第5話 脳を溶かす国酒
完成当日。王室の衛兵とバッカスの怒鳴り合いは、工房の外まで響き渡っていた。
「今日は完成予定日だぞ! こんな間違った石像を王に見せられるか」
「この石像は何も間違っていない、信じぬなら王女のスカートをめくって確かめてみるがいい!」
激昂したバッカスが、頭を冷やすために中座した隙だった。
工房に残された、痺れを切らした衛兵の1人が、石像を睨みつけながら槌を握り直した。
「このまま王に見せれば、我々の管理責任を問われかねん。……おい、あいつが戻る前に、あの不気味な右脚を砕いてしまおう」
「ああ、名案だ。あんな歪な石、なくなって当然だ」
衛兵たちが嘲笑いながら、無防備な石像へと詰め寄った。その時、食事の後片付けをしていたロジャーが、その間に割って入った。
「やめろ! なぜ……、こんなに美しいものを壊そうとするんだ!」
「どけ、奴隷。この脚は『正しくない』ものなんだよ」
「違う! この脚の形は王女様の誇りなんだ」
ロジャーは石像の脚にしがみつき、叫んだ。
「……クソガキが。死にたいらしいな」
ロジャーは西の崖で第一王女に守られる妹の姿を思い出す。そしてその姿をかつて母に守られた自分と重ねていた。
(母さんはボクを庇い殺されてしまった……当時ボクは解決方法を知らなかった)
衛兵の槌が、容赦なくロジャーの細い背中に叩きつけられた。
──ドゴォッ!!
鈍い骨の音が響き、ロジャーの視界が仮面の中で火花を散らす。それでも少年は、爪を立てるようにして石像の脚を守り続けた。一度、二度、三度。執拗な暴行に血を吐きながらも、ロジャーは決して退かなかった。
妹を抱きしめる王女の姿。かつて自分を抱きしめた母の体温。それらすべてが、今、この冷たい石の中に宿っている。
この石像を壊されることは、自分の存在を否定されることと同じだった。
──仮面の奥の瞳が血走る。
(……今なら……ボクは解決方法を知っている)
戻ってきたバッカスが見たのは、血まみれになりながらも、決して石像から手を離さない少年の姿だった。
「わしの作品に、何をしているッ!!」
「お前が直さないからだ! 両方左脚で生まれてくるものがいるか! 国王陛下が怒るのも当然だ」
「黙れ、節穴め! そう生まれてきたのではない。腱の走りも筋の付き方も、左右で異なる。この右脚は、血縁者から移植されたものだ。」
「血縁者の脚だと!? 戯れ言を、その暴言、報告してやるから覚悟しておけ」
衛兵はそう吐き捨てて去っていった。バッカスは傷だらけのロジャーをそっと抱き起こす。
「……なぜだ。なぜ、ここまでして守った?」
バッカスは、ロジャーの肩を強く掴んだ。ロジャーは激痛に顔を歪めながらも、熱に浮かされたような瞳で石像を見つめた。
「バッカスさん……この綺麗な石像を壊すなんて許されるわけないでしょう」
バッカスは息を呑んだ。この少年は、自分さえ気づかぬうちに、この王宮がひた隠す『おぞましき真実』に愛着を抱き始めている。
「……お前はこの城にいてはいけない、わしがお前を買い取り連れ出してやる。……奴隷としてではない。わしの故郷で、1人の『人間』として生きるのだ」
夕刻、ついに石像が完成した。
現れた王は、これまでの不機嫌が嘘のように、粘つくような、慈悲深い微笑を浮かべていた。
「大義であったバッカス」
王は、石像の右脚を見ても不満1つこぼさなかった。
「報酬を渡す前に、友好の証として我が国自慢の『国酒』を与えよう。今夜は特別な宿を用意した。そこでゆっくりと休むがよい」
バッカスは誇らしげに胸を張り、王から酒を受け取った。帰り際、ロジャーと視線を合わせ、力強く頷いてみせた。
「最高の酒が手に入ったぞ、ロジャー。今夜、わしの部屋へ来い。お前の門出を祝おう」
夜。ロジャーは新しい人生への高鳴る胸を押さえて、バッカスの宿泊室の扉を開けた。
「バッカスさん、失礼し……」
だが、そこに広がっていたのは、夢見ていた光景ではなかった。
部屋の中には、鼻を突くような甘ったるい酒の匂いが充満していた。バッカスは机に突っ伏し、だらしなく身体を揺らしながら、虚ろな目でロジャーを見上げた。
「……おお、ロジャーか……。これは……本当に、美味いぞ……。脳が、溶けるようだ……」
バッカスの口角からは、絶え間なく透明な涎が垂れ、テーブルを濡らしている。
ロジャーが差し出されたグラスに触れようとした瞬間、彼の天性の嗅覚が、猛烈な『死』の異臭を嗅ぎ取った。
「……毒だ。バッカスさん、飲んじゃダメだ!!」
慌てて彼を揺さぶるが、男の焦点は二度と合うことはなかった。バッカスはただ、幼児のような無邪気な笑みを浮かべ、何もない空間を指差して笑い続ける。
王から贈られた毒酒は、バッカスの知性を無残に溶かした。
ロジャーの心の中で、何かが音を立てて砕け散った。
自分を『人間』として扱ってくれたたった一人の理解者が、王の毒酒で壊された。
(こんなの間違ってる、だから殺そう……ボクはそれしか選べない……)
壊れたバッカスの手をそっと握り、ロジャーは静かに立ち上がる。
仮面の瞳に宿ったのは、悲しみではない。漆黒の殺意だった。




