書・3
「そうだ宗司様。私、これから少し休憩するつもりなんです。ここで立ち話もなんです。少し、お茶しませんか?」
「お、これ以上ないほど魅力的な提案だね。砂漠の水さ」
そう言って笑った宗司様は、勝手知ったる他人の家、「お邪魔します」の挨拶を除いては遠慮することなく、お屋敷へ入っていきます。私も宗司様の後に続きました。
リビングのテーブルの上には、原稿用紙の束が乗せられていました。一番上にはメモ用紙が貼り付けられていて、『今月分』と達筆な文字で書かれていました。
「金字は頼んだ仕事ならきちんとこなしてくれるから楽だねい。こちらが下手に出る必要もないし、まさに僕の担当となるべき小説家だねい」
遅い遅いと嘆いてはいても、期日通りに完成させておいた先生に、宗司様はご機嫌です。
「しかも、こんなに可憐な女の子がお茶を入れてくれるなんて……んー、僕はなんて幸せ者なのだろう」
「今日もほうじ茶でよろしいんですか?」
紳士然とした宗司様に、湯呑みと熱いお茶の組み合わせはどうにもちぐはぐな気がして……私はついつい、何度も聞いてしまうのでした。
「大いに結構」
「宗司様には紅茶の方が似合うと思いまして」
「なあに、紅茶なんて英国に留学していた頃、浴びるように飲んでたからねい」
その発言は、初めて聞きました。まさか宗司様、留学経験がおありだなんて。
さりげないことに、先生の素性が不明な以上に、こうして何度もお茶をしあっているというのに、宗司様がどんな生い立ちをしてきたのかがまるで掴めないのです。
「やはり外国は、大層素晴らしいところなのですか?」
「んー、所詮は住めば都、なんだよねい」
宗司様はほうじ茶をテーブルにことりと置きました。
「僕はヤンデルという英国の家族に、書生のような暮らさせてもらっていて。いやー、あまり楽しくない毎日を過ごしていた。極東からきた猿なんかを、って扱いをされたさ。僕は負けず嫌いだから、そうやって僕を莫迦にするような輩は実力だけで捩じ伏せてきたけれどねい」
得体のしれない宗司様なら、やらかしそうなことです。
「でも宗司様なら、英国でも私と同じようにナンパしそうですね」
私はくすくす笑いながら言いました。
「ははは。そう言われたら痛いなあ。告白させてもらうと、向こうでは一人だけ恋人がいたなあ。その女性にしか、愛の言葉は呟いていなかったさ。むしろ英国といえば、あそこのメイドは独特な良さがあるねい。なんというか、日本の女中とは全くの別物だ」
軟派でそう間接的に私のことを褒めているのではなく、もっと単純にメイドという存在そのものが好きなようでした。こればっかりは、宗司様の男性であるところが出ているのでしょう。
「これは金字も同じなんだけどね。あいつも可愛い女の子は好きなんだよやっぱり。良い伴侶と添い遂げたいと思っている。はは、やはり男といえど、恋に生きる生物なのかなあ」
「先生も?」
先生と恋は、間違っても結びつかない気がするのですが。
「何を言ってるんだい。金字がどんな小説を書いているのか忘れたのかい? いくら嫌々だからと言っても、想像する余地がなければ、原稿用紙にインクを乗せることなんてできないさ。心の奥深くでは、ああいったことを望んでいるんだよ」
「ああ」
先書粒子。女学生に人気のエス小説家。そりゃ、恋の一つも知っているというものです。
「まあ僕は写実主義者ではないけれど、経験の伴っていない小説ほど間抜けなものもないとも思っている。そこも金字と同じなのさ。僕と金字はこれでも似た者同士。……同じ相手に恋をしたという意味でもね」
「さぞや、熾烈な争いが繰り広げられてそうですね」
「さあ、どうだろうねい。忘れたよ」
……金字様や宗司様は、こうして自らの過去を、自分からなら明かします。けれど、私が詮索しようとすると、のらりくらりと逃げるばかり。
まるで、私をどこかに誘導したいみたい。
「あいつが人気なんだから、世の中は分からないよねい。ほら、生原稿を見てみるかい?」
「いえ」
断ります。キヌよりも先に読むと、何されるか分かったものではないので。私には、先書粒子に本気になっているキヌと、似非エス気を催しているハヤが、なによりも怖いのです。あれらだけには勝てる気がしません。
「…………」
宗司様は小さく舌打ちをしました。してから自分の行為に気が付いたらしく、誤魔化すようにお茶を一口含みます。「いやあ、うっかり舌を火傷しちゃったよう」などと言いますから、私も「もう宗司様ったら。意外におっちょこちょいなんですね」と言っておきました。