師・2
「え、な、ななな、な、に……を?」
「じっとしていろ」
寝室・若き男女・顔を上げるこの状況。
お父様には悪いですが、これが何を隠喩しているのか分からぬほど、私は箱入りでもありません。少女が接頭語にならない小説を読んでいますと、なんとなく分かってしまいます。それこそ「今時の若者は」と蔑まれそうですが、私とてそういうことに興味が、なくもないのですから。だからこそ、五秒先の予測が簡単にできてしまう先生の行動に、かえって私は何も考えることができなくなってしまいました。ああ、無知でいられたら、先生がただ私を見つめているぐらいにしか思わないでしょうに。
紅い瞳は私の心を吸い込ませ、白い肌は私の心を同じ色に染め上げる。どんな表情も浮かんでいない顔を見れば見るほどに私は、龍ヶ崎金字という男性の虜となっていきます。
華奢ではあるけれども、確実に男性であるという誇示をする長身。役者の花形のような、あまりに整った容姿。強烈すぎるほど、男性という存在を、私に知らしめます。
それこそ私の人生でまともに知り合った男性など、親戚や近所付き合いを除けば、先生ぐらいしかいないのです。かつてないほど、私は身近に男性を感じてしまっています。……宗司様は、私の中では近所付き合いに分類されています。それ以外にしたくありません。
先生は私の頬を撫で始めました。睦時のように甘いものではなく、むしろ好奇心旺盛な赤ん坊がなににでも手を出すような、そんな手です。
――正直、その間に何をされたのか憶えていません。唯一憶えているのは、白魚のように滑らかな手の中に、硬い感触があったことだけです。おそらく、ペンだこでしょう。先生の体の中で、唯一小説家であることを示す証拠です。
気がついた時には、もう先生は私から離れていました。今の一連の出来事に、耳までぼおっと熱くなるのを感じます。
「――――」
本当は「何をするのですか」と言いたかったのですが、声が出ません。さらに腰もへなへなと砕けてしまいました。主人の寝床を荒らすのはいけないことと思いながらも、先生のベッドにぺたんと座り込んでしまいます。私は、男性に免疫がないのです。あるわけないです。
「…………。ふん生娘の肌の感触を知りたかっただけで他意はない。まあこれはこれでいい資料にはなったぞ他の生娘には頼めないからな」
口をぱくぱくさせる私を見て、先生は自ら理由を明かしました。
……生娘生娘と。確かにそうなのですが、『子供』ということを強調されているみたいで嫌です。しかしそんな私の気持ちなんか知ったものかと言わんばかりに、先生はへたり込んだ私を見下ろしています。その目は、相変わらず紅いままでした。顔も、負けじと赤いものです。
「――もう先生ったら。私にベッドメイクをさせたくないからって」
私は当てずっぽうに理由をあげます。先生は「ああ」とやる気のなさそうに同意しました。
「締めきりが近いのでしょう? 私で遊んでいる暇なんてないでしょうに」
確か宗司様のお話では、先生はここ数日締切間近に身を置いているのだといいます。少しでも書いてほしいのに、最近はめっきり筆が遅くなって……そう嘆いておりました。
「詰まったんだよ。貴様のような年頃の肌に俺は触れたことはない。どう表現していいのか悩んだ。ふん。今ので文は浮かんだ」
ここまで唐突で衝撃的ではありませんが、先生が私に頼みごとをする時は大抵こうなのです。
「それで触られた私の身にもなってください。なにをされるか、とても怖かったのですよ」
「小娘に介護されなければならないような呆け老人ではない。また『怖いこと』をされたくなければこのような愚かなことはもうしないことだ」
「それとベッドが乱れていることは別の問題なのです。先生だって、綺麗に整ったベッドの方が寝心地もいいでしょう?」
「貴様のように軟弱ではない。寝ようと思えば堅い床の上だって眠ることができる。現に今までそうして寝てこれたのだから」
お小言を右から左へと流しつつ、私はシーツをピンと敷きます。
「先生がおっしゃっているのはキャンであって、ウォントではないでしょう」
「宗司のように横文字を用いおって。これだから今時の女学生は」
「その女学生を喜ばせる小説を書いているような方には言われたくないです」
シーツを取り替えるだけでこの始末。これで私がお部屋の掃除などをしようものなら、「俺の部屋を荒らすな」と大騒ぎ。今日のアレは、随分と特殊な場合でしたが。
