プロローグ
春の日、彼女と出会った。
あの時、俺たちはまだ五歳で、どこの学校にも通っていなかった。
近所の公園で、一人で砂の城を作っている彼女を見かけた。
半分だけ作られた砂の城のそばで、彼女は膝を抱えて座り込んでいた。どこか退屈そうに。
「ねぇ、名前は?」
何も知らない子供の俺は、ただ興味本位で話しかけた。
彼女は無垢な瞳でこちらを見て、ぽつりと答えた。
「ミサ…キ?」
「俺、セイジ。よろしくな。」
「うん!友達になってるしよう!」
「あぁ…(うん…)」
それが、俺たちの最初の会話だった。
彼女が小さな手を差し出してきたので、俺はそれを取って引っ張り、立たせてあげた。
何も知らないまま、俺はその小さな女の子と友達になった。
それから、俺たちはいつも一緒だった。
あの公園で、一緒に遊び続けた。
服が砂や泥で汚れることなんて日常茶飯事だった。
時には転んで怪我をして、泣きながらお互いを慰め合うこともあった。
そして、次の春。俺たちが小学校に入学した日。
あの日、俺たちは小さな約束を交わした。
「セイくん、これからずっと、一緒にしようね。」
「あぁ…!」
彼女は俺の手を引いて、先を歩きながら振り返る。
笑顔で、無邪気に。
まるで今のミサキと同じだった。
あの日の約束。
──だけど今の俺は、彼女に全く敵わない。
小柄な体とボーイッシュな見た目なのに、
どこか包み込むような優しさがあった。
ミサキはいつも俺のそばにいた。
励ましてくれるわけじゃない。
でも、甘えさせてくれる。
小学生の頃のミサキは、とにかく活発な女の子だった。
男の子と喧嘩することもあったし、状況が悪化すれば俺も助けに入ることもあった。
彼女は走り回るのが好きで、何度も先生に注意されたことがある。
罰として教室の掃除をさせられたことも。
でも、ミサキが掃除をしているときは、俺も手伝いに行った。
早く終わらせて、いつも通り一緒に帰るために。
毎日が楽しかった。
学校に通い始めても、俺たちはずっと一緒だった。
あの公園で遊んだり、どちらかの家でゲームをしたり、時には──一緒にお風呂に入ったりもした。
そう、一緒にお風呂。
何を考えていたのか分からないが、小学生の頃はよく一緒に入っていた。
中学に入ってからも、たまにやっていた。でも、小学生の頃ほどではない。
恥ずかしいという感情はなかった。
お互いに「見せちゃいけない部分」を、普通に見せ合っていた。
そんな穏やかな日々の中で、俺たちはよく一緒に勉強もした。
俺の家とミサキの家はそんなに離れていなかったから、通いやすかった。
一緒に勉強し、一緒にテストを受け、一緒に卒業する。
ミサキの成績は俺より少し低かった。特に英語は苦手で、まったくと言っていいほどできなかった。
そんな感じで、小学校を卒業した俺たちは、悠坂中学校に進学することにした。
家からはちょっと遠かったけど、評判のいい学校だったので、思い切って受験することにした。
ミサキは本当に必死だった。
朝から晩まで俺の家で勉強し、苦手な科目を克服しようと頑張っていた。
そして、合格発表の日。
俺たちは、家から二駅離れた悠坂中学校へ向かった。
「なんか…緊張するな。」
彼女の声は震えていた。
隣にいた俺の方を見て、目を動かしながら、うっすら涙を浮かべていた。
「大丈夫だ。絶対に受かってるさ。」
「やけに自信あるね…」
ミサキの挙動は明らかに落ち着きがなかった。
胸の前で手を上げ、無意識に指をもじもじさせていた。
駅に着くと、俺たちはホームを降り、改札を抜けた。
少し右に曲がり、歩道を進み、横断歩道の前で立ち止まる。
信号が青に変わるのを待ちながら、周りを見渡すと──俺たちと同じように、たくさんの人が並んでいた。
たぶん、みんな悠坂中学校の受験生だろう。
この有名な中学に合格しているかどうか、掲示板を確認しに来たのだ。
やがて、俺たちは校門の前にたどり着いた。
