまですか。それ以外の人物には明かしていませんから確定です。それこそハヤとキヌにも。実お兄さまにしたって、私が執筆している最中に突然部屋に入ってきたからばれてしまったわけで。そして、聞かれたら答えてしまうその明け透けな態度。帰ったらどうしてくれましょう。
「頼りないとはいえ、こいつもそれで食っていける程度には実力のある小説家のはしくれ。なかなかに、勉強になると思わないかい? 表向きは使用人として屋敷の管理をし、裏向きは書生として金字から技術を学ぶ。あまり悪い条件とは思わないけれど?」
世の中には裏があります。ですから宗司様は、言外にも大きな理由が隠して、私をそのような身分のしたいのです。……しかし私にとって、この提案は「知恵の実」でした。
「――ま、あとのことは君たちに任せるよう。結局は君たちの動き次第だしねい。今日のところはこれで僕は帰るけど、しっかりと考えておいて」
「え、だから、そこまで唐突に?」
そう言った宗司様は、私の制止の言葉も聴かずに、つかつかとリビングを出て行ってしまいました。残った者は、私と龍ヶ崎様。
「そのー、……どうしましょう」
固く瞼を閉じたまま、なのに空気だけで私を睨んできます。そうだとしても、この現状を打破しないのは嫌でした。
折角、初めてこうして、二人きりになれたのですし。
人と人の初対面は、大事にしないといけないのです。
「……宗司の野郎め。そこらにいる洋食屋の娘を連れてきおって」
やっと口を開いたと思いましたら、そんな辛口な言葉の数々。これが龍ヶ崎様から受けた言葉。こんな辛辣な言葉、私はこれまで受けたことはありません。おそらく、絶対に忘れることなんてできないでしょう。……いえ、忘れてなんて、あげません。一生、胸に刻みつけたままでいます。私は恨みを忘れないのです。
「本当に買われたいのか。なにが楽しくて女中などに身を堕とす」
「楽しくなんかありませんよ」
「ではその笑みはなんだ」
「……はい?」
私は、自分の顔を無造作に撫でます。手に伝わってきたのは……目尻の辺りに集まったお肉と、口角の上がり方。いけません、私は顔を引き締めます。
さて、私が起こすべき行動は。
こんな運命、いくら経験をしたいと思っても、多生を過ごそうが得られない、貴重すぎるものです。これを受けるか受けないか……これによって、私の人生は変わってしまう。それぐらいの予感が、私の胸を強く打ちます。
「小説に捕われた、私の人生の滑稽さに、ですかね」