第九話 猿神
昔からこの地方で続いてきた生贄の儀式には、村ごとに異なる点と、そうでない点がある。異なる点というのは生贄が捧げられる場所のことで、生贄を家に置く村もあれば、禁域の近くまで連れ出す村もある。そして、共通点は連れ去られるまでの猶予期間。猿神が現れるのは、白羽の矢が立ってから三日後、太陽が最も高く昇る時刻と決まっていた。さらにもうひとつ、生贄以外の人間は猿神の前に姿を見せてはいけないという暗黙の了解が存在する。それを破ることは儀式の妨げと見なされ、祟りという名の粛清の対象となる。度が過ぎれば祟りは村全体に及び、それがまさに十年前の隣村の惨劇であった。
儀式の刻限が近づいていた。余市は一人、吾作の家の前に立つ。家の中には吾作の妻と娘の姿があった。生垣や小屋の陰には、吾作を始めとする十数名の男衆が武器になりそうな農具を手に身を潜め、屋根の上では富三や弥助たち数名が弓を携え周囲の様子を窺っている。蓑を着こんだ彼らの姿は、遠目には藁葺き屋根に同化して見える。それ以外の女子供や老人たちは皆、丘の上の境内から固唾を飲んで事の成り行きを見守っていた。
過去の事例から、猿神の現れる方角は見当が付いていた。奴らは毎回、禁域側の村の入口から堂々と入ってくる。そして生贄を攫い、我が物顔で村じゅうを闊歩し、禁域へと去っていくのだ。
そちらを見張っていた弥助の体がびくっと動く。
「ひぃ。き、来た」
屋根の上で別の方角を見張っていた者たちが一斉にそちらに寄る。まだ少し距離があるが、道の先から白い毛に覆われた生き物がのしのしと歩いてくるのが一同の目に留まった。それは紛れもなく猿神。初めて目にする者のほとんどは、その頑強そうな体つきに戦意を失いかける。そんな中、富三だけは勝機を感じていた。なぜなら猿神は、わずか一匹しかいなかったからである。しかも十年前に比べ、体はひと回り小さい。おそらくはまだ未成熟の個体、これなら何とかなると彼は確信した。
「敵は一匹だけ、しかもまだ若い。やれるぞ」
富三は小声で弥助たちを鼓舞すると、屋根のてっぺんに布のついた細長い棒を突き立てた。そうして手元の拍子木を一回打ち鳴らす。甲高い音が秋の空に鳴り響き、それは丘の上の境内にまで届いた。誰もが猿神の襲来に気付き、富三の立てた棒の数から、それが一匹であることを悟った。
拍子木の音を聞いた猿神は、立ち止まり周囲を強く警戒し始める。そして家の前に立ち塞がる余市の存在に気付くと、何度も苛立つように跳びはね、地面を叩きだした。それでも動じない余市に、今度は牙をむき出しにしながら威嚇の声を発し、じわじわと近づく。徐々に毛が逆立ち、目や肌の色が赤みを帯びた。
次の瞬間、一気に走り出した猿神が驚くべき速さで余市に迫る。直後、十間ほど手前で地面を蹴った猿神は、屋根よりも高く浮かび上がった。
吾作や弥助など、その場にいるほとんどの者はこの跳躍に気が動転した。なぜなら猿神が跳び越えた道の途中には、彼らが二日かけて掘った巨大な落とし穴があったからだ。罠の存在には気付いていないはず、だが結果として避けられてしまった。この動揺が人々の行動を鈍らせる。とっさに猿神の動きに反応できたのは、禁域での経験を持つ余市と、十年前の事件を生き延びた富三の二人だけであった。
猿神が地面を蹴った瞬間、二人は思った。所詮は獣、人より優れた知性などあるはずがないと。威嚇行動の時点で術の準備に入っていた余市の体からは、ゆらゆらと陽炎のような揺らぎが立ち昇り、屋根の上の富三も既に引き絞った弓で狙いを定めている。それらを気にもせず、空中へと身を投じた猿神を二人は愚かだと感じたのだ。一度地面を離れれば、空気以外に触れるものはない。つまり空中では回避行動はほとんど取れず、せいぜい手足をじたばたと動かすのが関の山である。
猿神の跳躍が最高点に達する直前、富三の指先から矢が放たれた。狙ったのは体の中心、手足をばたつかせる程度では躱しようのない位置だ。案の定、矢は命中した。猿神が苦痛の叫びを発した瞬間、今度は余市が動く。矢が一本命中した程度では、致命傷にならないことはわかっていた。彼は後方へ飛び退きながら、落ちてくる化物に向けて全速力で火の術を打ち込む。凄まじい炎が上がり、周囲に熱風が吹き荒れた。炎に包まれたまま、猿神は地面に落ちる。そして耳を塞ぎたくなるような叫びと共に、のたうち回った。
