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第50話 異常成長として記録される迷宮

 その朝、ダンジョン新聞は、余の名をいつもより大きく載せていた。


⸻


【辺境低位迷宮・異常成長候補】


・迷靄洞

・主観圧の増加

・区画性質の自律化疑い

・配下個体への役継承傾向あり

・人間側の印を逆利用した事例を確認

・判断攪乱型迷宮として、危険度再評価を推奨


⸻


「……は?」


 余は白い部屋で固まった。


 まずい。


 かなりまずい。


 余が隠していたはずの成長が、新聞に載っている。


「管理音声」

《はい》

「これはどれくらいまずい」

《かなりです》

「具体的に」

《ロード側に“迷靄洞が普通の低位成長ではない”と知られます》

「うむ」

《人間側にも、類似した異常報告が伝わる可能性があります》

「うむ」

《専門調査対象になる可能性が上がります》

「……最悪だな」

《はい》


 余は新聞を握り潰したい気分になった。


 握る手はないが。


 異常成長候補。


 主観圧。


 区画性質の自律化。


 役継承。


 どれも、言葉だけならよく分からぬ。


 だが、分かる者には分かる。


 岐れの灯間。


 ミル。


 マネ。


 人間の印の逆利用。


 余が残響核の筋を探りながら育てているものが、表の評価に滲み始めている。


 これは危険だ。


 とても危険だ。


 そして、その危険はすぐに形になった。


⸻


【人間側動向・推測欄】


・迷靄洞周辺にて、町ギルドが専門調査班の派遣を検討

・想定構成:迷宮解析士、前衛護衛、術式処理役、斥候

・目的:迷宮構造の変化確認、および危険度修正


⸻


「来るのが早い!」

《評価上昇の結果です》

「嬉しくない!」


 叫んだ直後、余は息を整えた。


 落ち着け。


 いつものように、慌てるな。


 いや、慌ててもよい。


 だが、その後で盤を見ろ。


 専門調査班が来る。


 普通の冒険者ではない。


 迷宮を見るための連中だ。


 そして、今回は今までと違う。


 帰して評判を作る段階ではない。


 こやつらを生かして帰せば、岐れの灯間も、ミルも、役継承も、余の奥にある成長筋も、さらに細かく書かれる。


 それはまずい。


 ならば――


「管理音声」

《はい》

「今回は、殺す」

《了解》

「全員だ」

《了解》


 言ってから、少しだけ白い部屋が静かになった。


 殺す。


 その言葉に、以前のような戸惑いはなかった。


 迷宮に入った以上、侵入者は餌だ。


 敵だ。


 ソウルだ。


 余はロードであり、迷靄洞そのものだ。


 情報を持って帰る者は、特に危険な餌である。


「現在ソウルは」

《所持ソウル:62》

「少ないな」

《最近、区画強化と役付与に使用しました》

「分かっておる」


 62。


 心許ない。


 だが、だからこそ殺す意味がある。


 ソウルがなければ何もできない。


 場も育たぬ。


 配下も増えぬ。


 新魔物も呼べぬ。


 迷宮は、死を食って育つ。


「来るなら来い」

 余は低く言った。

「今日の迷靄洞は、帰さぬ」


昼過ぎ。


 外周の鼠が、四人組を拾った。


 先頭は重盾持ちの男。


 幅広の盾に、短剣ではなく短槍を添えている。止めるだけではなく、狭い場所で刺すための装備だ。


 二人目は斥候。


 足音が軽い。だが不用意ではない。細穴と天井と足元を順に見ている。


 三人目は女術師。


 火ではなく、灯り消しと浄化に寄った術式具を持っている。


 そして最後。


 記録板と細い銀針のような道具を持った男。


 あれが迷宮解析士だろう。


「……嫌な顔ぶれだな」

《はい》

「まさに専門調査班か」

《可能性高》


 四人は迷靄洞の入口前で立ち止まった。


 解析士の男が、記録板を開く。


「対象、迷靄洞。近時の報告により、判断攪乱型から主観圧帯同型への移行疑い」

「主観圧って何だよ」

 盾持ちが言う。

「迷宮の主の意志が、局所ではなく構造全体に滲む現象の俗称です」

「つまり?」

「見られている感じが強い迷宮です」

「嫌な説明だな」

「そのための調査です」


 余は白い部屋で、静かに目を細めた。


 知っている。


