エピローグ
アストレア王を殺した、あの惨劇の城を後にして数ヶ月後。
帝都にそびえる軍事宮殿。重厚な黒鉄の玉座に深く腰を下ろすのは、帝国の絶対者ガルダス。その足元には、膝を折るミラとロジャーの姿があった。
「返事を聞かせてくれ。わしに仕える気になったのか?」
「皇帝陛下、一つ確認したいことがございます」
ミラは静かに立ち上がると、顔の右半分を隠していた長い髪を、指先でゆっくりと撥ね退ける。顕わになったのは、人の肌とは呼べぬ惨状だった。
熱を帯びて赤黒く盛り上がった肉芽が、波打つように右目を押し潰し、頬から顎にかけては炭化した皮膚と生々しい粘膜が不規則に混ざり合っている。瞬きをするたび、裂けた眼窩から黄色い体液が滲み、糸を引く。その悍ましき異形に、歴戦の衛兵たちですら胃の底を蹴り上げられるような不快感に襲われ、思わず顔を背けた。
「これを見ても……人間といえるのでしょうか? それとも……私は化け物なのでしょうか?」
ガルダスは眉一つ動かさず、至近距離からその『爛れた素顔』を凝視した。
「帝国にそんな境界はない。あるのはわしが作って来た歴史、そしてこれからわしが作る歴史、それだけだ」
玉座の間に沈黙が訪れる。その静寂の中でミラは俯き小刻みに震えた。
──ぷっ……あっはっははは!
歓喜の笑い声が、石造りの天井に反響した。彼女は再び、弾かれたようにガルダスに跪いた。
「その豪胆なご回答、心に響きました。この命尽きるまで、皇帝陛下に忠誠を尽くします」
だが、ロジャーはゆっくりと立ち上がった。
「……ボクは、遠慮いたします」
その視線は、感情を一切削ぎ落とし冷たく乾いていた。
「ボクは、前の主人を噛み殺した。弱い主であれば、また同じ悲劇が待っている。……そして貴方からは魂の不浄が煮詰まったような臭いがする……ボクの牙を、その澱んだ体で抑え込めるはずがない」
ロジャーは皇帝に背を向け、暗がりの出口へと歩き出そうとする。
「わしを見ろ。これは、わしが帝国を背負うために飲み込み続けてきた『歴史』だ」
ガルダスは軍服のボタンを一つずつ外すと、無造作に前をはだけた。そこには、人間を辞めた者にしか刻まれぬ呪いの記録があった。
胸の中央には、脈打つ心臓の代わりに鈍く光る巨大な魔石が埋め込まれ、そこから全身へ這うように、黒ずんだ魔導手術の縫合痕がミミズのようにのたうち回っている。さらに、不浄の『澱』が、紫黒色の血管となって浮き上がり、彼の肉体を内側から絶え間なく侵蝕し続けていた。
「食ってみるか? わしの肉を取り込んだ瞬間に、貴様の内臓は腐り落ちるぞ」
ロジャーはその、死よりも色濃い醜悪な肉体に、一瞬で魂を射抜かれた。
王女の歪んだ脚よりも、バッカスの魂の石像よりも、これこそが『地獄の真実』を体現した究極の姿だと直感した。
「……なんて、美しいんだ……」
ロジャーは夢遊病者のように呟き、その場に崩れ落ちるように跪いた。
「先ほどの失言、撤回させてください。……これほど美しい皇帝に仕えられるなら、ボクの魂が腐り果てても構わない」
「期待しているぞ」
世界が定めた人間の定義など、ガルダスの前には存在しない。
アストレア王は『利用価値』にそれを求めた。
ロジャーは『名前と仕事』のなかに自己を見出そうとした。
バッカスは『真実の石像』に己の魂を込めた。
王女は『妹への愛』を抱いて自らが人間であることを証明した。
ミラは『蹂躙する力』こそが家畜を脱する術とし生き抜いた。
彼らが掴み取ったそれぞれの定義は、果たして自身の救いとなるのか。
それとも、破滅へと誘う甘い毒に過ぎないのか。
多様な定義が飛び交うこの世界で、今、ひとつの物語が静かに幕を下ろした。




