師・9
「美古都。手紙よ」
やはり、今日来ました!
猫がネズミを捕まえるように、私は軽い身のこなしでお母様の持っている手紙を、それこそ奪い取るようにしてお母様から受け取りました。
「こら。はしたないですよ」
「ごめんなさいお母様、今だけは……今だけも、悪い娘でいさせてください!」
もう体中の血が疼いてしまって、止めることなどできないのです。
「もう、あの子ったら」
お母様の悪態は既に私の耳に届いてはいません。私室へ入った私は戸をぴしゃんと閉じ、机に封筒をゆっくりと置いて、ペーパーナイフで丁寧に開封します。その間、私の心臓は鼓動を遅くすることを諦めていました。五臓六腑を引っかき回さんと暴れ回っています。
毎月十五日。この日になると決まって、我自権先様からの封筒が届くのです。いつから明確に決まっていたのでしょう。すでに私も覚えてはいません。
キヌとハヤなどには、どうして私がそこまで我自権先様を敬愛しているのか言葉にしたことはありませんのは、それだけ私にとって思い入れのある方だからです。口から洩れると、気持ちまでも零れてしまう気がするのです。
私が尋常小学校に上がる前から、そして、生まれて初めて小説の著者というものを覚えた記念すべき作家が我自権先様です。まだまともに漢字すら読めませんでしたのに、街の本屋で見かけた、作者の名前の部分が金色で彩られている小説が、どうしてかとても華やかに見えたのです。読めもしない小説を買った私は両親に読み聞かせて貰いながら、一生懸命に内容を覚えました。その物語は子供心でさえ、とても感動した記憶があります。今でもその短編は諳んじることが出来ます。我自権先様の小説は私の人生においての教科書なのです。
感動した当時の私は、習ったばかりのカタカナを使い、我自権先様へ手紙をしたためます。しかし子供心ながら「私のような子供が手紙を書いたところで迷惑かもしれない」と思った私は匿名で、住所の記されていた出版社へ送ることにしました。数日後、なんと我自権先様から返信があったではありませんか! 名前こそ匿名でしたが、そこはどこか抜けた私、住所はしっかりと書いていたのです。どうやらそこから突き止められたようで。
手紙の内容は【アリガトウゴザイマス。コレマデワタシはホメラレタコトガアリマセン。ホメテクレタノハアナタガハジメテデス】と言ったものでした。なんと、まだカタカナしか書けない私に合わせ、ちゃんと読めるように簡単な言葉を使ってきたのです。私はもう嬉しくてたまりませんでした。遠い存在である、小説の著者と、真っ向から対面したも同じだったのです。この瞬間から、私は我自権先様の全てに惹かれたのです。
我自権先様の小説は時に、雑誌に掲載されることもあります。そんな時は、出版社へ感想の手紙を出します。すると数日も経たないうちに返事が返ってくるのです。数えてみると、人生の半分に近い期間、我自権先様と文通をしていることになります。
我自権先様は、いつでも懇切丁寧に私と接してくれます。お稽古が大変と書けば励ましてくれますし、友達とのことで悩めば一生懸命に解決策を考えてくれます。その心遣いに、私はとても癒されてきました。
私が漢字を覚えれば、その都度我自権先様も漢字の割合を増やしていきます。現在ではもう遠慮などなさらず、ごく普通に、大人と同じような文面を差しだしてくるのです。それがどうにも、大人の扱いを受けているみたいで、私は嬉しくてたまらないのです。
「――――♪」
さて、そんな恋焦がれている方の、月に一度だけの逢瀬。ハミングをしながら、封筒の封を丁寧に破いていきます。
手紙は季節の挨拶もほどほどに、近況報告をしてきました。身の周りの出来事。ふと思いついたこと。嬉しいこと、悲しいこと。笑ったこと、怒ったこと。
それらは決して堅苦しいものではありませんでした。しかし大人が子供をただ見下ろすだけでなく、あくまでも同じ立場になってくれるという、優しさも含まれているのです。この優しさの太陽が私の闇を照らしますから、私はいつだって笑うことができるのです。
【――そうして小生は桜が散り毛虫が降る季節になるかと落ち込んでいくのです。】
一人の大人の男性が内に秘めた想いを、子供の私に吐露してくれる月に一度の手紙も、いよいよ終盤へ近づいてまいりました。この寂莫感。楽しい出来事も、いつかは終わりが必ずやってきてしまうという世の中の真理を、私は毎月味わうのです。
【近頃頓に文章が上手くなってきましたね。小生は追い抜かれないかと不安になります。】
追伸として、そんなことが書かれていました。
そんなことありません。我自権先様の流麗な文章と比べたら、私のような娘なんて。望遠鏡で星空を眺める観察者でしかないのです。文章を読みながら、そう心の中で答えます。
【きちんと繋げているか。先を促せる内容となっているか。普段の連載では決して意識しないこれらの事象は小生の力不足を改めて実感させるのです。】
封筒には一枚、原稿用紙が同封されていました。
これこそ、私が我自権先様と繋がっていると感じることができる最大の絆。
返歌ならぬ、返小説。
決まりは一つ。話が破綻しないよう、どんどん先へ先へと、原稿用紙一枚分の物語を展開させる。これだけです。
私の手元には、百枚近くもの我自権先様からの返小説があります。おそらく我自権先様も同じだけの枚数、私の返小説が溜まっているのではないでしょうか。もしも、たかが私めのものを大切に保存しておいてくれていたら……そう考えただけで、私の頭には一面のお花畑が広がってしまいます。
嗚呼、どうして、手紙には想いそのものを届けさせることができないのでしょう。伝えることができましたら、これほど簡単なこともありませんのに。けれど私は所詮、人間なのです。人間であるうちは、魂を肉体から乖離させることはできません。
となれば、我自権先様へ想いを伝えるためにすることは三つ。
我自権先様への手紙を書くこと。そして、私が手紙を届ける半月以内に原稿用紙一枚の返小説を完成させること。そして、私が作品を完成させること。
私は我自権先様に憧れる故に、小説家になろうとしているのです。
早速今日から、取り掛かることにしましょう。鉄は熱いうちに打つに限ります。
――そうして今日もまた、寝不足な一日を作ってしまうのです。
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