 こやつらは、かなり知っている。


「岐れの灯間の隠蔽は」

《完全には困難》

「ミルとマネは」

《配置可能。ただしミルは肩傷の影響あり》

「出す」

《危険です》

「出す。ただし、守る」

《了解》


 ミルを隠しすぎれば、岐れの灯間の性質が薄まる。


 だが殺されれば痛い。


 なら、場そのものを餌にして守る。


 それが今日の盤だ。


 四人が入ってくる。


 入口の湿り。


 鼠の気配。


 灯りの揺れ。


 全部を、いつもより控えめにした。


 相手は調査班だ。


 派手に見せれば書かれる。


 だから最初は、薄く、浅く、地味に。


 だが帰すつもりはない。


 喉元まで入れてから閉じる。


「グズ」

「ギィ」

「奥で待て。今日は前で吠えるな」

「ギィ?」

「吠えたら減点だ」

「ギィ……」


 分かっているかは怪しい。


 だが最近のグズは、少しだけ待てるようになってきた。


 頼むぞ。


 いや、頼るな。


 使え。


 ロードは祈らぬ。


 盤を組む。


調査班は強かった。


 最初の湿り帯で、斥候が足跡を確認する。


「踏み跡が残りすぎている。ここは誘導」

 術師が頷く。

「胞子臭、薄い。今日は抑えている?」

 解析士が記録する。

「迷宮側が見せ方を調整している可能性」

 盾持ちが舌打ちする。

「迷宮が調整するなよ」


 する。


 余はする。


 迷宮とはそういうものだ。


 四人は新小部屋手前まで進み、岐れの灯間の前で止まった。


 半分削れた白粉の印が、まだ壁に残っている。


 解析士の目が、そこで細くなった。


「これか」

「人間側の印が逆利用された場所?」

 斥候。

「おそらく」

 解析士は銀針を取り出した。

「この印の周囲、魔力残滓が変です。迷宮側に取り込まれかけている」


「……」


 余は、白い部屋で静かに奥歯を噛む気分になった。


 よく見る。


 非常によく見る。


「ミル」

「ギィ」

「まだ出るな」

「ギ」

「マネも」

「ギィ」


 解析士が一歩寄る。


 銀針で印を削ろうとした。


 そこでミルが動いた。


 余の命令より、半拍早く。


 印を守るためではない。


 解析士の視線を止めるためだ。


 灯りの縁に、ミルの影が浮かぶ。


「いた」

 斥候が即座に言う。

「ゴブリン」

 盾持ちが盾を上げる。

「動くな。あれが報告の個体かもしれん」

 解析士の声が硬くなる。

「ゴブリン個体と区画性質が結びついている可能性。捕獲か破壊を推奨」


 捕獲。


 その言葉で、余の温度がすっと下がった。


「管理音声」

《はい》

「あいつから殺す」

《解析士ですか》

「そうだ」

《最優先目標を設定》


 殺す順番が決まった。


 まず解析士。


 次に術師。


 盾は最後でもよい。


 斥候は逃がすな。


 こいつらは帰れば危険だ。


 生還者として価値がある段階ではない。


 情報を持ったまま外へ出ること自体が脅威だ。


 四人は慎重に岐れの灯間を調べ始めた。


 ミルは出すぎず、マネを抑え、印の横に影を重ねている。


 だが、解析士はそこへ踏み込んだ。


「やはり、このゴブリンが鍵だ」

「殺すか?」

 盾持ち。

「待ってください。先に役割を――」


 その瞬間、余は切った。


「鼠、後ろ」

《実行》

「灯り、落とせ」

《実行》

「グズ、右」

「ギィッ!」


 ゆら灯蛍の一群が、一瞬だけ暗くなる。


 完全な暗闇ではない。


 だが、見えていたはずのものが見えなくなる。


 解析士の視線が揺れる。


 その背後を鼠が切る。


 盾持ちは前を守った。


 斥候は横へ逃げた。


 術師は灯りを戻そうとした。


 解析士だけが、銀針と記録板を手にしたまま、半歩遅れた。


 そこへグズが横から飛び出した。


「ギィィッ!」


 棍棒ではない。


 投石。


 顔面ではなく、膝。


 解析士の膝が折れる。


「っ、ああ!」


 倒れたところへ、湿りが絡む。


 手をつく。


 壁がぬめる。


 記録板が落ちる。


 拾おうとする。


 その瞬間、ミルが見えた。


 解析士の視界の端に。


 見張る影として。


 迷宮の目として。


 解析士は、記録板を拾うか、身を守るかで迷った。


 その迷いが命取りだった。


