雇・2
二年生になってから一月が過ぎようとし、やや新しい学年にも慣れ始めた今日この頃。校舎へと通じる坂道をえっちらおっちらと上っていますと、うっすらと額に汗が浮かんできますが、風がすぐに吹き飛ばしますと、そのような痕跡など残りません。ああ風よ。なんて頼もしいのでしょう。慌てた証拠など何所にもありません。私は家からずっと静かに歩いてきましたと言い張れるではないですか。
咲き誇っていた桜や梅もすっかりと散り、もはや春というよりは初夏と表現した方が近いほど。世の中に絶えて桜のなかりせば春の心はのどけからまし。最近習った和歌を暗誦したりもしてみました。私は春が好きです。和歌において花とあれば、それは梅か桜のこと。平安の昔から愛され続けている心は、現代を生きる私にも面々と受け継がれています。
どうにか嬰女へと近づく頃合になりますと、同じ学校に向かう生徒の姿がちらほらと増えてきました。……と、と。そんなことを悠長にしている余裕はありません。
嬰格高等女学院。名は体を表すと言いますのは、その通りだと私は思います。
キリスト教を広めるという名目のもと、現在の学院長によって設立されたこの高女も、現在では良家の子女が集まる学校として有名となりました。賢母良妻を目指して日々女性としての嗜みを修得するため、若き女子たちが励み合う場所。
もっとも今時、女性というものは家庭だけに留まるものではありません。職業婦人のような働く女性というものも、嬰女では多いに推奨しています。男性が軽視しているほど、女性は弱いものではない。もっともっと社会へ飛び出しても荒波を超えていくことができる。我らの手で、この日本という国を、女性によって導こうではないか。そういう校風です。
……とは言いましても。
私のような、どうも女性的とは言い難い生徒も居てしまうことには居てしまうのです。言っていて悲しくなりますが。
教室へ着くとほとんどの生徒が着席をしていました。もうすぐベルが鳴るのです。なんとか身体を滑り込ませるようにして椅子に座り、息を整えているうちに、もう一時限目の先生が来てしまいました。
ちょんちょん。私の肩が、何者かによって突っつかれます。私はその主の目的に沿うよう、首だけを少しだけ横に向かせました。匂い袋から、甘い香りが漂ってきます。私はこの香りが大好きです。彼女の本質を象徴するようですから。
「ごきげんよう美古都さん。間一髪でしたわね。運がよろしいことですわ」
「あはは……お恥かしながら」
学友のキヌにそう答えます。すると私の隣の席にもいるもう一人の学友、ハヤまでがぴくりと反応しました。けれど彼女は人造人間の最中ですので、それ以上の行動にはなりません。
「うふふ。本当に美古都さんは嬰女の生徒なのかしらね? つくづく疑問になりますわ」
とても嬉しそうに私のことを責めてきます。一度調子付かせたらどうしようもありません。
「うう……言い返すこともできない……」
毒舌なのは知っていますが、ここまで本心を突かれますと、人と言うものは激情するか落ち込むかのどちらかなのです。私は後者でした。
「お静かに。級長、号令をお願いしますよ」
「はい。起立。令」
国語の教師、ミセス真田の指示のもと、それまで少しだけ残響していたひそひそ話しもぴたりと止まり、すぐ授業の体制へと移ります。私もキヌも、身体に染み付いた一連の流れに任せます。――私は今日も、いつも通りの朝を過ごせました。
そして一時間目も終わり、休み時間、私は風呂敷から教科書を取り出していると、さきほど私の肩を叩いた学友が、今度は立ち歩いて私の席へ近づいてきました。ミセス真田はとても厳しいので、授業中に手紙を回したとしても、目ざとく発見してしまうのです。授業中に私語でもした日には。……考えたくもありません。そういう意味で、ようやく自由に話せる時間が到来してくれました。
「ごきげんよう。いつもは早くに登校しますのに、今日は遅かったですわね。やっぱり食事処を経営していると、仕込みとかを手伝わされたりするもので?」
そう高圧的に言ってきたキヌは、私へ一通の手紙を差しだしました。私はささっと受け取り、すぐ机の中へ隠します。今日はあちらの番。明日は私から。
