育てた五人に見限られましたが、次の弟子はもっと有望です
配信のコメント欄が、光の速さで流れていく。
「――というわけで、俺たちフレイムエッジは、今日でコーチの指導を卒業します」
蒼井大翔がカメラに向かって、白い歯を見せて笑った。背後には四人の仲間が並び、それぞれ誇らしげな顔をしている。会見用に借りた小さなスタジオの隅で、氷室怜香はその様子を見ていた。
「五年間、お世話になりました。でも、俺たちはもう、コーチに頼らなくても戦えます」
コメント欄が沸いた。「おめでとう」「独立か」「次のステージだな」。祝福の言葉が、滝のように流れていく。
司会者が「コーチへの一言を」と促すと、大翔は一瞬だけ言葉に詰まった。
「……基礎を、叩き込んでもらいました。感謝しています。でも、もう俺たちには、その先が必要なんです」
その先、という言葉の意味を、怜香は正確には理解できなかった。ただ、五人の顔に浮かんでいるのが、迷いのない自信だということだけは分かった。
怜香は拍手をした。音を立てず、静かに、二回だけ。
大翔がちらりとこちらを見た。何かを言いたそうな顔だったが、結局何も言わず、司会者に促されて次の質問に答え始めた。
怜香はスタジオを出た。廊下は静かで、配信の歓声が壁の向こうでくぐもって聞こえた。
(五年、か)
特に何も思わなかった、というのは正確ではない。ただ、言葉にしようとすると、うまく形にならなかった。
五年前、フレイムエッジの五人は、まだEランクの探索者だった。大翔は今よりずっと痩せていて、罠の一つも見抜けずに何度も怜香に怒鳴られていた。怒鳴られるたびに悔しそうな顔をして、次の日には必ず練習量を倍にしてくる子だった。そういう素直さが、怜香は嫌いではなかった。
いつからだろう。攻撃力のスキルレベルが上がるにつれて、怜香の指摘に「もう分かってます」と返すようになったのは。
廊下の突き当たりで、スタッフの一人とすれ違った。頭を下げられ、怜香も会釈を返す。それだけの、いつも通りの一日の終わりのはずだった。
---
ギルド「アステリズム」の事務所に戻ると、職員の工藤が申し訳なさそうな顔で待っていた。
「怜香さん、お疲れのところすみません。実は、新しい依頼が」
工藤は、怜香の表情をちらりとうかがった。フレイムエッジの独立会見のことは、当然もう知っているはずだった。それでも、あえて何も触れずに用件を切り出す気遣いが伝わってきた。怜香はそれに小さく頷き、話を促した。
「依頼?」
「育成の依頼です。……ただ、正直に言うと、他のコーチが誰も引き受けてくれなくて」
工藤が差し出した資料には、若い女性の顔写真と、探索者ランクの記録があった。ランクはF。下から二番目だった。
「小柳环さん、二十歳です。半年前に登録しましたが、これといった実績がなくて。本人の希望もあって、育成コースへの参加を考えているんですが……」
「見た人は、みんな断ったのね」
「はい……。攻撃力も魔力も平均以下で、正直、伸びしろがあるようには見えないと」
怜香は資料をめくった。適性検査の項目を、上から順に見ていく。攻撃、防御、魔力操作――どれも平凡な数値が並んでいた。
そして、最後の項目で指が止まった。
「察知」の欄に、これまで見たどの新人よりも高い数値が記録されていた。
「……これ、誰か気づいた人はいる?」
「いえ、多分、誰も見ていないと思います。攻撃力の欄で判断が終わってしまうので」
怜香は、資料を静かに閉じた。
「会ってみるわ」
---
「よろしくお願いします」
小柳环は、深く頭を下げた。声は小さかったが、姿勢は崩れなかった。
「攻撃力も魔力も、平凡なのは分かっているわ」
怜香がそう切り出すと、环はびくりと肩を揺らした。予想通りの反応だった。誰かにその話をされるたび、傷つく癖がついている顔だった。
「でも、あなたの適性検査、察知の項目だけ異常に高い数値が出てる。誰も、それを見ていなかったみたい」
「……察知、ですか」
「気配を読む力。危険を先に察知する力。地味だけど、パーティー全体の命を左右する力よ」
环の目が、わずかに見開かれた。
「私……ずっと、攻撃力がないから駄目だって言われ続けてきて」
「あなたの本当の適性、誰も見ていなかったみたいね」
怜香は静かにそう言うと、資料を环に手渡した。
「一から鍛えましょう。地味な訓練ばかりになると思うけど」
环は資料を胸に抱くように受け取った。
「はい。よろしくお願いします」
「一つ、聞いてもいい?」
怜香が尋ねると、环は少し身構えたように顔を上げた。
「探索者を続けたい理由は」
环は少し考えてから、ゆっくりと言葉を選んだ。
「……誰かの役に立ちたい、というのが一番です。攻撃力がなくても、何かできることがあるはずだと、ずっと思っていました」
「そう」