そのすぐ先、いや、正確には校庭に、大勢の人が集まっていた。
彼らの視線の先には、巨大な白い掲示板があった。
きっと、合格者発表のボードだろう。
「行こう?」
「…う、うん。」
ミサキはまだ緊張していた。
いや、むしろさっきよりも緊張しているように見える。
俺たちは人混みの中へ進んでいった。
「んん… 見えないな…」
ミサキの小さな声が聞こえた。
俺は後ろを振り返り、彼女の手を掴んで引っ張った。
「俺から離れるなよ。」
その一言が、何かミサキの中で引っかかったのかもしれない。
一瞬、彼女の体がピクリと震えた。
目を見開き、押し殺していた涙がこぼれ落ちた。
「うん…!」
彼女は俺の手を握り返し、ぎゅっと力を込めた。
そのまま、人混みの中へと突っ込んでいく。
周囲からは歓声が上がっていた。
合格した生徒たちが、友達と喜び合っているのだろう。
しかし、友達と一緒に来ている者は少数派のようだった。
ほとんどの受験生は一人でここへ来て、合格を願っていた。
その場には、様々な感情が渦巻いていた。
合格を喜ぶ者、涙を流す者──この場所には、希望と絶望が交差していた。
「えっと… 探そうか…」
ミサキが俺の隣で、受験番号を確認し始める。
合格者の番号は、小さい順に並んでいる。
だから、すぐに見つかるはずだ。
「…あった!」
ミサキが歓声を上げた。
俺は思わず彼女の方を向いた。
「本当か?」
「うん!」
俺もすぐに掲示板へ視線を戻し、自分の番号を探す。
……なぜか今度は俺の方が緊張してきた。
1桁ずつ、慎重に追っていく。
俺の番号は 77086──
77082, 77083, 77084, 77085…
──77086!
「やったぞ、ミサキ!」
自分の番号を見つけた瞬間、さっきまでの不安が一気に消えた。
俺は勢いよくミサキの方へ振り返り、両手を広げた。
「うん!」
ミサキも嬉しそうに俺の腕へ飛び込んできた。
気づけば、俺たちは指を絡めるように手を繋いでいた。
まるで──恋人みたいに。
「はぁ… 受かっててよかった…」
「ふふっ… あんなに自信満々だったくせに、私が先に見つけた途端、慌てるなんて。ほんと、面白いんだから。」
「ま、まぁ… 否定はできない。」
目が合い、二人とも必死に笑いをこらえた。
……いや、もう無理だ。
次の瞬間、俺たちは大声で笑い合った。
人混みの中、周囲の視線も気にせずに。
その後、家に帰るつもりだった。
──でも、結局すぐには帰らなかった。
せっかく来たんだから、と二人で学校周辺を歩き回ることにした。
気ままに歩きながら、周りを見渡すと、アイスクリーム屋やクレープ屋、それにカフェまで見つけた。
どれも学校からそう遠くない場所にある。
最初に立ち寄ったのはクレープ屋だった。
ミサキはストロベリー、俺はチョコレートを選んだ。
次に訪れたアイスクリーム屋では、二人ともバニラを注文。
最後に入ったのはカフェ。
ここでは、俺たち二人だけの時間がゆっくり流れていた。
こうして一緒にいると、時々話題が尽きることがある。
けれど、沈黙が気まずいわけじゃない。
──言葉なんてなくてもいい。
ただ隣にいるだけで、肩が触れ合うだけで、それだけで幸せだった。
「ねぇ、セイくん。恋って… 知ってる?」
「ん? それ、なんだ?」
ミサキは俺の右側、窓際の席に座っていた。
椅子のオレンジ色のクッションに寄りかかりながら、俺の肩にそっともたれかかる。
このカフェの椅子は二人がけで、隙間もない。
だから、俺たちは自然とくっついていた。
「んー… よくわかんない。でも、マンガで読んだことある。」
「へぇ… なんか面白そうだな。帰ったら貸してくれよ。」
「…うん。」
ミサキは目を閉じたまま、小さくうなずいた。
俺には、彼女がさっき言った「恋」がどういうものなのか、正直よくわからない。
でも──
もしかしたら、彼女のしているこの行動こそが、その答えなのかもしれない。