婚約破棄したいだけなのに、恋人のフリを頼んだ騎士団長が本気で口説いてくるのはどうしてですか?
「単刀直入に申し上げます。クロイツ団長、わたくしの恋人のフリをしていただけませんか」
近衛の練兵場の裏。誰も通らない回廊の隅で、わたくし――モンフォール公爵令嬢セシリアは、人生で一番真剣な交渉に臨んでいた。
相手は、王国最強と謳われる近衛騎士団長、アーレン・クロイツ。
最初に誰が呼んだのか、彼に付けられた二つ名は『氷の騎士団長』。
笑った顔を見た者はいない。怒った顔を見た者もいない。そもそもあの表情筋自体動くのかなどという失礼な物言いすらも耳にしたことがある。そのくらいのものだ。
社交界の令嬢たちは彼を遠巻きに眺めるばかりで、誰一人として近づこうとしない。
理由は考えるまでもない。何を考えているのか、まるで読めないからだ。
つまり――今回の交渉相手としては、これ以上ない適任者だった。
「順を追ってご説明します。わたくしは現在、王太子フェリクス殿下と婚約しております。ですが殿下には、実は本当に想っていらっしゃる方がいる。――男爵令嬢のリーゼ様です」
「…………」
いきなりこんなことを言われて困惑しているのか。いや、そのような様子は全く感じられない。聞いた失礼な噂が概ね真実であったことを、こんなところで認識させられるとは。
「殿下ご自身もわたくしも、この政略婚約をできるだけ穏やかに解消したいと考えております。けれど――公爵令嬢が王太子に一方的に捨てられた、という形になれば、我が家の面目は丸つぶれ。派閥は荒れ、貴族たちは色めき立ち、最悪の筋書きを語るのであれば内乱となるでしょう」
「内乱、ですか。しかし、いささか……」
「もちろん少し大袈裟な物言いではあります。ですが、あながち嘘だとも言い切れない」
わたくしは指を一本、ぴんと立てた。
「ですから、筋書きを逆にします。――『先に心変わりをしたのは、セシリアの方だった』、と。わたくしが新しい恋人を作り、自分から婚約を白紙に戻す。そうすれば殿下は晴れて自由の身。わたくしも〝傷物の令嬢〟などと囁かれずに済む。両家は円満、誰一人として損をしない、完璧な筋書きです」
そう、まさしく完璧な筋書き。うっとりしてしまうのをぐっと抑えるが、それでもこれは素晴らしい筋書きだと思う。
彼も同調してくれるかと思ったが、やはりその表情は変わらない――大きくは。
心なしか、眉が怪訝そうな動きを見せているようにも見える。気がする。
「言葉を差し挟むようですが、……その、新しい恋人役というのは」
「あなたです、団長」
敢えて間髪を入れずに答えると、彼の眉が三ミリほど動いた……気がした。氷の彫像にひびが入る瞬間を、目撃した気分だった。
しかし、眉の動きを察したわたくしも、なかなかの洞察力なのでは。
「条件は三つ。ひとつ、身分が殿下に釣り合うこと。ふたつ、誰にも逆らわれぬ地位にあり、生まれる醜聞をすべてねじ伏せられること。最後に――独身であること」
わたくしは彼を、まっすぐ見上げた。
「この三つをすべて満たす殿方は、この王国に、ただ一人。あなただけなのです」
長い、長い、あまりにも長い沈黙が落ちた。そのまま朝を迎えてしまいそうな程の沈黙が訪れ、そのままわたくしたちの間に滞留する。
――さすがに断られるか。
そう覚悟した、まさにその時だった。
「……わかりました」
ハッキリとした声だった。
……正直、拍子抜けした。報酬の交渉も、利点の説明も、まだ半分残っていたのに。
(このお方は無感情でいらっしゃるから、面倒だとすら思われなかったのね)
だからこそわたくしは、それ以上深く考えなかった。
――これが、わたくしの人生で最初の、そして最大の勘違いになるとも知らずに。
*
翌日から、世にも奇妙な「恋人の練習」が始まった。
「人前で不自然に見えぬよう、所作を合わせておきましょう」
そう言って差し出された彼の手の、なんと優雅なことか。エスコートは流れるよう。歩幅は、いつの間にかわたくしに合わせられている。
(さすが団長。何をなさっても完璧でいらっしゃる)
