雇・1
「美古都。これを三番のテーブルへお出ししなさい」
「分かりました」
私はお母様から受け取った、液体と固体の間を彷徨っている、黄色というよりも金色と称したくなるオムレツを、三番のテーブルへ持っていきます。
「お待たせしました。こちら、オムレツです」
「ありがとう」
オムレツから漂う、卵とトマトソースが調和されているほかほかの湯気を堪能したお客様からは、自然な笑みがこぼれます。私が作ったわけではありませんが、お父様の料理が無言の称賛を浴びたような気がして、私まで笑顔になってしまいました。この喜びがあるから私は、喜びを栄養として、店内を笑顔のまま縦横無尽に駆け回ることができるのです。
そのまま厨房へと戻ると、お母様はまた私に料理を渡します。
「美古都。しっかり顔を引き締めなさい。それと、テキ。こちらは七番のテーブルへ」
「はい!」
次から次へとお母様から料理を受け取り、私は店内を忙しなく動き回っては、テーブルへと運ぶ作業に没頭していきます。
土曜日ともなると、お客様で店内は大変繁盛をし、従って学校も休日な私は、午前からお店の手伝いをします。お父様・お兄様が厨房に入れてくれないので、調理をしない私のすることと云えば、専ら接客です(断っておきますけれど、普段の食事なら、お母様の代わりに支度をしたりもするので、割と得意です。今すぐお嫁にだっていけると自称しています)。
フロアーは私が一人で回していますので、目も一緒に回ります。ただひたすらに、厨房とフロアーをいったりきたりする獅子脅しのように単調、かつ忙しさを味わうのです。
しかしさすがは休日です。あとからあとから注文が湧いて出てきます。お昼ご飯も食べられず、朝からずっと働きっぱなし。私がお父様の作るライスカレーをご相伴にあずかれるのは、あと二時間ほどでしょうか。
しかし、忙しいのは身体には辛いですが、お店が繁盛することは素直に嬉しいものです。いくら「辛」くても、棒を一本足して「幸」せにすることができます。……とは言いますものの。
私は無償の奉仕をしているわけですが、少しぐらい、ほんの少しぐらいは、ご褒美の一つも欲しくもなるもので。……むう、両親を支えるのに、見返りを求めるなんて。この親不孝者め。
私は自らを諌めます。頬を軽く叩いて気を引き締めることにしましょう。ゴーン、ゴーン。店内に、重厚な音が響き渡ります。……別に、私の肌がとても堅いわけではありません。ちょうど私が叩いたと時を同じくして、柱時計が鳴っただけです。
音の発信源に目を向けますと、午後一時。となりますと。
毎週この曜日、この時間帯になると、とあるお客様がやってくるのです。
ガチャリと重厚な音を演出とし、店内の扉を開いて入ってきたのは予想通り、麦わら帽子を被り、レンズに色のついた眼鏡を掛け、懐手が妙に堂に入っている和装の男性。
「いらっしゃいませこんにちは。いつもの席は空いていますよ」
常連さん。私はこの方の名前を知らないので、仕方なく心の中でこう呼んでいます。本当は、もっと別の呼び名をつけてさしあげたいのですが。味気がなさすぎます。
「ああ。すまない」
そう簡素の言うと、常連さんは私の案内もなしに、実に慣れた挙動で、奥にある一席へ座りました。室内だというのに帽子も取らず、そのまま椅子に深々と座ります。
九番テーブル。店の最奥に位置し、その席からだと店内の様子を見渡せます。この席は、土曜日の昼頃だけは、いかに混雑を極めていようとも、私はお客様をお通ししません。そしてそれは、我らが店、【リーベ】の方針でもあるのです。
「…………」
私が常連さんにメニューを渡すと、常連さんはそれをじっくりと眺めます。
普通なら、お客様が注文を決めるまで他のお客様の注文を訊いたり、料理を運ばないといけないのです。なのに私はまるで、時が止まってしまったかのように、常連さんにただただ注目してしまいます。
この瞬間だけ、私の時は止まるのです。
麦わら帽子から僅かに見える、雪のように白い頬から、顎へと至る線。それは、人が死の間際に見せる一抹の強さと儚さを連想させます。そのようなシルエットを持つ男性。だといいますのに、確かにこの店へ来店し、生きることの象徴である食物を摂取する。
この矛盾に私は、どうしてか釘付けとなってしまうのです。
「ライスカレー……ですね?」
「…………」
しかし、いつまでもこのままではいられません。仕事ならいくらでもありますし、ここで立ち止まっている暇などありません。自ら時を再び流すため、私は呪文を口にしました。
それを聴いた常連さんは無言のまま、コクリと肯いてくれました。我が店にはメニューというものがありながら、常連さんはいつもこうして、ライスカレーだけを頼むのです。
はてさて、もうどれほど前から、このようなことが続いてるのでしょうか。ここ数年、ずっと続いているように思います。
厨房のお父様とお兄様に注文を通し、その間にも完成したばかりのメニューを、他のお客様へお出しします。
そして仕事に没頭し、気が付いたら店内の喧騒もやや収まりつつある午後二時。
入口の扉が、またも開かれました。
「いらっしゃいませ。一人様でしょうか」
私はごく普通にお客様の接客をします。そして、何気なくお客様の顔を御拝見しますと、
……うわあ。凄く、男前です。
ぴしっと着たスーツ姿は、本当に日本人なのか疑問になるほどに、まだお若いというのに、様になっています。インテリというものです。
「突然失礼。この店に、白い肌の男が来なかったかい? もしかしたら、色眼鏡を掛けていたり、麦わら帽子を被ってるかもしれないけれどね」
顎に人差指の第一関節を当てながら、酷く思慮気にお客様は訊いてきました。……ええと、接客をした方がいいのでしょうか。それともきちんとお答えした方がいいのでしょうか。
悩んだ私は、取りあえず答えることに決めます。白い肌に、麦わら帽子……となると。
「は、はい。奥にいます、あの方でしょうか?」
私は店内の一点を見つめます。私の視線の先には、麦わら帽子を被った常連さんがいます。すでにライスカレーのお皿も下げましたので、テーブルの上に小さなメモ帳と、文鎮代わりに万年筆を置いているだけで、静かに瞑目しています。そしてその目が、少しだけ開かれました。
「…………」
あれ? 心なしか、恨みがましい視線を私に浴びせているような気が……。それでいて、なんとも哀しそうな表情もしています。
「あの、すみません、やっぱり私の勘違いだったようで――」
「ほほう。つまり、金字のやつはそこにいるというわけかい」
急遽路線を変更した私の引き留めも空しく、お客様はさっさと奥へ行きます。まるで事前に待ち合わせをしていたように、当たり前のように常連さんと相席しました。
「ふっふっふ。金字。こんな所にいたのかい。探したよう」
「……っく」
珍しいことに常連さんは、顔を隠すほど大きい麦わら帽子と、色眼鏡をはずしました。そして晒される、常連さんの有りのままの素顔。
――正直な話、常連さんの帽子を外した状態で顔を見るのは、これが初めてです。
常連さんは、処女雪のように白い肌、髪をしていて、そしてなにより、私を射抜く、紅い瞳が私の眼を惹きつけました。
お恥かしい話ですが、この時に私は……常連さんに心までを奪われてしまったのです。