怜香は短く頷いた。それ以上、多くを聞かなかった。理由を並べ立てる人間より、短い言葉で本音を語る人間の方を、怜香は信用していた。
---
訓練が始まって、最初の一週間は、ひたすら気配を読む基礎ばかりだった。
目を閉じて、周囲の音・匂い・空気の揺れを感じ取る訓練。模擬の罠を仕掛けた部屋を、足音を立てずに歩く訓練。地味で、地道で、成果がすぐには見えない訓練が続いた。
怜香は、それを五年前にも繰り返していた。フレイムエッジの五人にも、同じ基礎を叩き込んだ。彼らも最初は无名で、誰にも期待されていなかった。攻撃系のスキルが目立つようになってから、地味な基礎訓練を「もう卒業した」と言うようになったのは、いつ頃からだったか。
「こんな地味な訓練、意味あるんですか」
三日目、环がぽつりと聞いた。責めるような口調ではなく、本当に分からないという顔だった。
「意味がないと思う訓練ほど、後で命を救うわ」
怜香は淡々と答えた。
「派手なスキルは、危機になってから使うもの。察知は、危機が来る前に気づくためのもの。どちらが大事かは、命を落としかけた人間なら分かる」
环は、それ以上何も聞かなかった。ただ、次の日から、訓練にかける集中がわずかに変わった。
怜香は、その変化を注意深く見ていた。伸びる新人には共通点がある。褒められたときより、地味な指摘を受けたときに、目の色が変わる。环はまさにその型だった。
五年前の大翔も、最初はそうだった。
怜香は、訓練場の壁にもたれながら、ふとその頃を思い出していた。まだEランクだった大翔が、模擬罠を三日連続で見抜けず、悔しさのあまり地面を殴りつけたことがあった。手の甲を擦りむいた大翔に、怜香は「痛いのは覚えなさい。痛みは、次に罠を踏まないための記憶になる」とだけ言った。大翔はその夜、包帯を巻いた手のまま、深夜まで模擬罠の配置図を書き写していた。
あの頃の大翔と、今の环は、驚くほどよく似ていた。
だからこそ、いつから変わってしまったのかを、怜香は今でも正確には言えなかった。攻撃力のスキルレベルが上がり、配信の視聴者数が増え、称賛の声が日常になった頃からだろうか。それとも、もっと単純に、五年という時間が長すぎたのだろうか。
答えの出ない問いを、怜香はそれ以上追いかけなかった。今は、目の前の环に集中する方が、よほど意味のあることだった。
訓練の合間、环がぽつりと聞いたことがあった。
「怜香さんは、前はどんな探索者だったんですか」
「今のあなたと似たようなものよ。地味で、目立たなくて」
「S級だったって聞きました」
「地味なまま、S級になったの」
怜香がそう答えると、环は目を丸くした。それから、少しだけ嬉しそうな顔をした。地味なままでも上を目指せるのだと、初めて誰かに証明された顔だった。
---
一ヶ月が経つ頃、环は小規模な依頼をこなせるレベルまで育っていた。
ある日、地下遺跡の探索依頼で、环がふと足を止めた。
「……この先、何かおかしいです」
同行していた別のパーティーが訝しげに环を見た。何もない、ただの通路だった。
「気配が、変です。床の下」
念のため確認したところ、床下に隠された落とし穴型の罠が見つかった。連携していたパーティーが、危うく全滅しかけるところだった。
「よく気づいたな……」
パーティーのリーダーが环に感謝した。环は照れくさそうに、それでも確かな手応えのある顔で頷いた。
ギルド事務所に戻ると、工藤が興奮気味に報告書を差し出してきた。
「怜香さん、见てください。这の依頼、环さんの察知がなかったら、パーティー全滅の可能性があったそうです」
「そう」
「それだけじゃなくて、その後も三件、同じような報告が上がっています。环さん、依頼主から名指しで次も来てほしいと言われているそうで」
怜香は報告書に目を通した。淡々とした文面の中に、环の成長がはっきりと刻まれていた。
ギルド内で、环の名前が少しずつ囁かれるようになった。「あの子、勘がすごいらしい」「フレイムエッジのコーチが育ててる子だって」。
怜香はそれを、報告書の隅で静かに読んでいた。口元には出さなかったが、ページをめくる指先が、いつもより少しだけ速かった。
---
环がギルドで少しずつ名前を知られ始めた頃、初めての大きな依頼が舞い込んだ。中堅パーティーが挑む中層ダンジョンの護衛依頼で、环はサポートとして同行することになった。
出発前夜、环は緊張した面持ちで怜香の元を訪れた。
「今までで一番大きな依頼です。……失敗したら、どうしましょう」
「失敗を恐れて動きが鈍る方が、よほど危険よ」
怜香は淡々と言った。
「あなたがすべきことは一つ。感じたことを、感じたままに声にすること。判断は、パーティーのリーダーがする。あなたは気配を伝えるだけでいい」
「……はい」
「地味な仕事よ。誰にも褒められないかもしれない。それでも、あなたが黙っていたら、誰かが死ぬかもしれない」
环は、その言葉を噛みしめるように頷いた。
