(32)比奈子、お見合いへ行く4
小鳩家から少し離れたところでタクシーを降りた比奈子は、振袖を着たまま、忍者のように辺りを見回し、吉田のおばちゃんに見つからないように、コソコソとご近所の塀に引っ付くように小走りで自宅へ入った。
「ただいま…、つかれた…」
リビングのドアを開けると、ソファに志乃が座っていて、声に疲れがハッキリと出ている比奈子は、そのまま志乃の横に倒れこんだ。
「あれ!? もう帰ってきたの? まだ五時前よ? ディナーしてくんじゃなかったの?」
志乃は、やつれかけている比奈子の顔に驚いた。
見合いの待ち合わせ時間は、午後二時だったはず、往復の交通時間を入れて計算すると、菊池と会っていた時間は一時間半にも満たない。
リビング続きの畳部屋にいた恒和が飛んできた。
「比奈子! よく無事に!!」 涙目だ。
「あれ、お父さん、今日競馬じゃないの? 最終日じゃん?」
ソファの上で、ダレたまま訊いた。
恒和は、比奈子のことが心配で競馬どころではなく、比奈子が出て行ってから部屋の中をうろうろ歩きまわり、志乃に「目障り」と畳部屋に押し込まれていた。
「ちょっと、もう、聞いてよ~」
ソファの上に寝転がった上体で、手足をバタつかせ、比奈子は見合い相手菊池の話を始めた。
カフェで菊池を確認した比奈子は、一瞬足を止めた。
なぜなら、コーヒーカップを持つ手の小指だけが「ピッ」ときれいに上を向いていた。
気にはなったが、別に大したことでは無いと、気を取り直し、声を掛けた。
ニッコリを微笑む菊池は、紳士的なステキな男性。
向い合うように座った二人はお互い自己紹介をし、菊池の趣味がスキーやスノボーなどウインタースポーツということがわかると、意気投合したかのように見えたが、比奈子がスキー場で失敗した面白い話をしたとき、菊池が笑ってくれた。
愛想笑いではなく、ありがたいことに、心の底から笑ってくれた……。
「んでね、お母さん。笑ってくれたんだ、菊池。でもね、それがね」
すでに菊地と呼び捨てなのだが、そのまま話し続けた。
「それがさぁ…」
******************
「――――ってなわけなんですよ~、菊地さん」
比奈子は、菊地に、楽しそうに言った。
「おーーっほっほっほっほぉっぉ~、おもしろいぃ~」
手を口の横に当て、大笑いをする菊地に比奈子の顔が固まり引きつった。
……ぇ? おほほ? ……おほほ、って…? …きくち、さん…
そして菊地は、ポケットから白いレースがついたハンカチをだし、また口に当て、うふふと笑った。
う、うふふ~…って…?
そして比奈子は、見てしまった。
ハンカチの端にピンクの糸で刺繍されていた、「のりまさ」という文字とハートマーク。
「……え?」
この人……
人様の趣味趣向にとやかく言うつもりはないが、比奈子は、大打撃な眩暈に襲われつつも、頑張って相手に合わせていた。
が、時間が経つにつれ、無理だった。
なぜか常に小指を立てている。
静かな美術館のカフェにこだまする「おっほっほほ~」という高笑い。
他のお客の視線が痛い。
口元を隠すようにあてるレース使いの白いハンカチ。
組まれた足は、少し横に傾けている。
見かけは美男子なのだが、比奈子には、この菊地則政は、もう、ホモオ田ホモ男にしか見えない。
ホモオ田ホモ男が悪いんじゃない。
よく言えば、彼は繊細な人なのだ。
心が素直なだけなのだ。
極めつけに自慢された。
『世界一、いや、この世の人とは思えないくらい、美しくて素晴らしい女性を僕は知っている』
それは、菊地ノリコ、菊地の母親、その人らしいことが、わかった。
この人は、母親思いなんだ。
そうなんだ、そうに決まっている…
自分の母親なんだもん、愛していて当たり前だよね?
私だって、あんな父・恒和だけど、好きだもん。
きっと、菊地さんってやさしい人なんだ。
そう思おうと、努力した。
比奈子は頑張った、よく頑張った。
だけど…
もう、無理です…私には無理です…吉田のおばちゃん、ごめんなさい。
心の中であやまった。
お茶をしたあと、絵を見ることになり、広いロビーに出たが、菊地が母親に報告すると言い、携帯を掛けだした。
「あ、ママ、うん、大丈夫だよ? かわいらしい人だよ。
うん、え? ん~、でもママはかわいいんじゃなくて、綺麗なんでしょ?
そんなの比べられないよぉ」
「……(なんなんですか…その会話は…)」
少しだけ離れたところで耳をダンボにしていた比奈子は、聞こえてくる菊地の口調と内容に、自分の顔がハニワになった感じがした。
感情もなにも今の私には残っていない…
魂が離れていく感じがするんですけど…
「うん、わかってる。ちゃんと寄り道しないで帰るから、うん、じゃぁねママ」
電話を終えた菊地は、比奈子のところに来た。
「では、比奈子さん、絵画の鑑賞でも参りましょうか」
静かな美術館だが、日曜日ということで、結構な入場者があり、みなじっくりと絵を楽しんでいる。
比奈子は、菊地の後ろに付いて、第一コーナー辺りから、三歩進んで二歩下がる作戦で、菊地との距離を少しつづ離した。
菊地は絵に夢中で、比奈子の存在を忘れたかのように、一点一点の作品を自分のペースで見て行く。
菊地が第二コーナーを回った辺りで、比奈子は姿をくらまし、急いで美術館を出て走った。
走りづらいので着物の裾を捲って、大股で美術館からなるべく遠くまで離れた。
吉田のおばちゃんには、いろいろと言い訳して断ろう…。
豊のお母さんにもせっかく振袖着せてもらったのに…。
比奈子は、一人ゲームセンターに入り、振袖を着た記念にプリクラを撮った。
一応笑顔でピースサインのポーズ。
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「……と言うわけなので、吉田のおばちゃんに適当に断ってぇ~、おかあさーん」
比奈子は志乃に拝み頼んだ。
「んがっはっはっはっはぁあああ~~~」
見合いがうまくいかなかったことに大喜びの恒和は、一人ご陽気に大笑いをしたが、
比奈子が嫌な思いをして、疲れてヨレヨレで帰って来たのに、「不謹慎だ」と、志乃にベランダに追い出され、内側からカギを掛けられ、しばらくの間、中には入れてもらえなかった。
ちなみに、この日の小鳩家の夕食は、顔から笑いが取れない恒和が「祝い寿司」と称し、三人で行きつけの高級すし屋に足を運んだ。
☆☆☆☆☆
前田家は、由美子を含め、一男、浩司も揃い、6人で店屋物で食卓を囲んだあと、
豊が、由美子を車で送りとどけ、家に戻って来たのは、10時を回っていた。
ベッドの上に寝転び、携帯を開いた。
発着信履歴から比奈子の名前を押すが、コールボタンは押せず、携帯を閉じた。
が、また開き、閉じた。
パタパタと幾度となく繰り返し、もう一度携帯を開き、少し澄ました顔の比奈子の顔写真をジッと見て、呟いた。
俺、何やってんだ?
俺には由美子ちゃんがいるのに…
* 切ない気持ちに気がつくと、もっと切なくなってどうしようもなくなる *