第7話 泥犬の葬列
「……カ、カハッ……」
王の喉笛から漏れたのは、言葉にならない空気の音だった。ロジャーの牙は、王の傲慢ごと喉を噛み砕き、その命を容赦なく奪い去った。
だが、ロジャーの怒りは収まらない。死体となった王を、野獣のような鉤爪で幾度も、幾度も斬り裂いた。
「きゃぁぁぁぁぁっ!」
王の返り血を全身に浴びた第1王女が、喉を引き裂かんばかりの悲鳴を上げた。ロジャーは悲鳴をあげる少女を無視して、血に濡れた顔をゆっくりと妃へと向けた。
「……汚らわしい。なんて醜い獣なの。死んだ犬の方が、もっと賢く、忠実だったわよ!」
「……僕は、獣じゃない。名前がある……。王様から人権と共に授かった、大切な名前が!」
「ロジャーは昔陛下が飼っていた死んだ犬の名前よ。お前は最初から、人間ですらなかったのよ!」
ロジャーが人間であるための拠り所だった『名前』の正体、その意味が根本から崩れ去った。
「アァァァァァァァァッ!!」
感情の堤防が決壊したロジャーは、理性をかなぐり捨て、妃を文字通り『切り裂いた』。
次に、視線は車椅子から転倒した第一王女へと向かう。彼女の背にある白銀の翼。王が守り、慈しもうとした『完璧な美の象徴』。
ロジャーにとって、それがご馳走に見えた。
涎が垂れる、喉がなる。彼は知っていたのだ王女の味を。
「ひ、ひぃぃぃぃっ!」
ロジャーは少女の背に指を食い込ませ、その翼を根元から力任せに毟り取った。
「ぎゃぁぁぁぁぁぁー!」
ロジャーは翼を掲げると滴る血で喉を潤すと、口端からこぼれ落ちる鮮血さえも、彼は本能のまま長い舌で掬取った。
次に翼を『肉』として無慈悲に貪り食う。牙で肉を裂き、骨を砕くたびに、口内には禁断の悦びが溢れ出した。
惨劇の現場に、1人の女が音もなく現れた。フードを深く被り、顔半分を前髪で隠した女だ。
彼女は、血の海の中で立ち尽くす人狼を、値踏みするように冷徹に眺めた。
(……素晴らしいわ。この純度の高い憎悪、そして一切の躊躇がない暴力。帝国の『牙』として、これ以上ない掘り出し物ね)
「……見事な力だこと。ようやく、本当の姿を見せてくれたのね」
「誰だ……」
「私はミラ。あなたがその牙を剥く瞬間を、ずっと楽しみに待っていたわ、ロジャー」
割れた窓から冷たい夜風が入り込むと、女の顔を隠していた髪が揺れ、その素顔があらわになった。顔の半分に刻まれた、残酷な火傷の痕。
ロジャーは、その『醜い歪み』に目を奪われた。少女の翼よりも、石像の右脚よりも、その爛れた皮膚こそが、今のロジャーには美しいく感じたのだ。
「私はこの顔のせいで虐げられて生きてきたの、人ではないってね。……ねえ、ロジャー。あなたのその姿も、その牙も、私にはあなたが誰よりも誇らしく立派な『人間』に見えるわ」
ミラの声は、羽毛のように優しくロジャーの耳を打った。
「……僕を、人間と言ってくれるのか?」
「ええ。怯えて悲鳴をあげるだけの家畜たちよりも、自らの牙で運命を食い破るあなたの方が、ずっと『人間』らしいわ。……奪う力を持つ者だけが、この世界で『人』として生きる資格を持つのよ。……ただこの国は『異形』を『人間』と認めない。私と一緒に帝国へ行きましょう」
彼女の指先が、ロジャーの黒い剛毛に触れる。
ロジャーは、救いを求めるようにその手を取った。
彼には分からなかった。王がくれた『名前』という鎖が、ミラの『理解』という、より強固で見えない鎖にすり替わっただけだということに。
ミラは、縋りつくロジャーの頭を撫でながら、暗闇の先を見据えて微笑んだ。
だが、彼女の瞳の奥には、愛などひとかけらもなかった。あるのは、傷ついた獣を言葉1つで縛り上げ、死ぬまで戦わせるための冷酷な計算だけだ。
(さあ、行きましょう。あなたが帝国の最前線で、無残に使い潰されるその日まで――たっぷり愛してあげるわ)
2人の影は、夜の闇に吸い込まれるように消えていった。
* * *
後日。静まり返った城内には、惨劇の衝撃で昨日までの記憶が断片となり、どこか遠い瞳で車椅子に座る姉と、それをおぼつかない足取りで押す妹の姿があった。
左右で同じ向きをした不自然な脚を揺らしながら、妹はどこまでも優しく、壊れた姉を運んでいく。その歪な足音だけが、誰もいない廊下に虚しく響いた。
「お姉様……安心して、いつでも私が車椅子を押すから」
妹の言葉に、長女は静かに微笑んだ。翼を毟られ、地を這う身となっても、その瞳に宿る意志だけは死んでいなかった。
「ううん、いいのよ。……ごめんね、もう飛んであげられなくて。……でも大丈夫。あなたは、自分の脚でどこへでも行けるから」
姉が地獄を耐え抜き、身を削って守り抜いたのは、妹が自らの意志で歩むための『明日』だった。




