師・5
「うを、客だ。珍し過ぎるぜ。じゃなかった、いらっしゃい」
私を接客してくれたのは、くりくり頭で、年齢の割には精悍な顔つきをした少年です。
「こんにちは。初めましてお坊ちゃん」
「…………。おねえさん見ない顔だね。この辺に住んでいる人だって、この店には滅多に近づこうともしないのに。……あの人は除いて、だけど」
少年はちらちらと、私以外のお客様を見ながら言いました。ということは、あのお客様は、よくこちらのお店にいらっしゃるということでしょうか。
「はい。最近、こちらへ来るようになったばかりです」
「へえ。近所?」
「三丁目です。あの大きな洋館の」
少年は一瞬悩みましたが、どこのことなのかすぐに分かったようです。あの周辺に、あそこほど大きい洋館もありませんから。
「ああ、リョクレイカン。……え? おねえさん、リョクレイカンに住んでんの?」
「リョクレイカン?」
私は少年の言葉をそっくりそのまま返しました。聴きなれぬ単語だったからです。
「緑霊館。緑の幽霊の館。この近所では、あそこのことをそう呼んでるよ」
なるほど。イメージにぴたりと当てはまります。館を覆う緑の蔦と、いかにもアレが化けて出そうなおどろおどろしい雰囲気。この名前を聞いて爽やかな印象をもつ人はまずいないでしょう。これほど簡潔にあの館の特長を言い当てるなんて、初めて呼び始めた人はいい感性をしています。私も先人に習って、我がお勤め先をそう呼ぶことにしましょう。
「てっきり俺、あそこには人が住んでいないのかと思ってたよ。住んでたとしても、いるのは幽霊ぐらいだとばかり」
「そうですよね。私も初めてあのお屋敷へ参りました時、本当に人が住めるのか不思議でした。ですが、とある男性がいまして。私はその方に奉公することとなったのです」
「大変だね。今時身売りなんて、田舎の方しかしないと思ってたよ」
「それは色々と事情がありまして。そこまで悲愴なものではありませんよ。気楽なものです。ご飯を作ってお掃除をするだけですから」
それどころか大きな役得に預かれるのですから、他人の見るよりずっと幸福です。
「あ、ご飯と言えば、君はお米が植物から採れることを知っていますか?」
「……米って、あの米? 白くて長細い、どんな料理でも必要な主食の……」
「そう。それです」
「当たり前でしょ。っていうか、知らないとか言ったら危険だと思うよその人。外国人?」
「ですよねー」
ふふふと笑っていると、ぞくっ……と、背筋に悪寒が走ります。おそるおそる背後を確認すると、あのお客様が、オペラ仮面をこちらへ向けていました。ひたすらに表情がないので余計に怖いのです。まだ怒った顔を向けられた方が覚悟を決められるというもの。心を収める容器がございません。
「とにかく、こちらへ越してきたばかりなんです」
「そ、そうなんだ」
お客様はまだこちらを睨んでいます。どんな目をしているか確認したくありませんが、こちらを突き刺す視線は間違いなく狩人のもの。私と同じことを少年も感じたようです。これ以上このお話を続けると、帰ったら執筆を続けている先生に何故か恨まれそうですから、ここで終わらせることにしました。
「お店番ですか?」
どうも空気が重いようなので、ここは明るくしませんと。少年へ世間話を向けることとしました。男の子が好きそうな話題なんて話題の種として持ち合わせていなかったので、当たり障りのないところから始めました。
「うん。毎週この曜日には、ここで店番するようにばあちゃんに頼まれてるんだ。本当は剣道の稽古をしたいんだけど、ばあちゃん怖くて」
「まあ。偉いのですね」
とても微笑ましいその理由に、私はつい、笑んでしまいました。
「それほどでもないよ」
「照れなくてもよろしいのに。お婆さんを心配する時風君は、きっと強い剣士になれますよ」
「へへ、そうかな」
真に可愛らしいことに、少年は顔を赤くします。私の仕えているご主人様もよく赤面しますが、肌が白いから目立つだけのあちらと違って、素直な反応をしてくれる少年には、とても好感が持てました。
「ふん。そんな小娘にほだされているようで一流の剣士どころか男にだってなれるものか」
耐えに耐えかねたのか、お客様が、私たちに口をはさんできました。
「少なくとも私の先生のように意地悪な男性よりは、この子の方がよほど大人です」
「…………」
「言っておきますが、私は、あなたに言ったのではありませんよ。私の先生は現在、お屋敷の書斎で小説を執筆なさっているはずですから。締切が間近だと、担当の編集の方が嘆いておられました。友人の期待にはきちんと応えてくれる、熱いお方ですよ」
「……小娘。貴様いつからそんな皮肉を言うようになった」
「お仕えしているご主人様が皮肉大好きな方ですから。きっと、影響を受けてしまったのでしょう。ああ、私は、理想のあのお方を裏切るわけにはいきませんのに」
私の責任ではありません。全ては今この場にいない、先生のせいなのです。
「なに? おねえさん、この人と知り合いなの?」
置いてけぼりになった時風君は、私に助けを請うてきました。
「いいえ。私のご主人様は確かに偏屈者ですが、あのような人ではありません」
「ふうん」
少年はそんなことはどうでもいいようで。
すっかり私に言い負かされてしまったお客様は、ぷいっとそっぽを向いて、壺を眺めていました。その姿の子供っぽさときたら。
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