「グズ」

 余は低く言った。

「殺せ」


 グズの棍棒が振り下ろされた。


 鈍い音。


 解析士は動かなくなった。


《侵入者一名死亡》

《獲得ソウル:41》

《所持ソウル:103》


 数字が白い部屋に響く。


 41。


 ソウル。


 迷宮の血。


 余の中に、熱いものが流れ込む。


「……これだ」

 余は呟いた。

「これが必要だった」


 殺して、得る。


 得て、強くなる。


 これが迷宮だ。


 余は忘れかけていたわけではない。


 だが、薄れていた。


 もう薄れさせぬ。



「解析士が落ちた!」

 術師が叫ぶ。

「引くぞ!」

 盾持ちが前へ出る。

「死体は置け!」

「記録板は!?」

「置けと言った!」


 よい判断だ。


 だが遅い。


 もう帰さぬ。


 その時だった。


 管理音声が、低く告げた。


《条件達成》

「何」

《迷靄洞の性質に適合する新魔物候補が解放されました》

「今か」

《今です》


 白い部屋の表示が開く。


⸻


【新魔物候補】


縫い影蜘蛛

必要ソウル:80

初期群:五匹


性質:影糸、短時間拘束、撤退路妨害

備考:暗所・揺光・主観圧の強い区画で効果上昇


⸻


「……」


 余は、一瞬だけ笑った。


 影を縫う蜘蛛。


 撤退路を止める魔物。


 今この状況で出るには、あまりにも出来すぎている。


「管理音声」

《はい》

「買う」

《所持ソウル103。消費80。実行しますか》

「実行」

《召喚》


 ソウルが一気に削れる。


《所持ソウル:23》


 だが後悔はない。


 岐れの灯間の天井。


 灯りと影の境目。


 そこに黒い染みのようなものが五つ、ぽとりと落ちた。


 蜘蛛だった。


 小さい。


 手のひらほど。


 脚は細く、身体は黒く、背に銀色の線が一本走っている。


 そいつらは音もなく壁を這い、ゆら灯蛍の光で生まれた影と影の間に、黒い糸を張った。


 白くはない。


 見えない。


 光の中ではなく、影の縁にだけある糸。


 縫い影蜘蛛。


「……よい」

 余は低く言った。

「おぬしらの初仕事だ。帰路を縫え」


 蜘蛛たちが散る。


 盾持ちが撤退しようと一歩下がる。


 その足が止まった。


「っ?」


 何もないはずの影に、足首が引っかかる。


 糸は見えない。


 だが動けない。


 ほんの一瞬。


 普通なら、一瞬で済む。


 だが迷靄洞では、その一瞬が死に近い。


「何だこれ!」

「影を踏むな!」

 術師が叫ぶ。

「影?」

「灯りを消して!」


 賢い。


 だが遅い。


 ゆら灯蛍は出口ではない。


 だが灯りだ。


 灯りがあれば影ができる。


 影があれば蜘蛛が縫う。


 術師が灯り消しの術を放つ。


 ゆら灯蛍が一群、散った。


 同時に、縫い影蜘蛛が二匹焼けた。


《縫い影蜘蛛、二匹消失》

「……構わぬ」

《残三匹》

「三匹いれば足りる」


 盾持ちは足を引き剥がした。


 だが、その間にグズが横から来る。


 盾で受ける。


 受けた瞬間、反対側の影を蜘蛛が縫う。


 盾を構えた姿勢のまま、重心が固定される。


「くそっ、動けん!」

「影の糸よ!」

 術師が叫ぶ。

「壁際に寄らないで!」


 壁際には苔。


 中央には湿り。


 灯りの下には影糸。


 戻り道は、もう戻り道ではない。


「ミル」

「ギィ」

「見せろ」


 ミルが、盾持ちの視界端に立つ。


 盾持ちはそちらを見る。


 見た瞬間、術師への注意が切れる。


 マネが出る。


 まだ下手だ。


 だが、今はそれでいい。


 数が増えたように見える。


 盾持ちは、誰を防ぐか選べなくなる。


「グズ」

「ギィッ!」


 今度は棍棒が頭ではなく、盾の縁へ叩き込まれた。


 盾持ちの姿勢が崩れる。


 影糸が足を縫い直す。


 倒れる。


 そこへ、ゴブリンたちが群がった。


 短い悲鳴。


 すぐに途切れる。


《侵入者一名死亡》

《獲得ソウル:57》

《所持ソウル:80》


「次」


 余は言った。


 自分でも驚くほど、声が冷たかった。


 だが悪くない。


 むしろ良い。


 これがロードの声だ。


残るは術師と斥候。


 術師は蜘蛛を警戒し、斥候は出口を探す。


