雇・3
私が嬰女から帰り、家の扉を開けようとすると、違和感がありました。その正体はすぐ気が付きます。扉に『close』と書かれた看板が掛けられてあったのです。今日は定休日ではありませんし、なにか用事があるとも聴いておりません。お店を閉じるくらい大切な用事があるのなら、まず間違いなくお父様は私にきちんと説明してくれます。
少し不気味がりながら、唯一の店内へ続く扉を開きます。
すると、数日前にも来店なさった、スーツを着た男性が店内にいました。不思議なことにカウンター席でお父様と何やらお話をしていましたが、私が帰ってきたことに気が付くと、お父様はそそくさと厨房へ戻りました。
当然ですが、薄暗い店内に残されたのはお客様が一人。看板を仕舞っているだけあって、周りにお客様はいません。
「…………?」
「美古都」
「どうしたのですか、お母様。この状況は一体?」
お父様と入れ換わりに、お母様が私の前に姿を表します。
「…………」
それこそ、苦虫を噛み切るよう……と表現したくなるほど、お母様は普段の冷静さを忘れ、しかしどこか悲しみも率いた表情のまま、私の肩に、その細い手を乗せました。
「この方から話を訊きなさい。でも忘れないで美古都。お母さんたちは、あなたを捨てたわけではありません。少しだけ、少しだけでいいから、この人の言うことを受け入れて……」
そう言ったお母様も、先ほどのお父様と同じようなそそくさとした挙動で厨房へ入ります。
「…………?」
なにがどうしたらこうなったのか、皆目検討もつきません。私はいつもと変わらず学校へ通い、そしていつもと変わらず帰宅しただけですのに。
「はは。お帰りなさい、お嬢さん」
まさに紳士といった風体で、お客様は私の前で、腰を折って挨拶をしました。
「ところでお嬢さん。こんな晴れた日に、内に籠ってお話するのもなんです。ここは一つ、僕とランデブーと洒落込みませんか? ああいや、とは言っても行く先は、あまり明るい所ではございませんがね」
仕方がありません。お母様もああ言っていたことですし、不安は大きく残りますが、この殿方についていくこととします。
行き先を告げた男性は、まずは歩いてすぐ到着できる距離にある公園まで私を連れてきました。この公園は先の震災の折、区画整理によってできたかなり新しい公園です。少年たちの遊び場となっているところがなんとも和やかなところ。鬼ごっこをしたり、『やきゅう』というスポーツをして楽しんでいます。
リボンシトロンを買ってくれた男性と共にベンチへ座り、絶えず私に話題を供給してきます。しかしその内容はおそらく本題とは全く無関係な、ちょっとした世間話ばかり。とは言え退屈なわけでもなく、ついつい引き込まれるような話術に、私はいつの間にやら、身体を纏っていた緊張の糸を切っていたようです。
「ははは、いやあ、それにしてもいいものですよね、給仕服というものは。僕はメードというものに目がなくてね。貴方はとても、給仕服を着こなしていらっしゃる」
お客様が褒めていらっしゃるのは、リーベで評判の一つ、制服のことです。お母様の知り合いに、こういった服のデザインを生業としているお方がいて、その方に頼んで仕立ててもらったとても可愛らしい給仕服です。私がお手伝いをする時は、この給仕服で接客をします。
中世ヨーロッパを模した長衣。ハイウエストで腰をぎゅっと絞るため、身体全体が細く見えます(私みたいな体型だと、あまり強調したくない部分が強調されますが……)。スカートの裾はやや短めになっていて、その分、その下からレースがたっぷりと見えます。袖は広がっていて、なんだか提灯のよう。脚を覆うブーツは可愛らしい給仕服を一転、実務に耐えきるための道具なのだと強調します。
この給仕服を見るためだけに来店なさるお客様もいらっしゃる……とかなんとか、ハヤとキヌから聞かされました。
「あ、ありがとうございます……」
着ているモデルが私というのも、なんだかくすぐったい話です。それでも褒めてくださるのは花恥ずかしいですが、同時にとても嬉しいとも感じてしまいます。ごく自然に、笑みが零れてしまいました。
「――いい具合に緊張も解けてきましたね」
「は、はい……」
男性が現実に引き戻す一言を発したからこそ、やっと少し前の不安を思い出しました。
「御免なさい。貴女にとって全てが唐突すぎでしたでしょうから、少し遠回りをしてしまいました。それと、華麗な少女との会話を楽しめるという役得を楽しんでしまいました。ここで深く、お詫びを申し上げます」
仰々しく、お客様は若輩者な私に頭を下げました。男性なのに、こういったことを恥じと思わないのでしょうか。けれど私は軽蔑するどころか、むしろすがすがしくさえ思います。
このように、女性の機嫌を取ることに徹底するあたり、かなり『ナンパ』な方のようです。私のお父様も世間一般の父親と比べると優しいようなのですが、それにしたってこの男性は、度を超えているほどです。
「僕は……そうですね、クロック宗司とでも名乗っておきます。いえ、自分の苗字が嫌いなものですので、少々の御無礼を許してもらいたい。翻訳の仕事や、小説の編集などを主に職業としています」
「はあ……」
いきなりそんなことを言われても、曖昧な返事をするほかありません。
「貴女のお店に来たのはこれで二回目です。一回目は三日前の土曜日、混雑したリーベに来ました。覚えていますか?」
「はい。じょうれ……あの帽子を被った男性の方と同席していましたよね」
忘れるはずがありません。いつも一人で来店し、ライスカレーを注文して、店内を観察しながら、そして去っていくお方。そんな人と、親しげに話していたのですから。
「美古都さん。ものは相談なんですが、聞いてくれませんかね? 貴方が小説家になりたいと聞いたものですから、これは双方にとっても損の無い『取引』だと思っています」
「はあ……」
確かに私は小説家になるのが夢です。ただしそれは、とある人の影響であって、便宜的にそう言っているだけなのですが……まあ間違ってはいないので、否定はしないでおきます。
「それなら、是非会って欲しい人がいます。今から、そこへ行きます」
そう言って立ち上がった男性に、私は付いていくことしかできません