当日、依頼は大きなトラブルもなく進んでいた。だが中層の奥、行き止まりに見えた通路の前で、环が足を止めた。
「……この先、空気の流れがおかしいです。何か、大きいものが潜んでいる気がします」
リーダーが警戒レベルを引き上げ、慎重に進路を変えた。結果、隠されていた大型モンスターの巣を回避することができた。もし正面から突っ込んでいたら、パーティー全滅の危険もあった規模だった。
「お前の勘、マジで化け物だな」
リーダーが笑いながら环の肩を叩いた。环は照れくさそうに、それでも確かな誇りの浮かんだ顔で笑い返した。
同じ頃、フレイムエッジは大型ダンジョンの生配信攻略に挑んでいた。
視聴者数は過去最高を記録していた。コメント欄は最初、称賛で埋まっていた。「さすが」「独立して正解だったな」。
しかし、中層に差し掛かった頃から、様子が変わり始めた。
「大翔、後ろ!」
仲間の声に、大翔が振り向くのが一瞬遅れた。状態異常の毒霧――かつて怜香が必ず事前にチェックしていた種類の罠だった。誰も、それに気づいていなかった。
パーティーの連携にも、わずかなズレが生じていた。誰が前に出て、誰が回復に回るか。以前は怜香が的確に指示を出していた領域だった。今は、それぞれの判断に任されていた。判断が割れるたびに、一拍分の遅れが生まれた。その一拍が、ダンジョンの中では致命的だった。
「くそ、毒が回るのが早い……!」
大翔が舌打ちしながら回復薬を呷る。だが、毒の種類を誤認していたのか、効果は薄かった。かつての怜香なら、罠の気配を察知した時点で、毒の系統まで判別して指示を出していた。今のフレイムエッジには、その判断を担う人間がいなかった。
コメント欄が、少しずつ色を変えていく。「あれ、これ大丈夫か」「なんかグダグダになってきた」「コーチがいた頃はこんなミス見なかったな」。
称賛で埋まっていたはずの画面が、いつの間にか心配と揶揄の入り混じった言葉で埋まっていた。
結局、パーティーは中層で撤退を選んだ。配信のコメント欄には、これまでにない数の「解散」「昔の方が強かった」という言葉が並んでいた。生配信は、当初の勢いを失ったまま、静かに終了した。
---
その夜、怜香のスマートフォンに、大翔からの着信が残っていた。一件だけではなかった。三件、立て続けに。
怜香はそれをしばらく見つめた。出るかどうか、迷ったわけではない。ただ、少しの間、画面を見ていた。
メッセージも一件届いていた。「コーチ、少し話せませんか」。それだけの短い文面だった。
結局、出なかった。返信もしなかった。
薄情だとは思わなかった。ただ、今すぐ答えを出せる話ではない気がした。五年間積み上げてきたものを、五分の電話で取り戻せるとは、怜香自身も思っていなかった。
着信履歴をそのままにして、机の上に置いていた环の次回訓練メニューに視線を戻す。「危険予知・応用編」と書いたページを開き、新しい項目を書き足していく。ペン先の動きは、いつもと変わらず落ち着いていた。
---
数日後、环がギルドの訓練場に駆け込んできた。
「怜香さん、聞いてください!」
いつになく興奮した様子だった。
「今日の依頼、また罠を先に見つけられました。それに、初めてパーティーのリーダーから、次も指名で来てほしいって」
「良かったわね」
怜香は静かに、しかしはっきりとそう言った。
「怜香さんの言った通りでした。地味な訓練が、命を救いました」
环の言葉に、怜香は少しの間、黙っていた。それから、これまで見せたことのない、小さな笑みを浮かべた。
「これから、もっと地味な訓練が増えるわよ」
「望むところです」
环は胸を張って答えた。その顔には、ギルドに来たばかりの頃の自信のなさは、もうほとんど残っていなかった。
「工藤さんから聞きました。次のランク審査、受けてみないかって」
「早いわね」
「怜香さんが教えてくれたことを、ちゃんと形にしたいので」
怜香は訓練メニューのページをめくった。「危険予知・応用編」の隣に、新しい項目を書き足していく。罠の複合パターン。集団戦での察知の使い方。教えることは、まだいくらでもあった。
机の端に置いたままのスマートフォンには、もう目をやらなかった。着信履歴はそのままにしてある。いつか返す日が来るかもしれないし、来ないかもしれない。それは、今考えることではなかった。
「明日から、パーティー連携の訓練に入るわよ。一人でも、いずれは誰かと組むことになるから」
「はい」
环が頷くと、怜香は資料をまとめて立ち上がった。窓の外では、夕暮れの光が訓練場の床に長く伸びていた。五年前、大翔たちを最初に鍛えたのも、こんな夕暮れ時だった。
あの頃と同じ光の中で、怜香はもう一度、同じ場所から始めていた。今度は、最後まで一緒に見届けられるかどうかは分からない。それでも、目の前の一歩を、丁寧に積み重ねるだけだった。




