書・2
「まあ宗司様ったら」
小説に我自権先様から頂いた栞を挟んで、ひとまず椅子の上へ。緑霊館へ来館される唯一のお客様へ、使用人として応対することとします。
「いやさあ、可憐な花が庭に咲いていると思ったら、美古都ちゃんだったのかあ、ってね」
宗司様は柵から顔を覗かせながらそう言います。往路と家の敷地という、繋がっているようで分離してしまった世界。あたかも演劇。私のような女学生なら普通は、このような状況に置かれてしまえば胸がドキドキしてしまうものです。
「お上手なんですから。先生風に言えば『小娘』な私を口説いてどうするのです?」
「ははは、あながち冗談のつもりではないんだけれどねい。単語というものは、使われれば使われるだけその価値はデフレーションしてしまうんだ。いつも誰かの世辞を言っている商人のお褒めの言葉と、決して褒めることのない職人のお褒めの言葉、そこに込められた重さは一緒なのかなあ? って考えが僕にはあってね。だから、思ったことは思った瞬間にしか口には出さない。僕が美古都ちゃんを褒めるのは、然るべき場面だからなんだよ」
つい先ほど顔を赤くしたのが持続したのか、まるで宗司様のお世辞に顔を染めたようになってしまいました。ああ、それもこれも、宗司様が悪いのです。宗司様のような優しい笑顔でお世辞を言われてしまえば、ハヤのように普通の女性ならば惚れてしまうというもの。
「ははは、なんだか、口説くのが先になってしまったね。改めまして。やあ美古都ちゃん。金字は居るかい?」
「はい。先生はいつも通り、書斎で執筆中ですよ」
「よかったよかった。ちゃんと仕事をしているようだね」
この曜日・時間になると、宗司様はスーツ姿に帽子を被り、トランクを片手に引き下げて、お屋敷へとやってくるのです。宗司様は先生の編集者をしているというだけあって、公私に渡り、実に幅広く先生の世話をしています。私が先生の使用人だとしたら、宗司様は先生の秘書といった面持ち。その活動の一環が、日曜日に家庭訪問、というわけです。
「近頃の金字ときたら、なかなか締め切りを守れなくなっててねい。困ったものだよう」
「あら。先書粒子といえば、速筆も売りでしたのに」
「スランプってやつなのかなあ」
「そうですね。私も自分で書いているから分かるのですが、どうやったらあれだけの速度を維持できるのでしょう。まあ、これまでが早すぎたくらいだからねい」
最近の先生ときたら、題材探しをしている時間が増えているようなのです。おかげで私が緑霊館でお勤めをしていますと、ちょっかいをかけてきますこと。
現に今も……私の上で降り注ぐ視線が……。
こう表現すると、まるで怪談です。しかし、本当に先生が私を睨んでいるのですから、笑い話にもできないという。うーん。できれば、宗司様を睨んでいるものと思いたいのですが。
理由が思いつかないところが、また厄介です。私がしていることといえば、宗司様とちょっとした世間話をしているだけですのに。
「…………」
「そんなところで羨ましそうな目をしてるくらいだったら、降りてきたらどうだい?」
まだこちらを睨んでいる先生へ向けて、宗司様は少し大きめの声を出しました。
「なんだろうかなあ、あれ。天照するの。体質は言い訳にならないし。締め切りが迫っても完成してなかったら、よく逃げまわってるような男なのにねい」
「以前までの先生は、そんなに仕事を抜け出していたのですか?」
女子が二人きりでひそひそ話をするように、私たちは近づきあって呟きます。
「んー、そうだねい。最近は目に見えて回数が減ったかな。どうにも金字は逃走癖があるようで。少しでも執筆の手が止まると、題材を探しに町へ繰り出すんだ」
毎週決まって『リーベ』へと顔を出していたのは、おそらく宗司様から逃げるための習慣だったのだと、私は想像しています。それ以外の可能性は……あの先生に限ってはないでしょう。確認を取ろうとしたところで、先生は正直に理由を明かしてくれるはずもありませんし。
「もっとも、リーベは別の曜日に行くようになってしまったけれどねい。似非美食家のあいつだから。あのぐらい美味しい洋食を出してくれるお店は、それだけでも十分通う価値があるものなのだろうねい。美古都ちゃんがいなくても」
「まあ。有難うございます」
お店をよく言われるのは、無条件に嬉しいものです。
「いやいや。社交辞令じゃないよ。大体、大切な休日の看板娘を奪ってしまった僕は、どれだけ謝っても謝り足りないぐらいだからね。できることとすれば、各々の方面へ、美味しい洋食店にリーベの名前を挙げて宣伝するだけさ」
「それはそれは。もうこれ以上、私はどう謝辞を言えばいいのですか宗司様に」
「はっはっは。世の中、持ちつ持たれつ、さ」
本当、宗司様とお話をしていると、世の中は全て繋がっているのだと思えてきます。
「いやー面白いよ世界って。何故にこうも、均一というものがないのだろうねい。……だからこそ、金字のような『異質』は、どうしても浮き彫りになってしまうのだけれどねい」
苦々しげに、そう言いました。宗司様はいつも先生のことを酷くおっしゃいますのに、自分以外の人間が先生をこき下ろすような態度をすると、こうしてとても怒るのです。
これが、男同士というものなのでしょうか。
お互い、口では罵り合っていますが、心の奥深いところでは、結びつきあっています。これは、間近で見ている私だからこそ感じることです。おそらく、お二人は一生かかっても、私の気持ちに共感することはないでしょう。