「今じゃ! 放て!」
富三の声に、弥助たちが一斉に矢を放つ。物陰から飛び出した吾作たちも、懐に忍ばせていた石を力の限り投げつけた。余市も手を休めることなく、炎の塊を全力で放ち続ける。
丘の上では、誰もがその戦いに目を奪われていた。そんな中、桃太郎は妙な胸騒ぎを覚える。項の辺りが少し痺れるような感覚。何かに導かれるように、ふと別方向に目を向ける。どくんと心臓が波打ち、桃太郎は目を見開いた。猿神が現れたちょうど反対側、余市や富三たちの遥か後方から凄まじい速さで近づく白い影を見つけたのだ。
その姿は紛れもなく猿神。群れで動くはずのこの生き物が、なぜか今回は別々に行動していたのだ。それを見た瞬間、考えるよりも先に桃太郎の体は走り出していた。丁寧に道を辿ってなどいられない。岩だらけの急な斜面を、驚異的な速さで駆け下りる。遠くで妙の声が聞こえたような気がしたが、彼は止まらなかった。力の限りの疾走、桃太郎にとっては生まれて初めての経験である。周りの景色が見たこともない速さで流れていく。長い呪縛から解き放たれたかのように、全身が躍動する。その開放感が内に秘めた力を呼び起こし、次第に体中が淡く白い光を纏い始めた。
やがて光は帯となり、新手の敵が吾作の家に到達する直前でそれに激突した。横から突如現れた光に、猿神は驚く間もなく弾き飛ばされる。その余りの衝撃に木々は折れ、石塀は崩れ、地面は抉られた。数十間先でようやく止まった猿神の体はあらぬ方向へと折れ曲がり、顔は潰れ、もはや動くことはない。桃太郎自身も初めて感じる強い痛みと疲労感によって、しばらくその場に膝を折る結果となった。
この轟音と地響きに気を取られたのは余市たちである。彼らは思わず音の方へと顔を向けた。一方、目の前の猿神から目を逸らさなかったのは富三と弥助の二人だけ。手負いの獣は追い詰めた瞬間が最も危険であり、傷を負わせたからといって決して油断してはならない。これは長い猟師生活により培われたものである。
猿神は、余市たちの一瞬のよそ見を見逃さなかった。全身が焼けただれ、至る所に矢を受けながらも、化物は最後の足掻きを見せる。猿神が腕を大きく振り上げた瞬間、既に富三の姿は屋根にはなかった。そこから飛び降りた彼は、勢いそのまま余市を突き飛ばす。直後、猿神の腕が低い風切り音と共に迫った。それは富三を直撃し、彼の体を木の葉の如く宙へと舞い上がらせる。富三は家の壁に激しく叩きつけられ、破片が辺りに散乱した。
誰もが息をするのも忘れたかのように、愕然とする。が、すぐに煮えたぎる怒りの形相を全員が滲ませた。
余市は叫びと共に霊力を帯びた手を猿神に突き付け、寸分の隙間もない距離から火の術を浴びせかける。弥助たちも屋根から飛び降り、狂ったように近距離から矢を射かけた。そしてさらに、吾作たちまでもが農具を手になりふり構わず突進していく。誰一人として怪我や火傷を気に掛ける様子はない。これには流石の猿神もひとたまりもなかった。断末魔の悲鳴と共に、ついに化物は力尽き崩れ落ちた。
「富三さん!」
余市は飛び付くように富三の元へ向かう。他の者たちも二人の周りに集まった。
「しっかり! 今、助けます!」
そう話す余市の手を掴むと、富三は血が溢れる口から声を絞り出す。
「もうええ、余市……。これは、助からん……」
「だめだ! 諦めては!」
癒しの術が万能でないことは、余市にもわかっている。だが、何もせずにいられるわけがなかった。彼は何度も繰り返し術をかけるが、やはり効果がない。富三の命の灯火は、もはや消えかけていた。これを助けられずして、何のための力か! そんな思いに余市は血が滲むほど唇を噛み締める。だが残酷にも癒しの光は徐々に弱まり、とうとう彼の霊力は尽き果ててしまった。
かろうじて意識を保ち続けてはいるものの、手足の感覚は失われ、余市の身体は小刻みに痙攣していた。富三はそんな彼に穏やかな眼差しを向けながら、最後の言葉を告げる。
「あとを……、頼む……」
丘の上から妙が駆けつけた時、余市の意識はすでになく、富三は息を引き取っていた。