「ごきげんよう、キヌ。いえ、前から言ってるけど、実お兄さまと博お兄さまが下準備をするから、私はもっぱら接客担当だよ。それでもなんで遅れたかって言うと……あはは、少し、用事があって」
「煮え切らない、か。ほうほう、どうやら嘘のようだな。大方、我自権先とやらの小説を読んで夜更かしをしたというところだろうけどな」
少々どころではなく言えません。ですから茶をお濁しています。だといいますのに、私の隣の席に座っているハヤが、無表情でその目は本に釘付けのまま、口を挟んできました。
珍しい。ハヤが自ら口を開封するなんて。……しかもいきなり核心を貫くなんて。
「……なんですって? 美古都さん、またそうやって勉学に集中していない振りをしておいて、力を加減してわざと二位を取ると、そういう魂胆ですの? 趣味で時間を潰し、学業を疎かにするような女性と、わたくしは思っていなくてよ。あなたはもっと机に向かって、小説などではなく、教科書を読むべきですわ」
「キヌに言われたくないもん。……いえいえ、私は本当に夜更かしを、」
それでも私は頑張って態度を崩しません。だって悔しいんですもの。こんなにいとも簡単に、手の上で転がされるだけなんて。そうです、事実です。悪いですか。
「まったく。そういった行動はおよしなさい。あなたは嘘をつけない性質なのだから」
セーラー服を翻すは中屋敷絹。私はキヌと呼んでいます。お友達の一人。
小説に出てくる女学生のような口調をしていますが、キヌはその通り、『少女の友』や『少女倶楽部』と言った雑誌を愛読書とし、『花物語』の単行本の発売を待っているような、典型的な今時の女学生なのです。
しかしこんな口調をしているのも、学校の範囲内でのみ。老舗呉服屋の娘として昔から厳しく躾けられているため、せめて学校ぐらいは好き勝手にさせてほしいと、あえて小説の世界では普通に生きている、「女学生」の演技をするのです。
それはいいのですが……呉服屋の娘なのにセーラー服とはこれいかに。やはり両親から「差服を着ろ」と口うるさく言われているようなのですが、キヌの決心は固く。頑として、学校では和服は着てこないのです。それどころか、私たちとどこかへ遊びに出かける時もまず洋服。私たちは、キヌが自宅以外の場所で、和服を着ている場面を見たことがありません。
「お古都がわたしたちを出し抜くには、あと何年の時が必要なんだろうな」
和服を動かさざるは日下部隼。ハヤと呼んでいます。もう一人の、私の大切なお友達です。
道場の娘で、昔から男に混じって育てられたためにこうして男のような口調になってしまったのだとか。せめて女らしくなってほしいと高女に入れられたわけですが、結果はこの通り。ハヤとは対照的に、こちらは家でも学校でも同じ姿勢を貫き通しているのです。
だからと言って、学校でも道着なのはどうかと……。キヌに頼んで改造してもらっているため、ぱっと見では単なる茶式部のようにも見える、不思議な服となっていますが。まだ嬰女は制服が義務付けられていないとはいえ、この恰好は目立ちます。まあ普通に和服を着ていても、暖かい季節なら常にたすき掛けはしているような女子です。袖が煩わしいのだと。その割には、振り袖を着たがっています。その辺りの感覚は、私と相入れません。
と、こんな見た目も中身もおかしな二人が、私の一番のお友達なのです。
本当、私もどうして一緒に居るのか分かりません。ですが、この三人でいる時間が、学校では最も長いのです。人付き合いというものは、真に不思議なものです、
「む。お古都からおかしな気を感じたぞ」
「あら美古都さん。今さら私たちのことをとやかく言うおつもり? そういうあなただって今時、袴を着用しているではありませんか。時代は洋服ですわよ」
……顔に出るのでしょうか私。ほぼ同時にキヌとハヤから心の中を覗かれました。
「今時ってほどではないと思うんだけど……それに、私は袴の方が可愛いと思うし」
しかしそんな私の好みとは裏腹に、今年になって嬰女では、来年度から制服を導入しようではないか、という動きも見えているのです。現に近くの女学校でも既にセーラー服ですし、わが学校で和装の生徒が見られなくなるのも、時間の問題だというものです。
「あ、まずい。先生が来たぞ」
「あらいけない、ワタクシとしたことが」
二時間目は修身の時間。私は少し苦手です。少し憂鬱になりました。