どうも先生は、この屋敷を私が歩き回るのが好ましくないようです。だからこうして度々脅しをかけてきます。主人が否定するのなら使用人の私としては先生に従うべきなのでしょうが、私は先生でなく、お給金の受け取り元である宗司様から、先生の面倒を見るよう大義名分をもらいましたので。
ああ、悲しい私。先生の使用人ですのに、宗司様の命令の方が優先度が高いのです。家族のためには、働かなくてはいけません。ですので、先生がどれほど私の仕事を奪おうとしても、それは無駄というものです。先生の攻撃に屈することなどありません。
「いいか小娘。俺は。お前を。金で。買ったんだ。このまま何処かへ売り飛ばす気など俺はないのだから、せめて俺の命令ぐらいは聴かんか」
「どうして他の使用人には最低限の仕事をさせるのに、私には何一つとしてやらせてくれようとはさせないのです? 私は、『好き』で先生のお世話をしているといいますのに」
「…………」
だんまりを決め込む先生。言えないのなら、私からはこれ以上、何も言いません。
私は先生が本当に嫌がっているのなら、絶対にしません。したくありません。
「言うことを聞かないのなら、俺はお前に技術など授けん」
そうきましたか。確かに、小説を学ぶという裏向きの理由があって使用人をしている私にとって、その命令はかなり痛手ではあるのですが、しかし……、
「小説というものは自ら学ぶものだーっ、と先日おっしゃったのは誰でしたっけ。私はそのお言葉を真に受け、先生の小説の写しをし、ちょっとした癖を学んでいる最中です」
お父様も言っていました。技術というものは教わるものじゃない。盗むものだと。
「技術だけを身につけてどうとなる。物を言うのは経験だ。米が植物であることすら知らないような女学生に、小説など掛けるものか」
ああ言えばこう返す。先生は理屈が大好きな方です。……ですがしかし。
「……あの、そのぐらいは、知ってますよ?」
そういえば、先書粒子の小説でもありましたっけ。主人公の女性が、稲を脱穀することによって、米という食べ物になる……という、日本人なら誰でも知ってしかるべきことを知らなく、物笑いの種とされた、という短編が。もしかして、先生も?
「なんだと……? 俺でさえ二年ほど前までは知らなかったのだぞ……?」
「いやあ、今時であろうが何時であろうが、日本人である限り、子供でも知っていることなのではないでしょうかね」
わざわざ子供に聴いたこともありませんけれど。当たり前すぎて。
「だったらあの『兎おひしかの山』で始まるあの童謡は兎が美味だというのではなく、」
「兎を追い掛けた……でしょう?」
「…………」
というよりは、よくその童謡を知っているものだと、むしろ感心してしまいました。調べているのでしょうか。それにしては偏見が強いですが。
「くそっ俺はずっと兎が喰いたかったからそう歌っていたのだと思っていたのに」
兎は美味しいとも聞きますが、その解釈の仕方だと、かなり印象が変わってしまうのでは。
しかしまあ、漱石枕流な先生なのに、よく自らの過ちを認めるものです。
「……それだけ教養があるのにわざわざ俺にかしずくこともないだろう。遊び足りない小娘の分際でどうしてそこまで俺の世話を焼きたがる」
こ、これしきのことで教養があると言われても、全く嬉しくないのですが……。
「んー、なぜでしょうねい。誰かに頼まれたからですかねい」
少しだけ宗司様の口癖を真似してみました。そちらの方が愛嬌があるかと思いまして。
「……間違ってもあの男の言うことは聞くな。あいつは碌でもない男だ。影響を受けるなど以ての外だ」
すると先生は私の答えも待たず、話題が別の方向へ移動していきます。どうやらお気に召さなかったようです。それもそうでしょうか。先生は宗司様のことを、少なくても口先だけはとことん嫌っていますから。私からすれば、素直じゃないだけ、となります。
話を反らすことには成功したようで、私もずるずると、話をそちらへ移動させていきます。このまま使用人の話を続けていたら、先生が私の職務にケチをつけるのが見えていたので。
「女学生の身として言わせてもらいますと、先生よりも遙かに、宗司様のようなレディーファーストの精神がある男性の方が憧れてしまいますよ。先生も少しは柔軟に考えませんと、お嫁さんになってくれる女性も逃げてしまいすよ? 自分の行動を省みてくださいな。私に言われたからどうとういうことでもないでしょうが」
「…………」
思い当たる節が……というか、しかないのでしょうね。先生は苦悶の表情を私へ見せます。
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