 だが、出口へ向かうには岐れの灯間を背にする必要がある。


 背を向ければ、ミルがいる。


 足を急がせれば、影糸に縫われる。


 灯りを消せば、道が分からなくなる。


 灯りを残せば、影ができる。


「詰んでる……?」

 斥候が震えた声で言った。

「黙って」

 術師が汗を流す。

「影糸は燃やせる。灯りを消して、壁を避けて、湿りの薄い場所を――」

「どこだよ、それ!」


 良い。


 選択が多すぎる。


 そして正解がない。


 それが迷靄洞だ。


「蜘蛛、出口側」

《残三匹、移動》

「鼠、術師の足元」

《実行》

「マネ、吠えるな」

「ギ……」


 マネは吠えなかった。


 偉い。


 ミルが小さく鳴いて抑えたからだ。


 さらに偉い。


 斥候が走った。


 速い。


 さすがに足はある。


 だが走った先の影を、蜘蛛が一本だけ縫う。


 全身を止めるほどではない。


 足が、ほんの少し遅れるだけ。


 そこへ鼠。


 斥候の足が滑る。


 転ぶ。


「置いて行かないで!」

 斥候が叫ぶ。


 術師は振り返った。


 その判断は人間としては正しい。


 だが迷宮では遅い。


 仲間を見るか。


 出口を見るか。


 灯りを消すか。


 影糸を焼くか。


 どれも正しい。


 だから死ぬ。


「ゆら灯蛍、揺れろ」


 灯りが揺れる。


 影も揺れる。


 縫い影蜘蛛の糸が、術師の足元ではなく、術師の杖の影を縫った。


「なっ」


 杖が動かない。


 術式が半分で止まる。


 火が散る。


 その火で蜘蛛が一匹焼けた。


《縫い影蜘蛛、一匹消失》

《残二匹》


 だが、術式は崩れた。


 そこへグズが石を投げる。


 額。


 術師がよろめく。


 マネが今度こそ出る。


 下手だ。


 正面に出すぎだ。


 だが、術師はもう処理できない。


 ミルが視界の端。


 マネが正面。


 グズが横。


 鼠が足元。


 影糸が杖。


 選択が裂けた。


 最後は、ゴブリンの刃が届いた。


《侵入者一名死亡》

《獲得ソウル:63》

《所持ソウル:143》


 残るは斥候一人。


 斥候はもう、這うように逃げていた。


 出口は見えている。


 本当の出口だ。


 あそこまで行けば外だ。


 生きて帰れるかもしれない。


「……」


 余は一瞬、考えた。


 逃がせば、恐怖を持ち帰る。


 専門調査班の壊滅を語らせる。


 縫い影蜘蛛の存在も漏れるが、恐怖は広がる。


 殺せば、情報は閉じる。


 ソウルも入る。


 どちらだ。


 前なら、少し迷ったかもしれぬ。


 だが今日は、迷わなかった。


「殺す」


 情報を持った斥候は危険だ。


 縫い影蜘蛛はまだ手に入れたばかり。


 人間側に詳細を渡すには早い。


 それに、ソウルが要る。


 もっと要る。


「蜘蛛、最後の二匹。出口影」

《実行》


 出口の光が斥候の前に落ちる。


 その光が、彼の身体の影を長く伸ばす。


 蜘蛛がそこを縫った。


 斥候の足が止まる。


 あと三歩。


 あと三歩で外だった。


「いやだ、いやだ、いやだ……!」


 斥候が振り返る。


 そこにはミルがいた。


 マネがいた。


 グズがいた。


 だが、余が見せたかったのはそれではない。


 岐れの灯間の奥から、半分削れた白い印が見える。


 人間が残した印。


 迷宮が取り込んだ印。


 斥候はそれを見た。


 そして理解したかもしれぬ。


 自分たちは、入った時点で選ばされていたのだと。


「終わりだ」


 ゴブリンたちが斥候へ届いた。


《侵入者一名死亡》

《獲得ソウル:39》

《所持ソウル:182》


静かになった。


 迷靄洞の中に、四つの死体が残った。


 解析士。


 盾持ち。


 術師。


 斥候。


 専門調査班は、誰一人帰らなかった。


 代わりに、迷靄洞は大量のソウルを得た。


⸻


【戦闘収支】


開始時ソウル:62

解析士撃破:+41

縫い影蜘蛛召喚:−80

盾持ち撃破:+57

術師撃破:+63

斥候撃破:+39


現在ソウル:182

縫い影蜘蛛:五匹中三匹消失、残二匹


⸻


「……増えたな」

《はい》

「これだ」

《はい》

