書・6
私は宗司様に頼まれた通り、書斎へ脚を踏み入れます。先生を宗司様がリビングへ誘導している今が好機なのです。
ここが、あの先生の本拠地。そう考えれば、自然と気力もわいてくるというものです。
【小生は筆が走っていれば書斎からまず出ません。おかげで床には原稿が散乱するばかり。畳が墨で黒くすらなっているのです。君のように家事のできる女性が細君に来てくれればと何度思ったことか分かりません】
あの方はそんな風に申していましたのに、先生の書斎は想像したよりも綺麗でした。
と言いましても、もちろん埃は溜まっていましたし、空気は淀んですらいます。私にとっての書斎というイメージとは、あの方の描写通り、丸められた原稿用紙が無造作に捨てられた部屋です。屑カゴがあるのですから、そちらに捨てればよろしいのに。「こんなちまちましたところに捨てられるか」とか、そういったことでしょうか。
初めて見た作家の部屋はいかにも男性の部屋といった趣でした。洋館であるのですから、大きなデスクがあるのはなんの間違いでもないのですが、同時に黒の光沢がある文机まで置かれているのは、いかにも先生の気難しさを象徴している気がします。どちらを使っているというわけではなく、両方とも使っているようです。デスクにも文机にも原稿用紙が散乱しています。
私はデスクに適当に散らかされているようですが、おそらく先生にとっては法則をもって置かれている原稿の、一番上の一枚を手に取りました。【向日葵時代・二十三】とあります。一番人気のシリーズです。その最新話。つまりこれが、あの有名作家の生原稿。キヌ辺りが見たら泣いて失神しそうです。誇張では断じてなく。
「…………?」
どうして先生は、原稿用紙を縦にし、英語のように横書きをしているのでしょう。横文字を使うなと言っているのに、自分は文字を横にしているのですか。よくわかりません。
……というより、こんなことをしている暇はありませんね。興味が強く惹かれますが、今は宗司様のご命令通り、掃除をしませんと。……ああ紛らわしい。掃除と宗司。
箒とハタキを持ちだし、どう掃除をしていこうか検討を付けます。原稿用紙を捨てたりしたらまずいでしょう。そちらには手をつけないように。
まず家具の埃取りといきましょうか。日頃から宗司様が部屋全体を軽くなら掃除してくれているようですが、こういうのは「やる」と意識を持たない限り、なかなか手が回らない場所でありますから。……まあ家具と言っても、デスクと文机の他は、本棚しかないのですが。
先生が先生である証は二つの机に現れていますが、先生が作家である証は、本棚に集約されていると言っても過言ではありません。そのぐらい、書斎は本棚の森です。下手をすると、窓でさえも本棚で隠されようとしている始末。日差しが嫌いな先生ですから、完全に閉じ込めてしまおうとしたのでしょう。それは宗司様がお止になったと。容易に想像できます。
本の大半は外国からの輸入品でしょうか。少なくとも、日本語ではありません。英語もありますし、漢字ばかり……つまり中国語ですね。他にも、フランス語、ロシア語……ありとあらゆる国の本が並べられています。
その中でも異色を放っているのが、先生が先書粒子として出版なさっている、これまで全てのエス作品。どれもこれも、キヌの部屋の本棚で見たことがあります。
「――――!」
玄関の方から、叫び声が、こんなところまで響いてきました。
「 」「――! ――――! ――!」「 」「――――!」
僅かな空白があることから、先生が誰かと言い争いしていることは分かりました。先生がここまで声を荒げることも珍しいものです。原因は、まあ……そういうことですか。
ドン、ドン、ドン。大きな足音をたてて、何者かがこの書斎へ一目散に近寄ってきます。書斎の目の前で音が止んだかと思っても、その静寂の刹那は一秒も満たしません。
「おい!」
扉をバタンと痛めつけるように開けて部屋へ入ってきたのは、当然ながら、先生。普段あまり運動をしないのに走ったからか、かなり息を荒げていました。
「小娘、お前、どうしてここにいる!」
「いえ、その、宗司様に頼まれまして。執筆に支障が出るほどだとか。最近筆が遅い原因は汚いからだとかで」
「宗司の奴……!」
「待ってください先生」
踵を返してまたリビングへ戻ろうとする先生を、なんとか
「先生に無断で書斎へ踏み入れたのは謝ります。そして、宗司様を責めないでください。全てはそれを受け持った私の責任です」
「違う俺が気に食わないのはそこではなく、俺の素性を暴こうとする宗司の――」
そこまで言ってから、しまった、と顔をそむけました。
「原稿は見てなかろうな……!?」
「文机の方には近づいてすらいません。ですから、見られませんでした」
「…………!」
「あの、先生……? 文机の原稿には一体、何が書いてあったのです?」
「うるさい! お前には関係あるものか!」
そう言って身体全体で文机を庇って隠し通そうとした先生は、子供そのものでして……私には、到底それが、大人の姿だとは思えませんでした。
「やっぱりこうなったか」
後からゆっくりと参上なさった、宗司様。余裕綽々の笑み。
「ああ、ありがとうね美古都ちゃん。掃除はしっかりとやってくれたみたいだ」
その言葉は本来なら適切でありながらも、この状況では最もそぐわないものに映りました。
「後のことは僕が引き継ぐからさ。僕の仕事だ。美古都ちゃんはこいつを放っておいて、帰ってくれないかな。金字も、美古都ちゃんに情けない姿は晒したくないと思うからねい」
こう言われて、尚も口を開かない先生。私にできることは、ただ宗司様に従うだけでした。
「宗司様。一つだけ、お願いがあるのです」
「うん? なにかな。僕は自分の可能なことなら、どんなことだって叶えてあげるよう」
大人として、嘘偽りのない純粋な社交辞令。
でしたら私も、子供として、嘘偽りのない純粋な敵意を剥くまで。
「これ以上、先生を苦しめないでください。私は嘘つきが嫌いなんです。私の一番嫌いな人間が私自身だということで、少しは汲み取って下さい」
「あっはっは。ごめんね美古都ちゃん。それはね……――無理なんだよ」
私は宗司様によって背中を押され、無理矢理に部屋を追いだされてしまいます。ガチャン、と硬質な音が小さく鳴ります。
私が部屋を出る時に、見逃さないものが二つありました。
一つは、先書粒子の作品のように、整頓された……それでいて、片隅においやられた、我自権先様の全発行作品。
そして、文机の上に置かれた……私の、手紙。
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