表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
我流自権先  作者: いせゆも
30/52

恋・1

「この歌は、ニポンでも親しまれて、いるようですね。ですから、知っている人も、いるのでは、ないでしょうか」

 そう言って、ミス・ヤンデルは声色高らかに、一つの詩を歌いだします。

「Mid pleasures and palaces though we may roam,Be it ever so humble, There's no place like home.A charm from the skies Seems to hallow us there,Which seek thro' the world, is ne'er met with elsewhere.Home, home, sweet sweet home,There's no place like home, there's no place like home」

 私も聞き覚えがありました。日本では「埴生の宿」と訳されています。

 母国の言語を思う存分に使えるミス・ヤンデルはとても生き生きしています。私も英国へ留学でもして、日本語で話せる機会があれば、同じように嬉しくなるものでしょうか。かの津田梅子はすっかり日本語を忘れてしまって、生涯日本語に苦しんだとかは訊きますが。

 英国といえば、宗司様はそのような経験をしているはずです。

 宗司様。とても不思議な殿方。……気のおける、殿方。

「どなたか、ニポン語のバージョンで、知りませんか?」

「はい。知っています」

 席を立ったのは我らが級長、中屋敷絹。私も知っていますが、キヌが率先したとあっては、私は身を置く以外の行動はしたくありません。

「埴生の宿も わが宿 玉の装い 羨まじ のどかなりや 春の空 花はあるじ 鳥は友 おお わが宿よ 楽しとも たのもしや」

 ミス・ヤンデルに負けないぐらい、それこそ自分の存在を世界の片隅で見守っている神様へ届けるようキヌは歌い上げます。声量は声楽部ですら欲しがる逸材。

「見事。そうですね。この歌は、自分の家こそ、他のどの宿よりも、一番いい、ということを言っているのです。なかなか上手い訳し方をする方も、ニポンにはいるものです」

 キヌの完璧ぶりに、教室中が羨望の眼差しをキヌへ向けました。私たちが関わらないキヌは才色兼備の優等生そのもの。凛とした背中には、私もハヤも憧れているのです。……いえ、正確に表現すれば、私は『前から憧れて』いましたが、ハヤは『憧れるようになった』のです。

 ちょいちょいと、隣の席に座るハヤが、指をほんの少しだけ動かしていました。なんでしょう。私がそちらへ注意が向いていると、小さな紙片を私に渡してきました。

『はにゅう、ってなんだ』

 そんなことが書かれていました。平仮名ですと、とても間抜けですね、埴生って。

 ほとんどの学生にとって、勉強の時間なんて暇なものです。学問に王道はなし。例え全てを意のままにできる王であろうとも、地道に基礎を積み上げる以外、直ちに修得できることはできません……とは綺麗事を言いますが、つまらないものはつまらないのです。逆に言ってしまえば、基礎となれるものはつまらないものだけなのです。私たち女学生とは、刺激を求める生き物。変化のない日常の一風景など、あまり興味を持てません。

 まあなんやかんやで、こうして紙が回ってくることはあまり珍しいことでもないのです。

「…………」

 少しイタズラ心が湧いた私は、『埴生とは、』とだけ記入をしておき、そのまま後ろへ流します。私の後ろに座るのはキヌ。ミス・ヤンデルの賛辞を「いえいえ、それほどでも」と謙遜になっていない謙遜で流し、着席したところに渡しました。どさくさだったので、ミス・ヤンデルにばれてはいないでしょう。そんなヘマは犯しません。

「あ、……」

 後悔の声を上げてももう遅い。キヌはすでに読んでしまいました。

 見えます。視えませんけれど、見えます。キヌの顔は今、「あら隼さん。そんなことも知らないのかしら?」という文字に歪んでいることでしょう。

 さらさらっと板書する以外の筆跡の音を演奏させたと思ったら、私の左目の片隅にキヌのセーラー服の袖がちらっと映りました。キヌの隣に座っている水城さんの手に紙片が所有権を動かされたことになります。渡された水城さんはふふっと鼻だけで笑いました。キヌの意図に気が付いたようです。

 適当な一文を繋げていって、無秩序な一文を完成させる。誰がどんな文節を加えるか想像もできませんから、完成した文章を読むと、おかしいことおかしいこと。たまにこういう遊びを、クラスを巻き込んでキヌが始めるのです。

 水城さんもまたなにやらちょこっと書き加えて、隣の秋口さんへ。流れは伝染していき、横の波だけでは飽き足らず、今度は前へと流れます。最終的にはぐるっと教室を回っていき……、

 そして、ハヤの手に戻ってきました。

「…………」

 受け取るべきか惑うばかりのハヤ。渡そうとした小鳥遊さんも、「あ」といった表情をしました。人造人間ロボットに渡しても意味がないと思ったのでしょう。色々と面倒くさい諍いがあるのです、ハヤは。だから発端はハヤだとしても、こうしてまごつくことも仕方がないのです。

 それでもハヤは、ゆっくりと手を差しだしました

 あの紙片は、小さい範囲ながらも大きな旅をして、今、ハヤの手元に戻――るところを、ミス・ヤンデルに掴まれました。

 ……教壇に立つ教師としましては、生徒がどんな小賢しいことをしようが丸見えなわけで。

 教師によって対処方法も変わってくるものです。

 元凶となった者を取り締まる教師。

 騒動に参加した者は全て同罪な教師。

 適当に泳がせておいて無差別に被害者を選ぶ教師。ミス・ヤンデルは、三番目でした。

「ミス・クサカベ。今日のハンケチ落としの被害者はあなたですかー」

「っ!」

 おや? 肩に手を置かれた瞬間はともかく、ハンケチ落としと言われた瞬間、とても大きく身体を振るわせたような。

「罰として、聖堂の掃除をしてもらいまーす」

「…………! …………! …………!」

 そして今度は、半分くらいの濡れ衣を取り払うための抗議を。少し涙目になったハヤは目だけで私かキヌに助けを求めます。いつもなら男性ですら圧倒する三白眼も、乙女の涙を浮かべているとあっては形無しです。

 ポン。私も肩を掴まれました。掴んだ相手は分かっています。キヌです。私は首肯します。それだけで意思は伝わったはずです。キヌにだけでなく、ハヤにも。

 ハヤ。頑張っておいで。努力は、必ず報われるから。


   ・


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