「殺せば、迷宮は育つ」

《はい》


 余は、死体を見下ろした。


 恐怖も罪悪感もない。


 あるのは収支。


 損耗。


 獲得。


 そして次の手。


「死体はどう使う」

《選択肢があります》

「言え」

《一つ、ソウル変換効率を高めるため完全吸収》

「うむ」

《二つ、入口外周に一部痕跡として配置》

「うむ」

《三つ、岐れの灯間の印場へ一部残滓を利用》

「……」


 余は少し考えた。


 全て吸収すれば効率は良い。


 だが、今日はそれだけでは足りぬ。


 これは専門調査班だ。


 全員未帰還になれば、人間側は騒ぐ。


 痕跡がなければ、何が起きたか分からぬ。


 それはそれで良いが、迷靄洞の恐怖を伸ばすなら、少しだけ残す価値がある。


「完全吸収は三体」

《はい》

「解析士の記録板だけ残す」

《どこに》

「岐れの灯間」

《はい》

「ただし読めぬように濡らせ」

《了解》

「人間が見れば、“ここで書こうとして死んだ”と分かる程度に」

《迷宮らしい処理です》


 記録板を、白粉の印の下へ置く。


 濡らす。


 文字を滲ませる。


 読ませない。


 だが、書こうとしていた事実だけは残す。


 人間の記録も、迷宮の印に変える。


 これが迷靄洞だ。


「縫い影蜘蛛は」

《残二匹。補充可能です》

「補充する」

《一匹あたりソウル16。三匹補充で48》

「やれ」

《所持ソウル:134》

《縫い影蜘蛛、五匹に回復》


 新しい蜘蛛が、影から滲むように生まれる。


 これで迷靄洞は一つ、明確に変わった。


 灯りと影。


 選択と拘束。


 迷いと死。


 帰れぬ帰路に、影糸が加わった。


・

・

・


その夜、ダンジョン新聞が号外を出した。


⸻


【号外】


・迷靄洞へ派遣された人間側専門調査班、未帰還

・現地外周に戦闘痕なし

・内部での全滅可能性高

・迷靄洞、危険度再評価を継続

・判断攪乱型に加え、“撤退封鎖系統”の発現疑い


⸻


 交流欄はすぐに騒がしくなった。


⸻


・“誰か”:迷靄洞、殺ったな

・“朽縄井戸”井守:おー、急に牙が出たね

・“玻璃宮の姫”:陰湿さだけでなく、ようやく殺意が伴いましたわね

・“灰冠のロード”:覚えたな。迷宮は評判だけでは育たん

・“赤泥蟻穴”:やっと喰ったか、湿ったの

・“迷靄洞”:迷わせるのは、殺すためである


⸻


 送ってから、余は静かに息を吐いた。


 短い。


 だが、今の迷靄洞にはふさわしい。


 迷わせるのは、逃がすためではない。


 怖がらせるためだけでもない。


 殺すためだ。


 そして殺して得たソウルで、迷宮は強くなる。


「管理音声」

《はい》

「余は少し、遠回りしすぎたな」

《はい》

「だが、戻った」

《はい》

「いや」

 余は窓の向こうを見た。

「前より悪くなって戻った」


 岐れの灯間には、濡れた記録板。


 半分削れた白い印。


 その横に立つミル。


 少しずれて真似るマネ。


 天井の影に潜む縫い影蜘蛛。


 そして湿りの奥で、グズが棍棒を担いでいる。


 迷靄洞は、もうただ帰りが嫌な洞窟ではない。


 選択を奪い、印を奪い、影を縫い、帰路を閉じ、殺してソウルに変える迷宮だ。


「……よい」

 余は静かに言った。

「とてもよい」


 その時、森側の外周で、微かな気配が動いた。


 フィルエだ。


 入っては来ない。


 ただ、遠くから迷靄洞を見ている。


 そして短い投函だけを寄こした。


⸻


【フィルエより】


“今日のは、迷宮だった。残るためにも、まず殺して生きて”


⸻


 余はしばらくその文を見て、短く返した。


⸻


【迷靄洞より】


“当然だ。余は消えぬ。そのために喰う”


⸻


 送った後、白い部屋は静かになった。


 だが、迷靄洞の中は違う。


 新しい蜘蛛が、影の中で糸を張っている。


 ゴブリンどもが死体の残り香に騒いでいる。


 鼠が記録板の周囲を走る。


 灯りが揺れる。


 ミルが見ている。


 マネが真似ている。


 そして余は、その全てを見下ろしていた。


 これが迷宮だ。


 これが余の成長だ。


 そして次からは、もっと喰う。

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