恋・2
「ほら、わたしの場所を開けろ」
三角形の頂点となるよう、私たちは位置を微調整します。ハヤはハンケチを取り出し、その上にそそくさと正座しました。
「…………」「…………」
私は思わずキヌと顔を見合せます。
「いただきます」
ハヤは風呂敷包みからお弁当箱を取り出し、蓋をぱかっと開けます。今日は煮物でした。
「はあ……」
しかし、ハヤはなかなか手を付けません。
なんとか人参の一つを摘まみ、口に運び、もぐもぐ咀嚼をし、嚥下。その後、さらに五秒ほど待ってから、サトイモを。
「…………」「…………」
おかしい。ハヤが。いつもお腹を空かせている、あのハヤが。
「どうしましたの隼さん。貴女の食が細いだなんて。恋をしている乙女じゃあるまいし」
こういう時、私とキヌの思考は一致します。私が思いついたことは、当然のようにキヌも思い至ってくれます。私が言いたいことは、キヌが代弁してくれます。
「はあ……こんなんでいいのかな、わたし。せっかく高女に通っているのに、『はにゅう』という言葉の意味すら知らないぐらい、学がない女で」
「今さらじゃないですの。勉強を教えているこちらの身にもなってほしいですわ」
「ハヤの場合、それはそれで可愛いからそのままでいい気もするんだけど」
しかし、どうやら悩みは、自分の学力のことではないようでした。
「なあ。ミス・ヤンデルは、かつての恋人を探すために日本へ来たとか言っていたよな?」
話をはぐらかしているのかとも思いましたが、今のハヤにそんな真似ができないでしょう。自分の気持ちに素直なのがハヤなのです。この質問も、なにかしらの意味はあるはずです。
「というより、いつも主張していますわよね。異言語なんていうものは、恋人を想いながら勉強をすれば勝手に修得できると。外国人の恋人などできそうにないわたくしたちに、そんなことを教えてどうするのかと思いますが」
しかしながら、何故そんなことを今更聴くのでしょう。我が女学校で英語を勉強している生徒は全員知っている情報です。それこそ一年生でも。
「そのぐらい、積極的になってもいいのかな……。日本人だと許されないよな……」
「…………」「…………」
私たちは、顔を見合せます。
かつての恋人を追いかけて日本へ来るほどの行動力のあるミス・ヤンデル。それを羨むという、その意味するところは。
「隼さん。あなたもしや」「まさかハヤ……」
なんと非現実的な。
「お相手は、どなた、かしら?」
「そ、そんなことはどうでもいいだろう、お前らに明かしても、詮無いこと――」
「よくありません! 許嫁ですか!? それとも道場の男性に!?」
「……落ち着きなさい美古都さん、今のあなたは怖いですわ」
だってハヤですよ、ハヤ! あの男よりも男らしい、ハヤが。黙ってなんていられません。
「どちらも関係ないと言っておく。お前らは知らない相手だ」
となれば、学校関連でもなく、道場関連でもなく。完全無可決、そこには私たちの知りえない『日下部隼』がいるのでしょう。私が見たことのない、乙女。
「一体、どのような出会いを……全く想像できませんわ」
「キヌは分からないのですか?」
「え? では美古都さんは分かっているとでも?」
「ハンケチ落とし」
さきほどの不可解な反応は、そういうことなのです。私は単語だけを伝えます。
「――――!」
「なるほど。そういうことですの」
ハヤの不自然な顔の赤らめも含めて、キヌはどうやら合点がいったようです。
ハンケチを落とし、それに気がついた男性が「お嬢さん、ハンケチを落としましたよ」と声をかける。拾われた私たちは、「まあ、ありがとうございます。このご恩をお返しさせてください」と、感謝を述べつつその男性との関係を作る。……女学生の間では実に有り触れた、陳腐とも言える『ナンパ』です。
「い、言っておく、おくけどな、わたしは別に、たまたま本当に、偶然落としてしまっただけだからな! そうしたらなんか向こうが勝手に、わたしがそういうことをしたと思ったらしくて、それで、…………、そのぉ……」
そこまで必死に捲し立てるとあっては、嘘ではないのでしょう。
「ハヤ。私たちはハヤの味方よ。そりゃ、興味ありますもの。茶化すこともある。けれどそれは、ハヤのことを想っているからなんだよ。もしもハヤのことがどうでもいいのなら、私たちは逆に、至極真面目にハヤの相談に乗ってあげることでしょう。それじゃ駄目なの。思い出してよ、私たちが三人、顔を合わせて笑いあったあの日のことを。今回もまた、笑いながら乗り越えていこうよ。駄目なの?」
「……聴いて、くれるのか?」
私たちには、私たちなりの距離があるのです。そこを踏み越えないからこそ、こうして三人が集結できているのですから、しっかりと保ちませんと。
「美古都さん。案外、人の上に立つ方が性に合っているのではなくて? 弱った隼さんの心に付け込みましたわね?」
「はて、なんのことかな」