「セシリア嬢」
「はい」
「……セシリア、と。名で呼んでも、構わないでしょうか。恋人らしく見せるには、その方が自然かとも思いまして」
「ええ、どうぞ。お好きに」
そう答えたとき、彼の耳が、ほんのり赤く染まっていた。
(あら。やはり回廊は冷えますものね)
*
数日後には、小さな包みを手渡された。開けると、淡い若草色の髪飾りが入っている。
「贈り物のひとつもあった方が、既成事実として自然かとも思いまして」
「まあ、用意周到。さすがのプロ意識ですこと」
「……プロ意識」
「違いまして?」
「……いや。そうですね。プロ意識。自らの口からそれを発するのも烏滸がましいですが」
ダンスの練習もした。彼の手はわたくしの腰を支え、視線は片時もそらされない。あまりに真剣なので、すれ違った侍女が顔を真っ赤にして逃げていったほどだ。
(困ったわ。あの子、本気の恋人同士だと勘違いしてしまったみたい)
――勘違い、というなら。本当に勘違いしていたのが誰だったのか、当時のわたくしは、まるでわかっていなかった。
彼の「演技」は、日を追うごとに、真に迫っていった。
こちらを見つめる目の、熱。指先の、わずかなためらい。低い声に滲む、隠しきれない甘さ。何もかもが、本物のようで。
(危ない、危ない。絆されてどうするの、セシリア。これはお芝居。期間限定のお仕事。団長は、ただ、お上手なだけ)
わたくしは毎晩、自分に言い聞かせた。
言い聞かせなければ、心がどこかへ転がっていってしまいそうだったから。
*
そして迎えた、決行の夜会。
計画は、恐ろしいほど順調に運んでいた。「公爵令嬢に新しい恋人」の噂はとうに広まり、殿下は心底ほっとした顔で、リーゼ様の手をそっと握っている。あとは、わたくしが台本どおりの台詞を口にするだけ。それで、すべてが丸くおさまる。
「殿下。長らくのご厚情、痛み入ります。ですが――わたくし、心に決めた御方が、おりまして」
言えた。あとは殿下が「残念だが、君の幸せを願う」と返せば、それで幕引きだ。
ところが。
「セシリアは私のものにございます」
――台本に、ない。そんな台詞は
一歩前へ進み出たクロイツ団長が、広間の隅々まで届く声で、はっきりと言い放った。
「三年前から。ずっと、そうだった」
ざわめきが、さざ波のように広間を満たしていく。
(さ、三年前!? そんな細かな設定、わたくし、打ち合わせた覚えが――)
彼が、わたくしを見た。
いつも凍りついていた無表情が、初めて、音を立てて崩れていた。
「貴女に頼まれたあの夜、断る理由を探した。一晩中、探し続けた。――ひとつも、塵ひとつほどの物すらも見つからなかった」
「……団長」
「演技ではございませんでした。最初から。ただの一度も、私の中では」
完璧すぎた所作。用意周到な贈り物。赤かった耳。迷いのない、あの即答。
――全部。何もかも、演技などではなかったのだ。
この王国で、一番大きな勘違いをしていたのは。
ほかでもない、わたくし自身だった。
胸の奥が熱くて、苦しくて、それなのに、不思議なほどあたたかい。わたくしは震える声で、たったひとつだけ、確かめた。
「団長。最後に、確認させてください。……これは、〝練習〟では、ないのですね?」
氷の騎士団長が。
生まれて初めて、わたくしの目の前で、やわらかく笑った。
「二言はございません。――これは、すべて〝本番〟にございます」
*
こうして、わたくしの婚約破棄は、無事に成立した。
殿下はリーゼ様と晴れて結ばれ、両家は円満。社交界が期待していた修羅場も内乱も起こらず、誰ひとり損をしない、それはそれは見事な幕引きだった。
ただ、たったひとつだけ。
当初の計画には、まるでなかったことがある。
――気がつけば、わたくしの隣に。
新しい婚約者が、一人、できていたのだ。
さて。フリのつもりが本番になってしまった以上、今度こそ、本物の恋人らしい所作とやらを、一から覚え直さねばなるまい。
ですから団長。今夜も、わたくしの練習に、付き合ってくださいませ。
……もう、フリでは、ないのだけれど。




